ⅱ - 壊れゆく人形
姉がいなくなってから、父親はますます母親やボクを追い詰めた。
「どうしてこんなことも覚えられないんだ、この役立たずが!!」
「ひっ…!」
襲撃事件以来、ボクは片方の目が見えなくなっただけでなく、さまざまな違和感に苦しめられた。自分とモノとの距離が掴めなくなったり、ふとした瞬間に眠気が襲ってきたり……何よりも、“覚えられない”ということだった。事件より前のことは忘れたりしないけれども、勉強で新しく習ったことや、新しく雇われた使用人の顔と名前を、ちゃんと覚えられないのだ。特に前者は、これから跡継ぎとしての勉強をするにあたって、ただでさえ身体が弱いのに致命的なことである。
「いいか。お前はこの家の長男なんだ。あの女が新たに男を孕まない限りは、お前しかいないんだ」
「…………―――」
「分かってるなら結果を出さんか、お前は!!」
「っ!」
また、頬を叩かれた。父親の平手打ちは、とっても痛い。涙が出てきそうになったが、そうしたらもう一発やられる。どうにか堪えた。
「…………」
「明日までに、ここまで覚えること。そろそろ承知しないからな、お前」
本のページを荒々しく指差し、父親は苛立ちを隠せないまま足早に立ち去った。ドアが閉まる音がした瞬間、一気に涙が溢れ出した。父親への恐怖と同時に、期待に応えられなくて悔しいという気持ち、そして、少しでいいから許してほしいという甘えが入り交じった涙だった。
それでも、この頃から少しずつ、いろいろな物事が理解できるようになってきた。その中で、“処分”についても少し意識し始めた。この家にて結果を出さない者、将来に期待できない者は、どれだけ幼くても――ストレートに言えば、殺されるのだ。だとすればボクはまさに“処分”の対象となるのだが、そうなっていないのは、後継の男子が今のところボクしかいないからである。母親が男の子を生んで、その子がボクよりも健康で勉強がよくできたならば、ボクは…捨てられてしまう。そんなことは、嫌だ。
一方で母親も、なにかと父親から脅されていたようだ。ボクは知らないが、きっと母親は自分なりに“努力”していただろう。それとも……ボクを守ろうとしたのだろうか。母親が子供を身ごもることはなかった。父親は特別に女好きなこともなく、“過ち”によって……ということもなかった。このごろ父親が母親を殴るのは、早くボクを“処分”したいからかもしれない。そうだとしても、そのことを口に出すことはボクも母親も決してなかった。
また、ボクが6歳になった頃から、母親の様子がどこかおかしくなった。どこか表情が乏しいというか、虚ろというか、ボクに対する微笑みにも、部屋に連れ込まれて父親に殴られた後の泣き顔にも、以前ほど温度を感じられない。一体、どうしたのだろう。
「…………―――」
「……おかあさま?」
「――ああ、ごめんなさい、レイ。何かしら?」
与えられた、わずかな休息の時間。母親はボクに寄り添い、優しく頭を撫でてくれる。その手も、なぜだろうか。温もりが、少しずつ失われているように思えた。ボクへの愛は、なんら変わっていないはずなのに。
「ねぇ、おかあさま」
「なあに、レイ」
「ボクのこと、あいしてるよね?」
「ええ、もちろん、愛してるわ」
こう訊けば、母親はいつでもこう答えてくれる。でも、日に日に空っぽになっていく母親を見ているうちに、少しずつ不安が募ってきた。
気がつけば、ボクは大人の顔色を見て行動するようになっていた。父親の前ではできるだけ弱い姿を見せないように努め、母親の前では不安な気持ちが表に出ないようにした。そしてベッドの中で一人、肩を震わせて、どうにかしてこの状況から抜け出したいと願った。姉は幼いボクのために、柔らかな幻想を見せてくれていたのかもしれない。
でも、ボクは現実を目の当たりにしてしまった。両親が仲良くすることなんてない。ボクだって、生まれたときから、それとも最初の発作を起こしたときから、もう見限られているのかもしれない。ただ、それぞれで機嫌を取っておけば、これ以上悪いことにはならないだろうと考えた。
