ⅳ - 焼き付ける双眸
別視点⇒「台頭」
1615年の2月、ボクと“彼女”は二人揃って道化鏡となった。
互いに亡霊として出逢い、以来ボクたちはクレメンス邸から離れて街を彷徨っていた。そしてたまたま戻ってきたときに、この意識が一気に吸い寄せられて……気が付けば、という感じだ。道化鏡になるとき、二人に一人はそれまでの記憶を失うのだが、ボクたちは二人とも、忘れたりしなかった。造られてすぐに――父親の顔を見るよりも先に、ボクは“彼女”の手を引いて地下を駆け抜けた。
“あの日”のために地下の構造を完璧に覚えていたので、迷うことはなかった。ただ、裸ではまずいので、少し寄り道をして、逃げ切れず行き倒れた子供から服を剥ぎ取って身に着けた。そのうち後ろから誰かが追いかけてくる気配がしたので、裏庭に抜けてからも全速力で逃げた。自分でも驚くほど、早く走れた。
ボクが“彼女”に生前の立場を打ち明けたのに対し、“彼女”は生前の名前を捨てたという。だから仮に“同族”などと呼んでいたが、道化鏡になってしまったからには、自ら名前を名乗る権利もない。誰かに服従し、施しを受けるしか、“生きて”いく道がないのだ――“生きる”という表現も、適切かどうか疑わしいが。
ずっと一緒に行動しているうちに、ボクと“彼女”の間には同胞のような絆が芽生えた。死んだときの年齢も互いに近かったので、ボクたちはやがて、“双子”として暮らしていくことを決意した。そうしていた方が、引き離されにくいだろう。
ひとまず、ボクたちは隣の町で最初の“主”を見つけることができた。中年の男爵とその夫人――ボクの家より格下だ。
しかし……権力者一家の御曹司から成り下がったボクにとって、道化鏡としての生活は想像を絶するものだった。ミスをしたときの仕置きは、かつての父親と同程度かそれより軽かったので耐えられた。ただし…食器にこびりついた、他人が食べた残骸を素手で洗い流したり、ペットの排泄物を処理したりするのが、この上なく苦痛だった。どうしてこんなに汚いモノをこのボクに触らせるのだ。何より、ボクの話す言葉が上流階級なまりだったので、何もしていなくても、“生意気な…!”と殴られることがしばしばあった。
そして、そう長くないうちに、この主から“契約”を切られた。以後、ボクたちはさまざまな主を転々とすることとなる。
主によって、すぐに手を上げる人、怒鳴る人……程度もさまざまだったが、少なくともボクたちのことを尊重してくれる主など、一人もいなかった。強いて言うなら…少し男色というか、そんな感じがした人は多少大事にしてくれていた…のだろうか。これに限ってはボクが故意に失敗を積み上げて、無理やり縁を切った。怖かった。
ただ、“彼女”の方が過酷だったかもしれない。主となる人は大抵、その家の当主だったり後継者だったり…とにかく、男である。
ボクたちは主によって、名前と姿を授かる。これは完全に主の好みに任されるので、ボクは醜い少年にも、美しい青年にもなったことがある。ただし、どんな姿になっても働く内容にはそこまで差がなかった。でも、“彼女”は、主が女好きか女嫌いかで仕事も大きく変わった。要するに、そういうことである。主の男たちは、姿を変えられるならば中身が10歳前後の少女でもお構いなしということなのか。とんでもない。
ボクは初めて“彼女”に出逢ったとき、“純潔を守ってあげる”と約束してしまった。だから、“彼女”がそういう危ない目に遭いそうになったときは、ボクが主に殴りかかった。もちろんこんなことをしたら即日クビになったけれども、それでどうにか、“彼女”が穢れることは防げている……一応は。一応だ。というのも――ベッドの上で、服を剥がれた“彼女”に今にも事がなされそうになっていた…ということがあったからである。この現場に乗り込んだときのボクには確かに殺意があった。殺してはいない。
でも、これが“彼女”のトラウマになり、これ以降ボクたちは主がいない状態が続いた。“悪いことをした”と謝ったら、“彼女”はあっさり許してくれたが……“彼女”の方が、申し訳なさそうだった。
それでも、ボクと“彼女”はどちらも魔力を持つ血を引いていたからか、その分エネルギーの消費が少ないように感じられた。よって、主がいなくても、しばらくは生きていけそうだった。
