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加速する男と放物線少女

作者: oooo

 ある朝、彼は腹部に感じる強い質量によって目を覚ました。まず、見えたのは今の自分と同じように地に転がっているゴミ袋だった。幸い初冬の一日だったから臭いはそこまで酷くはなかった。

 どうやらここはアパートのゴミ捨て場らしい、と彼は寝ぼけているため回転の遅い頭で察した。昨日は大学の同回生たちと飲み会があったのだ。きっと、頭も足も鳥になっていたが故に部屋まで辿り着けなかったのだろう。

 昼とも朝とも区別のつかぬ眩しい日差しが彼の視界を拒んだ。二日酔いに光は禁物である。彼は情けない声をあげながら、自身の眼を覆い隠した。


「先輩、二度寝しないでください。ゴミ収集のトラックがもうすぐきますよ。先輩はゴミと大差ないんですから、捨てられちゃいます」


 女性、というにはまだ幼い声で奏でられるえらく辛辣な言葉によって、彼は唸りながらも再び目を開けた。 

 もしかしたら、目覚めの時に腹部に感じた質量はこの女の子のもの。つまり、今自分は女の子に跨がられているるという大変淫靡な状況に横たわっているのではないか、と思ったからだ。俗に漏れず、彼は男だった。

 しかし、やがて落胆した。 


「……何ですか、その顔。可愛い後輩がわざわざ起こしに来てあげたというのに何か不満があるんですか?」 


 彼女は同じ大学の1回生だ。黒髪のショートカットという健全な髪にスラッとした面持ちで、背が低いこととそれに準じて胸が小さいことが特徴的な女性だ。

 別に見てくれは悪くないのだが、でかい(・・・)方が好きな彼としては多少落ち込まざるをえなかった。

 というか、腹に乗っていたのは彼女の鞄だった。


「起こしに来て? 寄り添ってくれたんじゃないの?」

「阿呆ですか、先輩? 私もここで寝ろと?」

「何を! 俺とともに一夜を過ごしたゴミ捨て場さんに何だその態度は!」

「はぁ……。時間を無駄にしました」


 彼女は本当に後悔しているかのように暗いため息を吐いたので、彼は苦笑した。


「まぁ、ともかく寒いので部屋に入れて下さい」


 それを聞くと、彼はグラグラとする頭を押さえつけながら立ち上がり、のそのそと歩き始めた。このアパートは最寄り駅まで5分、大学まで3駅と立地の面においては中々に優れている。

 建物はかなりの古建築だが、時折虫が湧くのと殴れば突き通るのではないかと思うほどに壁が薄いこと以外には彼もそこまでの不満はなかった。

 彼が毎日暇を過ごしている部屋は2階にあり、そこに登るためにはアパートの裏を囲むようにして付いている非常階段を登らねばならない。正規の階段は木製であったために雨風にやられて、腐り落ちてしまったらしい。

 明朝もしくは深夜に、足を置くごとにコツンコツンと鳴る鋼鉄の非常階段を登る時には注意せねばならない。下手に足踏みをして、壁の薄いアパートに金属音を響かせるとたちまち怒号が飛んで来るからである。

 一度怒鳴られたことのある彼女は、先輩である彼への辛辣な態度とは真逆のおどおどとした忍び足で階段を登った。


「やっぱり、ここの階段はスリル満点ですね」


 ど田舎とも都会ともいえない故郷から、ど田舎とも都会ともいえないここらへんに下宿してきた彼とは違い、彼女はこの世界に生を確立してからずっと、ここから二駅ほど離れたところにある一軒家に親と共に暮らしている。

 階段を闊歩(かっぽ)しただけで怒りの咆哮が耳に入るような生活をしたことがないのだ。もっとも、彼もここに来るまではそんな生活が実在するとはまるで思っていなかったが。

 彼らはお化け屋敷を出た後のように若干そわそわしながら、全く掃除がされていない薄汚れた廊下の隅にある部屋に入った。鍵は掛けない、というのが彼の危険を増長させるだけの特に意味のない主義だ。