それでも、捨てない希望もあった。母親は変わらず、ボクのことを愛してくれている。そして、もし弟が生まれなければ、父親もいつかボクのことを認めてくれるだろう。母親に“生まないで”とは言わない。でも……両親にはずっと、ボクだけを見ていてほしかった。
その場しのぎの建前と かすかな希望に挟まれて、正直、辛かった。だから時間の許す限り、ボクは姉が生きていたときのように、純粋な気持ちで母親に甘えた。姉の分まで、味方になってほしいと思った。――確かに、抱き着けば受け止めてくれる。目を合わせておねだりすれば、優しく触れてくれる。この顔の右半分に醜い傷痕があったとしても、だ。
あれからは眼帯を着けた上に、長い前髪をさらに伸ばして隠していた。でも、母親と二人きりのときだけ、眼帯を外すことがあった。こんな傷物でも、外も内もボロボロなボクでも、母親は拒んだりしないじゃないか。きっと母親は、姉の死をまだ受け入れきれていないのだ。だから、時が過ぎて折り合いがついたら、また元通りになるだろう。ボクは自分自身に、そう言い聞かせた。
でも……ボクの願いが届くことは、なかったのだ。
***
それはボクが7歳になる少し前のことだった。いつものようにベッドの中で、辛い気持ちを涙に流した。また明日も、母親の優しい手に触れられたい。それこそが、残された救いだった。左目からしか出ない涙は、寝返りをうって右の頬に伝うと染みたように感じた。もう傷は塞がっているはずなのに、なぜだろう。
この日はどうしてか、なかなか眠りにつけなかった。雨も風もない静かな、心地のいい夜なのに、胸がざわつく。
と――こんな時間に、ドアをノックする音がした。一体誰だろう。この部屋は月明かりが入ってくるので、晴れの日なら夜でも人の顔を見ることができる。とりあえず、居留守を使うことにした。
「…………」
「――レイ」
「!」
それは他でもない、母親の声だった。部屋には鍵をかけてあったので、ゆっくり起き上がり、引きずるように足を進めて、鍵を開けた。
「どうぞ…」
ドアを開けると、母親と、後ろに一人のメイドが控えていた。彼女は、襲撃事件よりも前から仕えている。実際は影しか見えないが、間違えようがない。母親が人差し指を口元に立てたので、ボクは母親に抱き着くのを我慢した。
「……レイ、まだ起きていたの?」
「うん……ねむれなくて」
「そう…」
母親の囁き声は、ボクにとって癒しだった。もっと一緒に話したいと思ったけれども、そういう状況でもなさそうだった。
「おかあさま……どうしたの?」
「…………」
「……?」
「レイ……もう遅いわ。お眠りなさい」
「……うん」
怒っているわけではなさそうだけども、その声はいつもより冷たく響いた。母親の言う通り、ボクはベッドに戻った。
「いい子ね…あなたは」
母親も部屋に入ってきて、布団をかぶったボクの頭を撫でてくれた。とても嬉しかった。枕元で、久しぶりに子守唄を歌ってくれた。
「――――」
次第に眠たくなってきた。今夜はいい夢が見られそうだ。
「――レイ」
「なあに、おかあさま」
目を閉じながら、母親に返事した。
「…………―――」
「……?」
「――――っ」
母親が鼻をすする音がした。どうしたのだろう。でも、ボクは眠たくて、その顔を窺うことはしなかった。
「おかあ…さま……?」
「…………レイ……」
「……なあに…?」
「ごめんなさい……」
「…………え…?」
「…………―――」
明らかに様子が変だ。そう思ったけれども、眠気が勝ってしまって、目を開けられない。
「レイ……、あなたは――――とても不幸な子ね」
「…………?」
「こんな家に生まれて…………身体もこんなにボロボロで…………」
「…………」
母親は一体、何を言っているのだろう。ボクは母親の傍にいられて、とても幸せだ。病気をしたときも、ずっと一緒にいてくれるのに。
「…………あなたは」
「…………」
「――――っ、あなたは…………」
次の言葉を、ボクはずっと忘れない。母親はこう言った。