最後の主に首を切られてから、数年ほど経っていた。確か今年は…1625年だったか。もしボクが生きていたら、家を継いで、子供もある程度大きくなっていただろう。おそらく今は、あいつかアイザックが継いでいるだろうけども……10年前、ボクたちを造ったのは、父親だった。あの家では、家督を譲った者も研究室には入れなくなる。10年前の1615年でも、あいつは34歳、アイザックは26歳。とっくにどちらかが当主になっているはずだ。どういうことだろうか。
そんなことを考えながら、またこの街に帰ってきた。屋敷の前を通っても、門番に睨まれるだけで済む。ボクがレイモンド・クレメンスであることには、当然ながら誰も気付かない。
このときボクたちは、10代前半の子供の姿を取っていた。これくらいの姿が意外と一番安全で、自分たちにとっても年相応でしっくりきた。昼は目立たないように街の中を歩いて回り、夜は誰にも見つからないような場所を見つけて息を潜めた。
こんな惨めな身分での暮らしが長くなっても、ボクはプライドを捨てることができないままでいた。こんなに汚い格好をして、都合よく扱われて、主人の機嫌を損ねたらゴミのように捨てられて……これほどの屈辱はないだろう。でも、傍らにいる“彼女”も同じ思いをしているので、口には出さないようにした。
『レイモンド、お前は幸せ者だ』
頭の中で、父親の言葉が響き渡る。
『美味いものを食べて、上等な服を着て、高度な教育を受けることができる。こんなことは、この国でもほんのわずかな、選ばれた人々だけに許される特権なのだよ』
“選ばれた人々”。ボクもかつて、そうだった。しかし……もう、過去の話だ。
『明日の寝床に困っている人だっている。それに比べて、お前はどうだ』
生前の追い詰められていた日々の方が、今よりずっと幸せだったのだと…気付くのが遅すぎた。どうして父親はボクを…実の息子であるボクのことを、捨てたのだろうか。
『いい加減聞き分けろ、この役立たずが!!』
――――!
……っ、駄目だ。嫌な出来事が…同時に思い出される。これ以上考えないようにしなければ……。
「――レイ、大丈夫?」
と、“彼女”がボクの顔を覗き込んでいた。ボクが過呼吸を起こしかけていたので、背中をさすってくれていた。ちなみに、“彼女”はボクのことを、ずっと元の名前で呼んでいる。
「うん…ありがとう」
“彼女”のおかげで、息が治まった。これからは、昔のことは思い出さないことにしよう。ボクは数ある道化鏡のうちの一人であり、過去など意味をなさないのだ。“彼女”だって、生まれたときの名前を捨てている。ボクもケリをつけなければいけない。
そして今日も、そろそろ夜も更けてきた。あらかじめ決めていた場所には、幸い誰も来ていない。よかった。今日はここで、夜が明けるまで過ごすことになる。二人で肩を寄せ合い、互いに周囲を警戒しながら目を閉じた。
「…………―――」
「…………―――」
少し眠りが浅くなり、周りの物音が聞こえてきた。うっすらと目を開けてみた。隣で何かが動いたかと思うと、“彼女”も目を覚ましていた。
……夜にしては、あまりにも騒がしい。悲鳴だろうか。ところで、夜にしては、いつもよりも明るい気がした。
「レイ、ちょっと見に行こう」
「うん……」
ボクたちは手を繋ぎ、大きな道に出た。人々の向かう方へとついていくが…
――――とても、嫌な予感がした。その光は、近づくほどに明るさを増していく。
「……何か、燃えてる?」
「そのようね…煙たい」
このにおいも、いつになく不快なものだった。それでも何が起こっているのか気になって、ボクたちは引き返さなかった。
「…ねぇ、レイ」
と…人が詰まってきたあたりで、“彼女”が足を止めた。
「うん?」
「あれ――」
“彼女”は目を見開いて、指を差した。
ああ…………、ボクの予感は、当たってしまったようだ。
夜空を割くように燃え上がる炎。それが包み込むのは――――
ボクが生まれ育った、クレメンス家の屋敷だった。
***
父親は、僕を愛してなんかいなかった。
いや、確かに周りから見れば、僕は可愛がられているように見えるかもしれない。父親が母親を愛しているのは事実かもしれない。
