表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

私は、その遠吠えに涙する

作者: はぐれ犬

 一年ぶりにこの山を訪れた。


 ーー懐かしい。

 変わらないこの景色を眺めていると、あの日の記憶が鮮明に蘇るようだ。



 早速、山小屋に荷物を置いて『ボンド』の墓へと赴いた。

 石と枯木を集めただけの簡易的な墓だったが、風や雪にも負けず、当日の原型をしっかりと留めていた。


 墓の近くには彼の足跡。


 彼もきっと、ボンドの眠るこの場所を頻繁に訪れているのだと直感した私は、ゆっくりと立ち上がって山の奥地を見渡した。

 そっと空気を包み込むように手を重ねて、遠吠えを真似て彼に呼びかける。


 雪に覆われた大自然の山奥で、できの悪い遠吠えが「私はここだ!」とこだまする。





 一年前ーー



 私はこの狩猟禁止区域の奥地にある山小屋で、野生動物の生態系に関する調査・観察・保護を目的として滞在していたことがあった。


 現在よりも少しだけ暖かい時期のことではあったが、それでも吐く息は白く、地面はぬかるみ、落ち葉や木々は所々雪に覆われていた。



 ある日のことだった。


 調査のために奥地へ歩を進めている時、地面に血が滴った痕と、片足を引きずったかのような動物の足跡を発見した。


 私はすぐに足跡の形状からこれが狼のものであると断定したが、しかし、この山における一昔前の調査報告書では既に狼の個体数はゼロとなっていたはずだった。

 

「生き残りがいた、のか……?」


 そう首を傾げるも、半信半疑のまま周囲を警戒しつつ、麻酔銃を握りしめて足跡を追った。



 小川が流れる比較的開けた場所に、怪我をしている一匹の狼が木の根元に寄りかかるように伏せていた。

 その隣には、同じような体高の別の狼。容態を気にするように怪我をしている狼の辺りを彷徨し、警戒心からだろうか、時折、周囲に視線を配る素振りを見せていた。


 私はしばらく様子を見るため、木陰に同化するようにじっと息を潜めた。 



 ほどなくして風が出てきた。

 辺りも少し薄暗くなって、狼の毛色が灰から黒のように見え始めた頃、突然、連れ添いの狼が怪我をする狼から離れていった。


 どこへ向かったのか?

 その時の私には、怪我をする仲間を見限った行動に見えた。


 このまま放置すると傷口が炎症を起こし、最悪、命の危険があると判断した私は、木陰から木陰へ、足元の枯木に注意を払いながら徐々に狼との距離を詰めていき、保護するために麻酔銃を構えた。


 今にして思えば、彼は突然いなくなったボンドを一晩中探し回ったことだろう。 

 しかしそれは後日談で、その時の私には彼の気持ちなど知る由もなかった。助けたい一心で眠らせた狼を担いで山小屋へと戻り、傷の治療に取りかかった。



 その夜、私はこの山にきて初めて狼の遠吠えを耳にした。

 山頂からだろうか、まるでスピーカーを通して鳴っているような綺麗な遠吠えだった。


 その遠吠えに、治療を終えて麻酔から目を覚ましたばかりの狼が反応した。

 落ち着きをなくしたように檻の中を右へ左へ徘徊し、遠吠えが聞こえる窓の外を見上げるように眺めていた。


 この狼を探しているのだろうか? 