「相変わらず汚い部屋ですね」


 何故か感慨を帯びた彼女の声を無視して、玄関で適当に靴を脱いだ彼は教科書やら何か数式が書かれたコピー用紙やらを堂々と踏みつけながら、ワンルームの中央に行った。そして、そのまま一晩中地面に寝てたことで汚れた服を脱いだ。


「あのですねぇ。先輩には羞恥心というものがないんですか? なかったとしても、私が先輩のふにゃふにゃ腹筋を見せられたくないのでやめてほしいんですが」


 最早見慣れている彼女は眼を逸らそうともせずに呟いた。


「そういうなよ。……ほら、これあげる」


 しかし、簡単に否定した彼は脱いだ服を彼女に手渡そうとした。要は洗濯してきてくれと言いたいのだろう。


「いりませんよ。渡すなら『幸福の王子』みたいに宝石を下さい」

「ふっ。ついに俺が常に身に纏っている宝石を渡す日が来たか」

「いりません。全部ゴミです」

「ひどいなあ」


 自分が悪くことが分かっている彼はまたもや苦笑を浮かべながら、床に落ちている教科書類を集めてくれている彼女にお礼を言うと、まだ洗っていない洗濯物の上に服を置いた。

 当然、洗濯機はこのアパートに存在しない。もし、あんなガタガタと音を立てるそれをこのアパートで使ったとしたら、四方八方の壁に穴が空くことになるだろう。


「そういえば、そろそろ大学に行った方がいいですよ。(くすのき)教授が『いい加減に落第させるぞ~』って怒ってましたから」


 彼は理学部数学科の三回生に属している。1浪も――まだ――1留もしていないので、やっと二十歳になったばかりだ。因みに彼女は同学部同学科の一回目で18歳だ。

 楠とは代数学という知る人ぞ知る難学問を専攻にしている教授だ。詳しい話は聞いたことがないが、偶にアメリカへとフライハイするくらいには優秀らしい。

 レオンハルト・オイラー好きで高校生の頃からオイラーの公式を元手にシャープペンシルを転がしていた彼は解析学、さらに複素関数論については何とか、ギリギリ着いていけている。

 しかし、ガロア、アーベル、デデキントなどが名を連ねる代数学においてはそうもいかない。抽象化に次ぐ抽象化。そして、理論は何とか扱えるものの論理は全く分からない概念の数々に彼は辟易を隠せず、やがて講義に出るのも億劫となってしまったのだ。


「これなら物性実験に進んだほうが楽だったのかな、とか言ったら物理学科のやつらに殺されるか」

「まぁ、あそこは半日間休まずずっと実験、とか珍しくないですからね。その点、数学科は理解すれば遊び呆けてられるからいいですね。先輩は物理好きなんですか?」

「遊べるは言いすぎだけど、機械科とか電気電子科とかと比べたらそりゃあね。物理? そうだな、前までは数学第一だったけど、今では物理も結構好きだ」

「先輩が得意な関数系多いですもんね。特に微積とか」

「微分方程式を関数だっていうのは少し違和感があるな……。関数方程式だけど」


 しばらく物理談義に花を咲かせていると、やがて彼女は「帰ります」と告げて立ち上がった。


「ともかく、月曜日には絶対に大学に来ること! 私は3留した先輩から『先輩』と呼ばれたくないですからね」

「素直に『先輩には輝いていてほしいです』とか言ってくれば、まだ可愛げもあるのに」

「……先輩を素粒子加速器に乗せて光らせたいです」

「こわいな」


 彼女は適当過ぎる彼の反応を睨みつけながら靴を履くと、玄関の扉を閉めた。

 彼は時計を見たが、まだ8時にもなってないようだった。


「土曜日だし、もう一眠り、と」


 きっと、この光景を彼女が見たとしたらどんな罵倒を投げ掛けてくるのだろうか、と彼は横になって目を閉じる時に思った。


―――――


「信じられません。まさか一昨日言われた忠告を無視して、徹夜でゲームをやり込むなんて。もしかして、罵られ目的の変態でしたか?」


 半ば絶句しながら、藍色のジーンズを履いて、肌色のコートを着込んだ彼女は言いました。現在、彼らは電車で大学へと向かっている。

 日曜日、彼は彼女が言っていたことを忘却の彼方へと送り、もうかれこれ5年は続けているネットゲームをせこせことプレイしていた。そこに彼女がやってきて「大学に行かないとアパートで暴れ回りますよ」と脅されたのだ。