でも…違うのだ。父親は僕のことを“クレメンス家の後継者”としてしか、見ていないのだ。僕の遊び相手をしてくれたメイドを解雇し、この家にふさわしいものに好みを強制して、それでもって僕を過剰に褒めてくれる。幼いときこそ そういうものだと何も思わなかったが、大きくなるとともに、また、“兄たち”の存在により、“これはおかしい”と気付き始めた。
しかし、そのときにはもう手遅れだった。兄たちは突然家を出て行き、父親は僕にますます“当主たるもののあるべき姿”を押しつけた。僕しか跡継ぎがいなくなったのは仕方ないし、多少なりとも、僕自身にも継ぐ意欲はあった。
そう、僕は強制されるのが嫌なだけで、家を継ごうとは考えていた。それなのに、なぜだ。僕は許嫁と結婚して、跡継ぎとなる息子もできた。もう家督を譲ってくれても良いはずなのに…父親は未だに、僕を研究室に入らせてくれない。
理由は分かる。僕の異母兄のことだ。僕は兄が出て行ってすぐに、父親からその秘密を教えてもらった。“最高傑作”――たとえそうだとしても、父親が普段から僕に言っていることと、矛盾しているのではないか。“この家での研究成果が一人だけのものではない”ならば、いつまでも兄の捜索なんかしていないで、“最高傑作”を生み出した成果にすがりつかないで、僕に当主の座を譲ってほしいところだ。そう父親に話してみるけれども、お茶を濁すばかりで取り合ってくれない。もはや僕は父親にとって都合の良い、ただのお飾りなのかもしれない。
もしそうならば……こんな父親など、僕には邪魔だ。いなくなってしまえば良いのにと、そう思っていた。
そんなときだった。僕宛てに、一通の手紙が届いた。封筒に書かれた差出人と、中に入っていた便箋に記された送り主の名前が異なっていた。
それもそのはず、この手紙は僕の従兄であるルイスからのものだったのだ。ルイスは親族にして敵対する家の人間だが、手紙の内容に驚かされた。というのも――
ずばり、“アルフレッド殺害計画”だった。本家――すなわち僕の家にある“碧の秘薬”を、食事に混ぜるなどして父親に飲ませ、殺そうという作戦である。交換条件は、その秘薬を数瓶ルイスに譲ること。たったそれだけで良いという。何か裏があるのではないかとも思ったが、それで僕が当主になり、ルイス一家と和睦できるならば、これ以上のことはないだろう。
僕は条件を呑み、父親が外出している隙に、当主の部屋から例の秘薬を盗み出した。あらかじめ父親から、部屋にそれが置いてあることを聞いていたのが幸いだった。
そして、決行の日。これが最期の晩餐であることを知らない父親は、のうのうと窓の外を見ている。もう結構な歳なのに、ずぶとく最奥の席に居座っている。何もかもを独り占めする、憎き父親。そんな父親だけが飲む酒に、昼の間に前もって、気付かれぬように例の秘薬を数滴含んだ。即効性で、微量でも十分に効くと、ルイスは手紙で言っていた。頭の片隅で良心が僕にやめるよう囁いたが、もう遅い。これはルイスの催促があったとはいえ、僕が決めたことだ。
晩餐は始まり、父親は僕たちに見せつけるように笑みを浮かべながら、その酒をためらいなく飲み干した。
ふっ……ああ、思わず吹き出しそうになった。こんなにもあっさりと引っ掛かってしまうものなのか。父親も歳のせいでボケたのか。これだから、さっさと僕に譲ってくれたら良かったのに、馬鹿な――
「……ふふっ、ふっはははは…………」
すると、父親は何かに突き動かされるかのように立ち上がった。様子がおかしい。まさか…失敗したのか。
次の瞬間。
何と形容すれば良いのだろうか。おそらく――
食卓に、刃の雨が降った。
父親は狂ったように笑い続ける。食器は割れ、向かいに座っていた僕や、逃げ惑う妻と子供たちにも、それは襲いかかる。避けることは不可能だ。全て一瞬のことだった。僕も妻も、子供たちも、そして…父親自身も、突如降り注いだ“それ”に全身を刺され、身体が紅く染まり、身動きを取る体力も失われてきた。倒れたロウソクが転がり落ちて、床の絨毯に燃え移る。ルイスが言っていたスパイの使用人がやって来た。何を持ってきたのかを見るよりも前に、横たわる僕たちに向かって油を投げかけた。
――所詮、僕は向こうの家にとっても操り人形だったのかもしれない。
しかも、こんな終わり方をするとは……なんとも惨めな人生だった。