 だとしてもだ、一度は見限って離れたくせに、今になって探すなんて身勝手なもんだーー私は独り言のように呟いていたが、私こそ身勝手なものだったと今にして思う。



 一週間が経った。


 それからも毎晩のように続く遠吠えを聞いて、私はようやく仲間がこの狼を探しているのだと確信した。

 しかし、未だ回復の兆しを見せない狼をこのまま野生に還すことは出来ず、もうしばらく治療に専念してもらおうと、保護の観点から狼を檻に入れ治療を継続した。


 そしてその夜、私はこの狼にボンドと名付けた。


 ボンドは一切、私に懐かない。

 そればかりか目が合えば威嚇、鋭い牙を剥き出しにして食事を与えるにも一苦労だった。


 しかし日を追うごとに妄りに威嚇することも少なくなっていった。

 狼は賢い動物だ。仲間ではないにせよ『この人間は敵ではない』と、ボンドなりの解釈だったのだろう。



 そして一ヶ月が経ち、ボンドの足はほぼ完治した。

 これだけしっかり歩行できるのならもう狩りに出ても問題はない、そう判断し、「ようやく仲間の元に還れるな」と食事をねだるボンドに呟いた。


 短い付き合いながら少しだけ寂しく思えたが、ボンドを保護してから一日も欠かさず鳴り響いた遠吠えが示す通り、彼には待ってくれている仲間がいる。


 寂しさよりもそれが嬉しかった。


 最後の食事をボンドに与える。

 もはや威嚇はない。

 大人しく伏せて食事を待つボンドの姿が、大きめの犬と違いを感じないほどになっていた。


 ボンドはいつも通り食事をする。

 私も檻の扉をいつも通り閉めた。


 そのときだった。


 毎晩のように鳴り響くあの遠吠えが、初めて夕暮れ前にこだました。

 ボンドは食事を中断し、耳を立てて即座に反応する。私も同じくらい反応した。

 いつも聞いている夜中の遠吠えよりもどこか緊迫感があるように思えてならなかったからだ。


 ボンドは檻の中で慌てるように旋回し始めた。

 落ち着きのなさはこの山小屋にきた初日のようだった。


 私は何か胸騒ぎがして、遠吠えが鳴り止まぬ外へと飛び出した。



 一発の銃声が遠吠えを掻き消すように鳴り響いた。

 すぐに無許可の狩人だと予測はついたが、体は瞬間的に固まった。

 すると、続いて二発目となる銃声が山を揺らした。

 二発目が発射されたということは、最初の発射では死んでいないということになる。

 焦りの裏側で冷静さがひょっこりと顔を出し、私は逸早くそう判断した。


 しかし対照的に、ボンドは冷静さを欠いているように見えた。

 牙を剥き、檻の中で今にも暴れださんとするほどの雰囲気だった。


 私は檻の柵を掴んでボンドに言い聞かせた。


「ボンド落ち着け!! 落ち着くんだッ!! お前の仲間はまだ生きているッ!!」


 しかし今のボンドには私の言葉は届かなかった。

 時間がない。

 このままでは狩人にボンドの仲間が射殺されてしまう。そう懸念した私は、ありったけの声で叫んだ。


「聞けボンドッッ!!!」


 私の声に一瞬だけビクッと反応したボンドは、ここで初めて目を合わせた。


「ボンド、お前の傷は癒えた。そして仲間もまだ生きている。だからお前は仲間の元へ急げ! 狩人の元へは私が行こう!」


 話しているとき、ボンドは真っ直ぐに私の目を見て逸らさなかった。

 伝わったのだ。人間である、私の言葉が。

 そう確信したとき、私は短い付き合いながらも初めてボンドに交友関係を感じた。


 檻の扉を開けると同時に、猛然と駆け出すボンド。


 山小屋を飛び出した辺りで一瞬だけこちらを振り返ったのはお礼のつもりだったのだろうか。それとも「狩人の方は任せた」と言いたかったのか、今でも定かではないが、どちらにしてもあのときの私は間髪入れず応えようとして駆け出していた。


 ボンドは鼻で仲間を追い、私は耳を頼りに銃声が鳴った方角へと急いだ。


 途中、狩人のものと思われる数人の足跡を発見し、これで迷うことなく奴等との距離を詰めることができると安堵した私は、初めて駆け出していた足を止め、足跡の方向を確かめるために辺りを見渡した。


 そのときだった。


 山小屋で聞いた銃声よりも遥かに近い距離で銃声が鳴り響いた。

 同時に、撃たれたときの獣の生々しい声が耳を貫く。


 私は蒼白したまま慌てて駆け出した。




「お前達!! ここは狩猟禁止区域だァァッ!!」


 視線の先に二名の人影を捉えたとき、私は保安官という身分ですらなかったが、冷静さを失って咄嗟にそう叫んでいた。


 人影は、雪に包まれた白の背景に滲んでいくように消え失せたが、私は尚も駆け出し、狩人が銃口を構えていた場所へと急いだ。




「…………」


 狼が倒れていた。

 腹部を撃たれ、血にまみれた狼が力なく地面に横たわっていた。


 ボンドだった。


 そしてボンドの隣には、あのときのもう一匹の狼がいた。


 仲間を撃たれて錯乱状態に陥っているのか、息を乱して近付く私に最大限の威嚇をし、それでも倒れ込むボンドからは離れようとせず、私を襲うか、逃げ出すか、その矛盾した両方の行動を取ろうとするかのように私との距離を伸び縮みさせていた。


