ⅰ - 慈悲なき刃
・これより、前編の要約文および本編を
全て読んだことを前提に話が進みます。
まだの方は要約だけでも目を通してください。
読んだ方は↓
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――それでは、後編の幕開けです。
どうか目を逸らさぬように……。
ボクは1581年7月3日、クレメンス侯爵家の長男レイモンドとして、この世に生を受けた。
母親はとある名家の令嬢。しかし名家というのも過去の話で、今では権力も財力も傾き始め、他の家に経済的援助を求めるほどにまで落ちぶれていた。
そしてその援助を受けるために結婚したのが、クレメンス家の当主になったばかりの父親だった。直前に父親の両親が謎の死を遂げたのもあって、婚礼は殺伐とした雰囲気の中で行われた。
それだけではない。父親からすれば、望まない結婚だった。縁談を重ねても父親は母親に関心を持つことがなく、破談になるのかと思いきや、母親の家がありったけの財産を積んできたことで、半ば強引に決着がつけられた。
このような大人の事情は、父親や使用人の呟きから、まだ幼いボクも理解していた。
そして母親が、その後 一度たりとも父親に愛されなかったことも。
姉が比較的 気に入られていた単純な理由も。
ボクが疎まれた原因も、全て。
***
「だいたいお前はどうしていつもこうなんだ!!」
「すみません……、すみません…………っ」
部屋の中から、また怒号が聞こえる。母親がすすり泣く声も、頬を殴る音でかき消された。
これはいつものことである。ボクに物心がつくよりも前から、父親は母親に暴力を振るっていた。些細なことでも、気に入らないことがあれば部屋に連れ込み、心も身体も容赦なく傷つけた。
それをドア越しに聞いているボクを、使用人も養育係も止めなかった。むしろ、故意に見せていたのかもしれない。そうすることで、当主である――この家では絶対である父親の権威を、ボクに擦り込ませるつもりだったのだろう。
確かに、ボクの中で父親は、恐怖を伴って崇めるべき存在となった。周りの人々からも、父親やこの家がいかに素晴らしいのか、耳にタコができるほど聞かされた。そして、それが“正しいこと”なのだと、ボクも信じた。
一方、父親のやっていることについて、これは“いけないこと”なのだとも、分かっていた。誰も教えてくれないけれども、ボクに生まれながら備わっている“何か”が、知っていた。人を殴ってはいけない。そして、人を犠牲にするような実験をしてはいけない、とも。
母親は、とても優しい人だった。ボクや姉を心から愛し、温かな笑顔でボクたちを包み込んでくれた。
しかし、そんな母親を、父親は嫌っていた。クレメンス家で求められるのは、弱さやためらいを見せず、時には身内であっても情けを許さない、厳しさと冷たさである。“甘く生ぬるい”母親は、この家にふさわしくないのだ。そうだとしても、ボクたちを抱き締めてくれる母親を、“愛してる”と言ってくれる母親を、傷つけてほしくなかった。それは父親だけでなく、洗脳された造り物の働き手たち、昔からこの家に仕えている家庭教師……とにかく、この家にいる大人全てが、母親の敵だった。
それに対して姉は、いつも毅然とした態度で、何でもそつなくこなしたので、とても気に入られていた。顔立ちも父親に似ていて、それこそ、この家にふさわしい令嬢だった。
でも、そんな姉も、母親以外の大人がいないところでは限りなく優しかった。ぼやけた記憶しかないけれども、ボクが甘えて抱き着くと、そっと受け止めてくれたり、頭を撫でてくれたりした。ボクとは五つ違いだけど、それよりも大人っぽく見えた。父親はとても厳しくて怖かったけれども、このような優しい母親と姉がいれば、どうにかやっていけそうだと、そう思っていた。
ボクは、何もかもを失った。母親も、姉も、そして――――
“ボク”の心の拠り所も。
“ボク”に与えられるはずだったモノも。
それから……“ボク”という存在さえも。
これから語るのは、そんな“ボク”のお話。前振りが少々長くなってしまったことをお詫びしたい。