「あなたは……生まれてこなければよかったわね」
「――――!!」
思わず、目を見開いた。母親は大粒の涙を零しながら、ボクに背を向けた。
「おかあさま……?」
「ごめんなさい……レイ……」
「おかあさま……!」
起き上がって、手を伸ばす。母親の服の裾に、辛うじて届いたが……
「来ないで!!」
「っ!?」
母親はボクの手を、邪険に振り払った。それはとても冷たく、痛かった。今まで、こんなことは一度たりともしなかったのに……目の前にいるのは もはや、かつての母親とは違う人のようだった。
「…………―――」
これ以上、声が出なかった。母親はあっという間に、ドアの向こうに消えていった。次第に息が荒くなり、止められなくなったが、誰も助けてくれなかった。
***
『あなたは、とても不幸な子ね』
翌日、母親がいなくなったことで家の中が騒ぎになった。昨日一緒にいたメイドも姿を消していた。父親は何事もなかったかのように、むしろ清々したように振る舞っていた。大人たちがあたふたしている間、ボクの頭の中はずっと、母親に言われた最後の言葉を繰り返していた。
『生まれてこなければよかったのに』
母親は――いや、母親も、今まで優秀な姉で紛れていたボクの劣りが引き立って、許せなくなったのだろうか。母親でさえ、ボクのことを見捨てるのか。振り払われた手を見つめながら、声にならない声で何度も問いかけた。
わずかな奇跡を願ったが、父親の意向で捜索されることもなく、何日経っても母親が戻ってくることはなかった。本当はここで泣いてもよかったのかもしれない。でも……こんなに悲しいのに、どうしてだろう。上手に涙を流すことができなかった。片目だけだからではない。
もしかして……ボクもまた、感情が麻痺し始めているのだろうか。
***
それから三か月も経たないうちに、この家に“新たな母親”がやって来た。初めて顔を合わせたときから、この人はボクの敵だと察した。
そして案の定、継母となったこの人はボクをいじめた。些細なことで、少しの失敗で、ボクの頬をきつく叩いた。でも、父親はその人を愛していた。だから、その人の味方になって、ボクに対する仕打ちがさらに酷くなっていった。
「――あの子、また発作を起こして寝込んでるわ」
「またか、まったく……」
「“処分”も時間の問題ね。このお腹の子があなたに似た、健康で優秀な男の子ならば」
寝室のドア越しに、冷め切った言葉が突き刺さる。この家から、ボクの居場所はなくなった。温もりは消え失せた。家には多くの人がいるけれども、ボクは一人ぼっちだ。心から気にかけてくれる人なんて、もはや誰もいない。
そんなボクにも、最後の逃げ場所があった。それこそが、この家がかつて力を入れていた“魔術”だ。家が“科学”にシフトしてからも書物は残っていて、母親が出て行く前から勉強の合間をぬってそれらを読んでいた。
きっかけは姉の死だった。もう手遅れだけども、幼かったボクは、もし魔術が使えたなら、姉を取り戻すこともできたのではないかと考えた。それがこの家の方針に反することにも、薄々気付きながら。
この家では、魔術は“時代遅れの役に立たないもの”で、“捨て去るべきガラクタ”である。一応、この家はかつて優れた魔術で栄えた一族なのだが、常に先を先を追いかけ続けた結果、今の“科学”に辿り着いたのだ。そしてそれまでの過去を踏みにじりながら、さらなる発展を遂げて、今に至る。
こんなものを読んでいる暇があれば勉強もできるのに、覚えろと言われたことを覚えるための時間にもなるのに、ボクはその魅力に惹かれ、離れられなくなった。いけないことだとは分かっていたし、魔術の方も、術の方法をまともに覚えることはできなかった。
でも、ただならぬ執念からだろうか、一つだけ完璧に暗記した術があった。実際に使うかどうかはさておき、とにかく“覚えられた”ということに満足できた。これなら、もっと覚えられるかもしれない。魔術はボクにとって、ボクを構成する一部となっていた。
でも、それさえも……奪われた。