***
ボクはこの光景を目にした瞬間、この屋敷の中に父親がいると確信した。
「お父様……?」
そう呟くと同時に、もう考えまいと思っていた生前のことが、一気に頭の中を巡った。
「お父様…………」
ボクは父親の息子として、クレメンス家の長男として生まれた。でも、病弱がゆえに期待通りのことができず、また、母親に似た生ぬるい性格から、父親はボクのことを嫌い、時には虐げた。精一杯の努力も最後まで認められなかった。そして“あのとき”も…ボクを捨てた。こうやって見れば、ろくでもない父親かもしれない。でも――
「――――っ!!」
「レイ!」
考える間もなく、駆け出していた。“彼女”がボクの両脇に手を回し、全力で引き留めようとする。
「お父様…っ、お父様ぁ…!!」
「レイ……もう駄目だよ…」
「お父様ぁ……っ!!」
「レイ…」
“彼女”の押さえる力が強く、振りほどくことができなかった。ボクはこんなにも無力なのだ。できることはただ、ここで焼け落ちる屋敷を見ながら、立ち尽くすことだけ。それが情けなくて、悔しくて……自分が造り物の身体であることも忘れて、その場に崩れ落ちた。
「――あっ…うう……っ――――うわああああああ! ああああああ!!」
ボクにとっては、世界でたった一人の父親だった。たとえ父親がボクの代わりを見つけようとも、ボクにとっては…誰も代わりになれない、かけがえのない存在だった。 だからせめて、こんな死に方はしてほしくなかった。
瞳の奥が熱くなり、それは大きな粒となって零れ落ちていた。久しぶりに、思い通りに泣くことができた。今までの我慢が全てはち切れて、赤ん坊に戻ったように、大きな声を上げた。いつの間にか、“彼女”が後ろから、ボクのことをそっと抱き締めてくれていた。
ふと“彼女”の方に振り向いたとき、彼方に、あいつによく似た風貌の男が見えた気がした。
父親が死んだ。後日、街の人々の会話から、あれは事故ではなく、ルイスによる襲撃だったと知った。アイザックが加担していたということを聞くと怒りがこみ上げてきたが、そういえば、あいつの名前が一切 話に出てこなかった。やっぱりあの見た目だから、あまり世間では目立たないようにしているのかもしれない。それとも…とっくの前に死んだのか。
それはそうと、この襲撃事件から一か月も経たないうちに、“彼女”がある提案をしてきた。
「――えっ!? キミ、本気かい?」
「うん」
それは、死後の世界――“楽園”に場所を移さないか、ということだった。その存在を迷信だと思っていたボクには、まさに寝耳に水の話だった。
「本当にあるんだね?」
「うん」
“彼女”が自信をもって首を縦に振るので、とりあえず信じることにした。確かに、漠然と“天国”という概念は頭の中にあったけれども、ボクの場合、亡霊にならなかった魂はこの世から“消え去る”という風に思っていた。それが、“彼女”いわく、本当に“楽園”たる場所に、魔力を持つ人々だけに限るものの、魂が昇るとのことだ。
「どうして、突然…」
「これは勘だけど」
「ん?」
「“彼”が、もうそちらに行っているような気がして」
「…!」
“彼”。ボクには誰のことか、すぐに察しがついた。
「……なるほど、“彼”ね。でも、“彼”は――」
「構わない。きっと変わっていないはずだから」
「…そうかい?」
「うん、きっと…」
“彼女”の意志は固く、ねじ曲げてまで反対しようとは思わなかった。
「なら…そうしようか」
「うん…、ありがとう」
“彼女”はうっすら微笑んだ。普段はずっと無表情なので、珍しかった。とても嬉しかったのだろう。ボクも少し嬉しくなった。
「――どうやって行くの?」
「ぼくの言う通りにしてみて。一緒にやってみよう」
「うん…」
“彼女”の後に続いて、ボクも同じことをした。迷いはなかった。“彼女”が“彼”に逢えるなら、そして……奇跡が起こればの話だが、ボクも再び父親に会えるかもしれない。もう親子としてはいられずとも。
まもなく、身体が光に包まれた。ボクも“彼女”も、目を閉じた。“楽園”――そこでは、ボクたちが安寧を得ることはできるのだろうか。
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