***
先程言ったように、ボクはクレメンス家の長男として生まれた。生まれて間もなく生死を彷徨い、医者からは“一年も生きられない”と言われたようだが、なんとか乗り切った。しかしそれから何度も同様のことを繰り返し、常に数十種類の薬を飲んでいた。しかしそれらも“死なないため”以外の役割は ほぼなく、喘息の発作など日常茶飯事だったし、酷いときには血を吐いたことだってある。病気じゃないときの方が、圧倒的に少なかった。
こんなことは家族の中でボクだけだった。勉強や稽古なんて、まともにできなかった。母親と姉だけが、そんなボクのことを心配してくれていた。
しかし父親はボクを許さなかった。それとも、生まれたそのときから、既に嫌われていたのかもしれない。ボクは顔立ちも性格も、母親によく似ているらしい。そしてボクは、母親に教えられたことを守った。でもそれは、この家の教育方針とは反するものだった。それゆえ、母親が殴られる原因のうち、少なくとも半分はボクのことだっただろう。
母親はボクに、“全ての人に優しくしなさい”と言った。
父親はそれを知って、母親の顔にアザを作った。
母親はボクに、“辛いときは泣いていい”と言った。
父親はボクを余計に怒鳴りつけて、その後部屋から母親の悲鳴が聞こえた。
母親は軽い風邪を引いて寝込んだボクに、“無理をしないで”と言った。
父親はボクをベッドから引っ張り出して、ボクの頬を平手打ちした上で、ボクの目の前で母親の服を剥いだ。
――と、まあ、こんな感じだ。しかし、それでも母親は、ボクたちに“優しい心を忘れないで”と言い続けた。そして、それによってまた、母親は傷つけられる。ボクがその部屋の様子を聞くのを、姉は何度も止めようとした。でも、ボクにはこれくらいのことしかできず、ただただ悲しかった。
そんなある日、先代から仕えていた画家が、“家族の肖像を描きたいのだが”と提案してきたという。父親は怪訝な顔をしたらしいが、これを最後に画業を引退したいとのことなので、渋々受け入れたようだ。
そして1585年2月に描かれたのが、例の肖像画だった。四人で寄り添って映るこの絵は、ボクと姉のお気に入りだった。この絵の中でだけは、家族の皆が仲良しのように思えたからだ。そして…できるなら、これが現実になれば――と、心の片隅で願っていた。
でも、それは叶いそうにない。母親を大切に扱う父親を、ボクたちは見たことがない。ボクに注がれる父親の視線も、いつも冷たいものだった。それらを心配してのことだろうか、姉の表情にも、どこか影があった。周りの人々も、ボクと母親を異物のように疎んじた。そんな環境下で、ボクたちはわずかな居場所に、束の間の温もりに、すがりついた。
なのに、なのに――――どうして。
今となっては、どうしてボクじゃなかったのだろう……とも考えるようになった。
1585年9月24日の夜。
それは、ボクにとって忘れられない時間となった。
***
夕食の後、過酷な勉強をして、この日もやっと眠りにつける。ベッドの中は、この上なく落ち着ける場所だった。父親の怒鳴り声も、家庭教師の苛立った顔も、ここでは気にせずに済む。でも、母親や姉のことを思い起こすと、同時に父親のことも思い出してしまって、また心がズキッとする。明日はもう少しだけ、家族が仲良くやっていけるかな……と、ささやかに祈りながら、目を閉じた。
家族全員が眠りについて、使用人たちも仕事を終えるであろう、そんな時間だった。
と――誰かに身体を揺さぶられている気がした。眠たい目をこすって開けると、それは養育係だった。かなり焦っているようだった。
「お坊ちゃま、大変でございます…!!」
こんな夜に、何だろう。彼女に手を引かれて、廊下を駆けていく。ボクと彼女以外にも、同じ方向に走っていく者が何人もいた。
「ねぇ……どうしたの……?」
「…………」
「おかあさまは……? おねえさまは……?」
「いいですから、早く…!」
その中に母親や姉の姿がなかったことを覚えている。すごく心配になったけれども、ボクには養育係の手を振り払う力はなかった。これは一体、何なのだろうか。よくないことが起こっているとは、なんとなく分かった。でも――
誰か、教えてほしい……と思った矢先、後ろで叫び声が聞こえた。振り向こうとしたら、腕を強く引っ張られた。
「あなたも殺されたくないでしょう!? さあ、こちらに――」
「…………?」
殺される…?