「いや、イベントで寝るのは脆弱極まりない……」

「既にフラフラなのによくそんなことが言えますね。大学に寝に来た、という風にならないといいですが」

「まぁ、今日は3限からだから、2、3時間くらいは寝られるだろう」

「どこでですか? 近くに漫画喫茶の類はありませんが」

「サークル」

「……えぇ、あそこで眠るんですか? 五次方程式を解くよりも難題ですよ、それ」


 彼女はミステリー研究会に、彼は「冷凍みかんをミシシッピ川で煮込みうどんにする人はセンスがある」サークル、通称レミニセンス部に所属している。

 名前からして、怪しい雰囲気が漂っているがその通りである。構成員は彼を含めて5人。実はその名前は非公式で、正式名称は歴史研究会である。

 何故、そんな歴史もへったくれもない名前があるかというと、これは大学には2つ「歴史研究会」があることを知ったレミニセンス部の部長、葉藁忍(はわらしのぶ)が「じゃあ、皆で一つ言葉を持ち寄って俗称を定めよう」と言い出したからだ。

 その結果、


「冷凍みかん」

「ミシシッピ川、いやルビコン川のほうが……」

「煮込みうどんが食べたいッス!」

「センス!」

「え!? えっと、あの、えっと」


という支離滅裂な言葉たちが絶対に起こしてはいけない言語反応を起こした。因みに彼は一番最初の「冷凍みかん」である。

 レミニセンスとはインターネットで調べてみると、情報を覚えた直後よりも一定時間経った時の方が記憶を想起しやすい、という意味の心理学用語らしい。もっとも、レミニセンス部の活動にそれの意味は全く関係ないが。

 基本的に麻雀とゲームと読書くらいしかしていないからだ。歴研という名前を捨ててしまった結果、何もやらないサークルになってしまったのだ。


「まぁ、うちの大学、何故か歴史の講義が1限に多いから数は少ないだろう」

「一応、歴史学専攻の集まりなんですよね……。あそこ」

「例外は俺一人くらいだな」

「そうですよ。数学科なんですから、暗号解読サークルとかに入ればよかったんじゃないですか?」

「そんなサークルの名前は初めて聞いた……。というか、変なサークル多すぎだろう」


 大学とは多くの場合、高校以下の教育施設よりも生徒数が多いので、変人の絶対数も増加するのは仕方がないことだ。

 ともかく、彼と彼女は十数間の輸送時間を雑談に費やした。


―――――


 冷たい目の彼女から「寝過ごさないでくださいね」と釘を差された彼は眠たげな目をこすりながら、広い大学内を歩いた。

 大学生がこの時間から元気だと「あ、昨日は誰からも飲み会やらに誘われていないのだな」と思われるからなんて陳腐な理由からか、単純に眠さからかは分からないが、やたらと顔を下に向けてトボトボ歩いている者が多い気がした。

 恐らくもう寒いからだろう、と簡単に結論を導き出した彼は風の凌ぐために本館へと入り、サークル部屋がある東館を目指した。


「げ」


 ずぼらで怠惰な生活を送っているように見える彼でも、意外に知り合いは多い。大学に入ってから、時にレミニセンス部の変人たちに囲まれ、時に数学科の亡者たちに囲まれ、時に教授たちに囲まれ、としてきた彼は二次関数的に知人が増加していったのだ。

 その理由が愛嬌なのか会話力なのか変人故の魅力なのかどうかは大学始まって以来の謎と一部知人の間ではされており、その噂を聞いた一人狼が時折お悩み相談をしにくることもある。

 彼にとっては迷惑極まりないが、この人脈で割りと試験などが何とかなっている面があるので侮れない。

 ところで、今回このような「嫌なもん見ちゃったぜ」とでも言いたげな反応をしたのはミステリー研の部長三田優である。一見して男女の区別がつかない名前をしているが、れっきとした女性である。