もしかしたら、今までは見て見ぬフリをしていたのかもしれない。ある日突然、父親がボクの自室に入ってきた。そのとき、ボクは……魔術の本を、読んでいた。父親は血色を変えて、ボクの髪を掴んで、頭を殴り飛ばした。
「…………」
早くやめてほしかったけれども、もはや抵抗しなかった。かつて母親が受けてきたものを今、ボクが受けているのだ。涙も見せてはいけないと思い、父親の気が済むまで、必死で耐えた。開いたドアから、継母がお腹をさすりながら冷たい視線を送っていた。
これは一度きりのことではない。こんな目に遭ってもボクは、魔術を手放すことができなかった。やがて継母の子でボクの異母弟となるアイザックが生まれてからも、バレるたびに酷く殴られた。
そしてこの日も散々怒鳴られ殴られて、やっと終わった。床でうずくまっているボクに、父親は屈んで教え諭すように言った。
「レイモンド、お前は幸せ者だ」
「…………」
「美味いものを食べて、上等な服を着て、高度な教育を受けることができる。こんなことは、この国でもほんのわずかな、選ばれた人々だけに許される特権なのだよ」
「――――っ」
「それに――親のいない子もいる。明日の寝床に困っている人だっている。それに比べて、お前はどうだ」
「…………―――」
「欲ばりはいけないだろう? だから…」
父親はボクが見ていた本を拾い上げ、立ち上がった。
「こんなものは、お前には必要ないものだ」
「……!」
「いいな。分かったら――」
ここまで穏やかな口調だった父親が、この瞬間、元に戻った。
「いい加減聞き分けろ、この役立たずが!」
そう吐き捨てて、父親は部屋から出て行った。どうして父親は、こんなにもボクを疎むのだろう。父親がアイザックのことを、どれほど可愛がっているのかを、ボクは知っている。ボクには与えられないものを、彼は無条件で得ている。うらやましかった。もしもボクが病弱じゃなくて、勉強もちゃんとできて、もっと父親に似ていたら、あんな風にされていたのだろうか。
やがて、父親は魔術の本を全てどこかに隠してしまった。ボクの心の拠り所は、本当になくなった。
魔術を奪ってもなお、父親はボクの不出来を激しく責め立てて、場合によっては暴力を振るってきた。アイザックの姿も、継母が遠ざけたことで見られなくなった。
もはや、ボクは“ボク自身として”ではなく、“クレメンス家の長男として”でしか認められないのだと、今更ながらそう結論づけられた。この家の技術を継ぐために高度な知識を身に付け、弱さやためらいを見せず、時には冷酷非情に振る舞うことこそが、この家で求められる“理想”である。だから、ボクもその“理想”通りの人間にならなくてはいけないのだ。ボクがまだ“処分”されないのも、きっと父親が最後のチャンスを与えてくれているのだと、そう見て取った。
そうならば、ボクは死ぬ気でその期待に応えよう。ボクはこの家に生まれたことを名誉に思おう。父親が貴方であったことも、ボクの誇りである。出て行った母親は酷い女だった。この家には必要がなかった。ボクは母親とは違うのだ。ボクは先代が遺してきた素晴らしき“財産”を受け継ぐために、血の滲むような努力をして、やっとのことで泥沼の中を這い上がり――そうして、父親に認められるのだ。熱が出ようと、発作を起こそうと、関係ない。医者からは止められたが、薬の量を増やすともっと身体が楽になった。一日に定められた分の勉強ができそうになくても、睡眠時間を削れば多少どうにかなった。難しい言葉の意味することも、爪が擦り切れるまで繰り返し書いて、唾が干上がるまで口に出せば、なんとなく覚えられた。
ほら、ボクだってやればできるじゃないか。最初からこうすればよかったのだ。生ぬるい母親なんかに甘えていないで、頑張っていた姉の邪魔なんかしていないで、もっと早くからこうしていればよかったのだ。どうして今まで気付かなかったのだろうか? それはこれまでのボクが叶いもしない夢を描いてばかりの馬鹿だったからだ。ここにはもう、そんな過去のボクはいない。お父様は正しい。そうだ。お父様は馬鹿だったボクの目を覚ましてくれた。そしてボクもお父様のように、技術を受け継ぎし者となり、中途半端な温もりは徹底的に排除し、このクレメンス侯爵家を、他のどの家よりも孤高の存在へと化するのだ。ボクは“処分”なんかされない。やがて大きくなって家督を譲られるとき、アイザックがボクの背後で悔しい顔をするのを楽しみにしようじゃないか。