訳が分からないまま、どこか来たことのない部屋の前に辿り着いた。鍵が開けられる。
「あなたはここに入っていなさい。大きな声を出してはいけませんよ」
そう言われて、ボクはその部屋の中に押し込まれた。すぐに鍵がかけられる音がした。ロウソクは灯っておらず、真っ暗で何も見えない。
「――――」
……怖い。誰か、誰かいてほしい。こんなところで、独りぼっちに、なりたくない。でも、そんなことを口にしたら、また父親に叱られる。
「…………っ」
ドアの向こうから聞こえる悲鳴の数が、徐々に多くなっている気がした。何も分からない。涙が出そうだ。安らかなはずの夜が、得体の知れない化け物のように恐ろしく感じられた。
ああ……誰か、ボクの傍に――
「――レイ?」
……! この声は…
「レイ、どこにいるの…?」
間違いない。すぐ近くにいるようだった。そちらに手を伸ばす。すると、その髪の毛に触れることができた。
「おねえさま…!」
大きな声を出しそうになったが、なんとか囁き声で我慢した。
「レイ…、よかった……」
ボクが飛びつくと、姉はいつものように、優しく抱き寄せてくれた。とっても、温かかった。
「ねぇおねえさま、どうして、こんなことになっているの…?」
「……それはね」
姉が耳元で、少し悲しそうな声色で言った。
「悪い人が、私たちのことを、殺そうとしているの」
「えっ……!?」
そんな、ボクたちのことを……
「でも…ボク、まだ4さいだよ? おねえさまも、9さいだよ?」
「そういう人たちには、関係ないの。お父様とお母様も、狙われているわ」
「――!」
姉の前だったから余計だろう、両目から涙が一気に零れてきた。
「ふえぇぇ……」
姉の胸元にしがみついて、声を押し殺して泣いた。安心とともに、抱えきれない不安がのしかかった。
「しにたくないよぉ…」
「大丈夫…。ここでじっとしていたら、悪い人は来ないわ」
「……っ、…………」
二人で抱き合って、外から聞こえてくる怖い音に耐えた。ドアに物音が近づくたびに、身体を震わせた。
「こわいよぉ……っ」
「怖いね…レイ……」
姉もまた、怯えていた。だからこそ、まだ少しだけ安心だった。
どうか、どうかこのドアが開かれないようにと、二人で願った。ドアの向こうで巻き起こっている嵐が止むまでは、どうか見つからないようにと、心から祈った。
「ねぇ、レイ」
「なあに、おねえさま」
「私、お父様に気に入られていると思うでしょ?」
「うん…」
「……もう少し大きくなったら分かるようになるわ。違うってことが――」
「……?」
姉がそう言った、その時だった。
ドンドン。
ドンドンドンドン。
ドンドンドンドンドンドンドンドン。
ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン
「――――――――!!!!」
思わず叫びそうになったが、姉がとっさにボクの口を押さえてくれたおかげで助かった。でも、全身の震えが止まらなくなって、自分で自分のことを制御することができなくなった。
「大丈夫……鍵がかかっているから。あの人たちには開けられないわ…」
そう言う姉の手もガタガタと震えていた。外からは大人の怒鳴り声がしている。怖い。誰か、助けて。
次第にドアを叩く音が重たいものに変わっていった。姉が“大丈夫”と言っているからきっと大丈夫なのだろうけれども、ふと、もしかしたら……と考えてしまった。
「……おねえさま」
「…レイ、愛してるわ」
「…………―――」
「レイの優しさは、私の宝物」
その瞬間。
光が、差し込んだ。そして、影が入ってきた。
“影”はその手に、鋭く光るモノを握っていた。
怖い……!!