 しかし私は、その狼には目もくれずに血にまみれたボンドの前で跪いた。


 ほんの僅かだが、やっと心が通じ合えた友の死に、目からは大粒の涙が溢れていた。

 とめどなかった。

 ようやく怪我が完治し、ようやく待ちわびた仲間と再会したというのに、こんな悲しい結末があっていいのかーーと。


 たったの一ヶ月、されど一ヶ月。

 私の勝手な思い違いかもしれないが、少なくとも、私にとってボンドは友だった。

 

 私は友の死に山の奥地でありったけの声を散らし、時間も忘れて泣き崩れた。



 

 数日後ーー


 私は現地の調査報告書をまとめ、山を降りた。

 滞在時間に期限が迫っていたためである。


 帰り際、一ヶ月間ボンドに使用していた檻の中のシーツを手にし、ボンドの墓に立ち寄った。

 現地で調達できる物と言えば石や枯木だけだったが、シーツが風で飛ばされぬようしっかりと固定し、ボンドが好きだった干し肉を供えた。


 すると突然、墓の木陰からあのときの狼が現れた。

 敵意は感じなかった。

 このとき私は、この狼がこの山で唯一の生き残りであると確信した。

 ボンドの死後、一度たりともこだますることのなかった遠吠えがそれを示唆していると思った。


 私は、供えたばかりの干し肉をその狼に差し出した。


「お前達は兄弟なのかもしれないな。体高も同じだし子供もいない、おまけに顔もそっくりだ」


 狼は干し肉に視線を落として大人しいものだった。


「ボンドが死んで辛いだろうけど、最後の生き残りとして精一杯生きてくれ。私はお前の兄弟にはなれないけど、ボンドとは友になれた。また必ずお前に会いにくるから、そのときはお前も私を友として迎えてほしい」


 狼は干し肉を咥えた。

 本当に、ボンドそっくりだった。


 私は彼の去り際に名前をつけた。『タイズ』だ。

 ボンドと同じ意味を持つ名前にした。

 二匹が兄弟というのは私の思い違いかもしれないが、二匹の『絆』は兄弟や血の繋がりを越えた本当の絆であったと思う。


 絆ーーボンドとタイズ。


 彼らは種の異なる私の友である。





 手を合わせてから墓に新しい干し肉を供えた。


 ボンドは天国で元気にやっているとして、タイズはあれから元気に暮らしているだろうか。

 そればかりが気掛かりとなり、何度も山頂に向かって下手くそな遠吠えを繰り返した。


 やがて太陽が欠け、あのときの夕暮れのような西日が墓や山頂を照らしつけた。

 私はタイズの無事を願いながら、ボンドに「またくるよ」と言い残して墓と西日に背を向ける。


 そのときだった。


「あ……!」


 私の背後、山頂の方角から、あの聞き慣れた遠吠えが美しく響き渡った。


 私の下手くそな遠吠えを掻き消すほど何度も、まるで「おかえり」と言ってくれているように何度も、私の胸を激しく打つくらい何度も、声が枯れるほど何度も遠吠えを繰り返してくれた。


 私は振り返った。


 咳き込むくらい大きく息を吸い込み、友として迎えてくれたタイズに向かってもう一度、遠吠えとも呼び難い、涙ぐんだぐちゃぐちゃな声を使って叫ぶ。


 私の下手くそな遠吠えとタイズの美しい遠吠えが、西日が射し込む山の奥地で交差した。



 ありがとう、タイズ。また会おう。

ありがとうございました

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 切ないストーリーですが最後のほうに救いはありました。悲話だけじゃないところがよかったです。 [気になる点] 大自然は誰がためにあるのでしょうか。フっとそう思わせてしまうんだね。 [一言] …
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