この努力を、お父様も認めざるを得ないだろう。最近、ボクはお父様から殴られなくなった。そうだ、この調子だ。もっともっと頑張っている姿を見せつけて、結果を出すのだ。そして、かつてボクを殴っていたその手で、ボクの頭を――――おっと、今更そんなことをホザくなんて、ボクはまた馬鹿に逆戻りしたのだろうか。今の発言は撤回だ。そんなことを求めてはいけない。でもまあ、ボクのことも捨てたものじゃないだろう? それに、アイザックはまだまだ幼い。伯父の一人息子であるルイスが跡を継ぐより先に……となると、ボクより八つも年下のアイザックを待っていては遅すぎる。また、ルイスよりもボクの方が二つ上だし、動向が掴め次第、ボクがすぐにその栄典を譲り受けることとなる。お父様は“即戦力”という言葉も好きだったはずだ。時が来たらいつでも――できるだけ早く、アイザックが大きくなる前に――力になれるよう、与えられる課題を頭に流し込んだ。アイザックが邪魔だ。お父様には、ボクだけを見てほしい。全ては、そのために。
『キミは幸せじゃないか』
そうだ。ボクは幸せ者だ。
『美味しいご飯を食べて、綺麗な服を着て、勉強も教えてもらって、親もいて――』
その通りだ。それもこれも全て、お父様に感謝しなければいけない。
『だから、欲ばりはいけないんだ。“いらないもの”は、捨てなきゃ』
それはそうだろう。ボクはこんなにも恵まれているのだから、それ以上のものを求めてはいけないのだ。
しかし、ボクはまだまだ努力しなければならない。もっと完璧に近づかないと、正式にはボクを認めてくれないだろう。でも、それでも、幻かもしれないが、お父様が少しだけこちらに振り向いてくれた気がした。その眼差しが、以前より穏やかになっているようにも思えた。ああ、そのままもっと、ボクの手の届くところまで来てほしい。ボクはこの家のために、お父様のために、頑張っている。この家の“理想”の御曹司に、日に日に近づいていることであろう。
夕べ、お父様の夢を見た。要求されたことを完璧にこなしたボクに、“よくやった”と微笑みかけてくれる夢だ。この頭に手が伸ばされ、今にも触れられそうなところで、目が覚めた。
ああ、ボクが本当に認められる日が、遂にやってくるのだ。この努力が報われる日が、すぐそこまで、こんなに近くに、ほら、ほら…………ふふっ、あっはははは、はははははは!! お継母様が悔しがる顔が、頭に浮かぶ。もっと悔しがればいい。ボクがこの家の当主になったならば、この母子を即刻“処分”しよう。お父様にとっても二人は、役立たずだったボクの補欠にすぎない。ボクが継げば、もう用がないのだ。これは罰だ。ボクをガラクタ扱いし、ボクからお父様を引き離そうとした罰だ。そしてボクがお父様に認められたならば、お父様はお母様のことも許すだろう。ならばボクはお母様のことを捜して、一人前になった姿を見せつけてやろう。きっと喜んでくれるだろう。悲しむわけがない。もしもお母様が過去の愚かなボクにすがりつくのであれば、それは“間違っている”と“教えて”あげよう。その心に、その身体に、手段など選ばずに。そうすることが、“正しい”のだ。
そんなとき、縁談がボクのもとに舞い込んできた。お相手はボクより一つ年下の、魔力を持つ名門貴族の次女。彼女はまさに“クレメンス家にふさわしい人物”であり、かつボクの心強い味方になってくれる――見た目は全然違うが、雰囲気がなんとなく姉に似ている少女だった。気に入った。話は順調に進み、ボクが17歳になったら正式に結婚することになった。これで、ボクの将来は約束された。ああ、これは誰にも邪魔させない。誰にも譲らせない。ボクこそが…ボクこそが、この家を、技術を、お父様の跡を――――!