姉がうずくまったボクの前に、かばうように立った。駄目だ、そんなことをしたら姉が――。
ボクはこの家に生まれた男なのだ。そして、大きくなったら父親のように、この家を継ぐのだ。だから、だから……
姉は、ボクが守らなければいけない。でも、足がすくみ、動くこともままならない。これは夢じゃない。怖い。
“影”は容赦なく、姉を突き飛ばした。小さく悲鳴を上げて崩れ落ちる姉を尻目に、刃を向けてボクの方へと歩み寄った。
「お前がアルフレッドの息子か」
「いや……やだ……っ」
ボクが後ずさりすると、その分近づいてくる。
「こないで……!」
大人の男はボクの顔をめがけて、それを振り上げた。
「いやああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
顔の右側が、溶けるように熱くなった。熱い。痛い。痛い。痛い。
右目が、開けられない。それどころか、どこが床でどこが天井なのかも、分からなくなった。顔を押さえた手が、ぬるぬるした暖かいもので濡れた。気持ち悪い。
「レイ!!」
姉が叫ぶ。痛すぎて、もはや涙も出せなくなった。これ以上悲鳴を上げる余裕もない。そんな間にも、大人たちがボクのことを殴ったり、蹴ったりしてくる。痛い。苦しい。誰か――。
「やめて…!!」
と、姉が男にしがみついた。
「うるせぇんだよ てめぇ!」
男は姉を乱暴に振り払ったが、それでも引かなかった。姉は必死に、ボクをこれ以上傷つかせまいと男に立ち向かう。
「くそっ……!」
ボクを切りつけた男が、ボクから一瞬、離れた。
「うう…………っ」
鈍い音と重い音がして、姉の悲鳴が途切れた。そしてまた、ボクの頭を踏みにじった。
「おい、生かしておこうぜ。これだけやっとけば、どうせ使い物にならなくなって棄てられるさ」
「そうだな、“処分”されたらこっちのものだ。かつてのご主人様以上の、生き地獄を味わえばいい」
ボクのことを散々痛めつけたのち、そんな会話をして男たちは去っていった。ボクの意識は、次第に遠のいていった。
***
「…………イ、レイ!!」
ハッと、目を覚ました。視界に映ったのは、涙を流す母親の顔だった。それにしても、どこかおかしい。
「あぁ……レイ……」
「……おかあさま」
口を動かすと、まだ顔の右半分が痛んだ。
「おかあさま……」
母親の頬に手を伸ばそうとした。でも、届いているはずなのに、触れられない。母親が避けているわけではない。
「あれ…、どうして……?」
「レイ…あなた…………っ」
母親が、膝を折って顔を覆った。しゃくり上げる声が、いっそう大きくなった。
「…………?」
「――お坊ちゃま」
傍にいたメイドが、口を開いた。
「お医者様が、最善を尽くしてくださったのですが……よく、聞いてください」
「……?」
「お坊ちゃまの右の目は、もう二度と治らないようでございます」
「えっ……!?」
「完全に潰れてしまっていて、摘出しましたが……お顔の傷も酷く――」
確かに、このときのボクは左目だけでモノを見ていた。でも、まだ4歳だったからだろうか、メイドの言っている意味がちゃんと受け入れられなかった――いや、それどころではなかったのだ。
「え…えっと、おねえさまは?」
そうだ。姉のことで頭がいっぱいだったのだ。母親はまだ泣きじゃくっている。
「…………―――」
「ねぇ、おねえさまは…?」
メイドが言葉に詰まった。目をきょろきょろさせて、やっとボクの方に向き直った。
「レイチェルお嬢様は、ただ今ご主人様が施術なさっているようですが……」
「――――」
「……とにかく、お坊ちゃまは ご自身のことに専念してください。お嬢様のことも心配でしょうけど」
「……うん」
今だったら、この言葉で悟ることができただろう。でも、幼かったボクにはまだ、それを理解するほどの頭がなかった。
だから――希望を、抱いてしまった。姉のケガが治ったら、どんな話をしよう、また一緒に遊びたいな…と、そんなことを考えてしまった。
***
翌日、ボクと母親は呼び出された。
姉は、死んだ。
新たに服を着せてあったので分からなかったが、心臓を貫かれていて駄目だったらしい。でも…今にも目覚めそうな、安らかな顔を見ても、それが受け入れられなかった。
母親が泣き崩れる。ボクは茫然と立ち尽くしていた。父親も悔しそうな顔をしていたけれども、その視線は、姉とは違うどこかへと向けられていた。
これはボクがもう少し大きくなってから知ったことだけども、この襲撃事件の首謀者は伯父――ボクの父親の兄だったらしい。後継争いに負けた兄が弟を憎み、権力を奪おうと攻撃を仕掛けてきたという。この事件で犠牲になったのは、多くの使用人や、ボクたちをあの部屋に導いた養育係など、そして…姉。屋敷に火もつけられたようだが、それはすぐに消されたので無事らしい。奴らの一番の狙いは、やはり父親の命だったようだ。しかし見つからず、財産も持ち去ることができなかった。結果としては、この夜襲は“失敗”に終わったという。
――“失敗”? どう考えてもこれは失敗じゃない。奴らは、ボクから姉を奪った。ボクから右目を奪った。それだけじゃない。ボクからすれば……
これが全ての、始まりだった。
ボクの歯車を狂わせる、全ての始まりとなった。
次回:1/9(月)