「出たな。レミニセンス部!」


 彼を指差しながら、三田は言った。彼女は実に豊か(・・)であり、黒髪のロングであることも相まってかなり彼の好みだったが、残念ながら嫌われているようだ。

 何故こんなにも三田が彼、というよりレミニセンス部を敵視しているかというと、きっとこの前の共同部誌制作が原因であろう。

 ある日、葉藁が突然「ミステリー研と共同で部誌を作ることになった」と言った。

 部誌とは読んで字の如く、部活単位に発行する雑誌のことである。例えば、推理研――次回以降はこう呼ぶ――ならば部員がそれぞれ書いてきた短編推理小説を乗せるなどだ。

 さて、レミ部とミステリー研がはて何を共同するのだろうか、と彼は思ったものだった。

 「歴史的要素、今回はとりわけ文学史をテーマとした連続殺人事件」というのがコンセプトであった。

 壮大で批判は出たものの、いざ完成してみると、彼の数学的思考、推理研の読書経験、そしてレミ部の独創性が奇跡的に噛み合わさったことにより、そこそこのものができた。他の学生にもそこそこ好評なようで、続編を待ち望む声もあるようだ。

 さて、ならば三田が彼らを嫌う理由はないはずである。上の話は極々健全な時間の有り余っている文系大学生と怠け癖のある数学科生徒の創作物語といっても差し支えない。

 しかし、現実はそうではなかった。いや、嘘は言っていないのだが全く語っていない部分がある。

 鼓舞のために流された下手なリコーダーの演奏、突然踊りだす女性、チラと原稿用紙を覗き込んでみたら漢字だけを用いた風景画が描かれていた、云々かんぬん。……まぁ、深くは語るまい。

 あまりに深淵を知ってしまって、過激な陰謀論者になるのは諸君の臨むべきところではないだろう。

 

「やぁ。三田さん」

「……君が大学にくるとは珍しいな」


 彼はレミ部ではまともに属するので、三田は語調を弱めた。


「大学生だからな」

「私たち文学部よりも暇してるんじゃないか?」

「数学科はそういうものだ」

「……ホント、君がレミ部に入ってなかった一体あの部誌はどうなっていたことか」


 三田は感慨に浸りました。要は日本語が通じることに感激しているのだろう。この後すぐ時計の長針が60分を上回ったので、彼女はすぐに別れを告げて去っていった。

 大学の講義は基本的に90分だからやはり一時間くらいは寝られるだろう、と見積もった彼は再び1限目が始まったので、途端に静かになった大学内を歩いた。


―――――


 東館の外れの外れ、大学を一つの世界に例えたとしたら、およそ極東に属するレミニセンス部の部室付近の廊下はまるで流刑所のような有様だった。

 現在とあるくだらない事件のおかげで食堂が封鎖されてるので、普段はそこに集まっていたサボり学生がぞろぞろと教室が少ない東館に集まってきたのだ。

 しかし、彼はゴールドラッシュの如く各地から集まってきた学生を無視して、部室に入った。

 さて、その部屋の様子に関しては何とも書きづらいものがある。

 ここは大学の一部屋、即ち公的、あえて英語で言うならばパブリックスペースなわけだが、何故か私的空間である彼の自室よりも様々なものが散らかっていた。その様相は比喩で表してみるならば、「レミニセンス部は複雑怪奇」と言い残して内閣を総辞職してしまうほどである。

 麻雀牌、象形文字にしか見えない何らかの言語が描かれたルーズリーフ、『後ウマイヤ朝』と大文字が見えるレジュメ――あまりこの言い方は彼の好みではないが――、古いスポーツ漫画や表紙に女性の裸体が描かれている官能小説、使い捨てのカイロ、などなど。一言で言うと、掃き溜めであった。


「あ、来たんスか」


 一応、部屋の奥に置かれている背の低くて大きい机と横長のソファー周辺はある程度片付いていた。今彼に話しかけてきた青年のおかげだろう。

 その青年は硬派ということで世間一般に評価付けられているこの大学の学生の風上にも置けない金髪を所持している。もちろん、地毛などでは毛頭なく染めている。お察しの通り、レミニセンス部の部員で姓は佐波(・・)という。名は覚えていない。