こんな絶好のチャンスを我がモノにしたというのに…………どうして。
どうして神様まで、こんなにも酷い仕打ちを、ボクを、痛めつけるのだろう。
ボクがもうすぐ12歳の誕生日を迎えるというところで、その悲劇は起こった。
1593年6月17日。一瞬のことだった。
***
その日、ボクは父親とともに彼女の家に来ていた。大人たちが談笑している間、ボクと彼女は広く開けた庭で遊んでいた。こんな風にのびのびと遊ぶのは何年ぶりだろうか。この状況で、自分がどうすればいいのか、そんなことも忘れていた。こんなところで、のんびりしている暇があったら――。彼女が草花をいくつか手折り、ボクに差し出してきた。
昔のボクならば、満面の笑みでそれを受け取っただろう。でも、もう……こんなことをしている暇はないのだ。だから、ボクは拒否した。彼女は少し悲しそうな顔をして、草花を持つ手をギュッと握りしめた。それからの会話もイマイチ続かず、やがて彼女は家の中に引っ込んでしまった。
庭に一人残されたボクは、彼女が置いていった草花の束を拾い上げて、少しだけ後悔に苛まれた。やっぱり、受け取ってあげた方がよかったのだろうか。その場に立ち尽くし、雲一つない空を見上げた。
そのときだった。
何の前触れも、なかった。
――ズブッ。
「――――っ!?」
鈍くも鋭い音が、胸の痛みとともに聞こえた。手にしていた草花は、はらはらと地面に舞い降りた。
これは一体、何だろう。振り向こうとした、その瞬間――
――ガッ!
「――――うっ!!」
胸の辺りが酷く、熱くなった。思わず、手を当てた。
ああ、これは…………あのときの感触と、よく似ている。
触ったところから、鋭くて冷たいものが、ちょっとだけ顔を出していた。
そちらに、目を落とした。
「…………―――」
真っ赤に染まる胸元を見るや否や、ボクはその場に倒れ伏した。口の中も、血で満たされてきた。今から自分がどうなるのか、考えなくても分かった。
全身の体温が奪われていき、ゆっくりとまぶたを閉じる。これが、クレメンス侯爵家の長男レイモンドの最期である。ボクの未来は、ボクの夢は、いとも簡単に潰えてしまった。
ああ、もっともっと勉強して、この家にふさわしい人間になりたかった。
そして、そして――――
父親に、褒めてほしかった。
この頭を殴るのではなく、優しく撫でてほしかった。
たとえ身体が弱くても、ろくに勉強ができなくても。
ボクのことを、愛してほしかった。
母親も出て行かないで、ずっとボクの傍にいてほしかった。その温もりに、ずっと包まれていたかった。
『生まれてこなければよかったのに』
確かにそうかもしれない。努力の果てに、こんな死に方をするくらいなら。
ボクはここで生を終える。でも、まだまだ天国には行けない。
父親はボクへの“最終手段”にして、この家の研究における“最高傑作”への準備をしていたはずだから。
それが、成功するまでは……。
次回:1/16(月)