「久し振りッスね」

「相変わらず、百鬼夜行が徘徊しているな」


 彼は部屋を見渡しながら、言った。 


「俺は物食ってるだけッスからね。あの三人みたいに散らかしてないッスよ」


 そう言って、佐波は机に置いてあったカップラーメンを持ち上げた。まともに日本語が通じていることからお分かりかと思うが、佐波は彼に次いでまともである。

 欠点らしい欠点といえば、飲み会時悪酔いがすぎるところ、常に何かを食べていないと腹の減るという七つの大罪に含まれているかのような食欲、気分が悪くなると暴れ回るところ、恋人を一月毎にとっかえひっかえしていることくらいだろうか。

 

「お前、いい加減にしないと将来、塩分過多で血管が爆発するぞ。ガム噛めって言ってるだろう」

「短く太くが座右の銘なんでかまわないッスよ。ガムは先輩の忠告通り、噛んでみましたけどやっぱ駄目ッスね。俺はもうこれがないと落ち着かないんスよ、コッテリ豚骨塩味噌ラーメン」


 佐波は文学部に所属している二回生だ。コッテリ豚骨塩味噌ラーメンとは巷の、都会で石を投げれば必ず当たるほど大量にいるラーメン評論家から「ラーメンに対する冒涜だ!」と評されているインスタント食品である。名の通り、豚骨と塩と味噌を全て混ぜた様な味をしている。

 彼は「そんなチキンカツカレーオムライスみたいなカロリーの化物を食い続けると……」と忠告しようとしたが、もう既に佐波がおどろおどろしい色付きをした麺を口に運んでいたのでやめた。食事状態になると、佐波は誰の話も聞かない。きっとすぐ真横で音速を越えた戦闘機が通り過ぎたとしても気付かないのだろう。

 彼はため息を吐くと、床に転がっていたゴミの類を盛大に退かすと床に寝転んだ。少しホコリが舞ったのがハウスダストアレルギーの彼には苦痛だったが、徹夜の疲労も相まって比較的すんなりと眠りに落ちることができた。


―――――


 さて、3限『代数学』と4限『幾何学』については割愛しよう。それは教授の眠たくなる声と限界に達しようとしている頭を抱えている彼しか語ることがないからである。

 彼が落ち込みながら、トボトボと帰路に着こうとしたその時、


「先輩っ!」


と後ろから彼女が声を掛けてきた。


「どうしたんだ? いつもならインド哲学やら進化経済学を学ぶために6限まで残るのに」

「今日はちょっと疲れたので、ちょっと消失しちゃおうかな~、と。試験はまだ簡単ですし」

「で、そのまま俺コース?」

「先輩みたいなだらしない駄目人間にはなりませんよ!」


 彼女は顔を赤くして怒った。そう罵られることに慣れている彼は特に気にせず、構内を歩いた。

 大学から徒歩10分のところに古い駅がある。現在は度重なる工事によって中々に綺麗なものだが、彼が大学入試を受けに行った三年前はまだ酷いものだった。天井が落ちてきそうな駅とは彼も初めてだった。


「今日は歩いて帰りませんか?」

「俺のアパートまでは3駅あるのを知っての発言か?」

「……察しが悪いですね。今のは『今日、私の家に寄って行きませんか?』という意図が含まれていたんですけど」

「察せるか。君の家に行くはいいけど、何かあるのか?」


 彼女は人差し指を口に当てて、


「秘密ですっ」


と透き通るような声で言った。その仕草に何とも言えない可愛らしさを感じた彼は字面通り何も言えなかった。


―――――


「で、これは?」


 家にまで着いていき、二階にある彼女の部屋に入った彼は目の前に差し出された紙類の束を指して、言った。当然、彼女が渡そうとしているものだ。

 表紙には『ランチェスター戦略』やら『初等関数について(仮題)』、『ビザンティン建築』などと書かれていた。明らかに課題の類だろう。

 すべてを察した彼の表情を見た彼女は、


「てへっ」


 舌を出し、自分の頭に拳を乗せた。

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