【支度 その壱】
客室のドアを数度ノックされて、グランドールは漸く目を覚ましました。
思いの外深く眠ったお陰で、アルセンに魔力を分けても身体に不調な感じはありませんでしたが――――
隣にいる親友は、まだまだ疲労を泥のように身体に溜め込み、睡眠を貪っていました。
「―――フィン様、マクガフィン様。早い刻限、お休みのところ、本当に申し訳ありません」
――――コンコンコンコンっ
グランドールは柔らかすぎる寝台の上で、呼び掛けられる声とノックの音によって濃い茶色の瞳を開いた。
(この声は、シュトだのう)
呼び掛けられるまで目が覚めなかった事に、自分でも少しだけ驚いて、グランドールは日に焼けた大きな身体を起こす。
扉の向こうから聴こえる声で、エリファスの弟子で"傭兵・銃の兄弟"の名前を引き継いだ、まだ年若い青年、シュトだと分かった。
「ああ、起きた。スマンが、連れの、パドリック中将の具合が余り良くないみたいで、寝とるんでな。声を押さえて貰うと助かる」
声量は抑えてが、低く良く通る声でグランドールが扉に呼び掛けると、ノックも呼び掛ける声も途端に止まる。
「直ぐにいく」
隣に寝ている親友―――アルセン・パドリックに気を使いながらグランドールは、寝台から大きな身体を抜け出そうとする。
グランドールが左腕を動かした瞬間に、アルセンの左腕も引っ張られるように動いた。
「―――んんっ」
「と、いかんいかん」
深い眠りについている親友の寝言に、グランドールは慌てて、自分の左手とアルセンの左手を繋ぐ、赤いゴムのような紐。
神倶グレイプニルを意識して、白い腕から解放し、魔力でその姿をグランドールの体内に"納めた"。
就寝前、とは言っても、数時間前に魔力をある絵本に吸い取られて、身体を動かす事すらアルセンは、困難になってしまっていた。
応急処置の魔力を分ける道具として、ネェツアークがグランドールにグレイプニルを押し付けられた事を、すっかり忘れていたのを思い出す。
グレイプニルという"紐"を使って、互いの身体に負担にならない程度にグランドールの魔力を寝ている間にアルセンに分けていた。
それを思い出して、グランドールは寝ている為に金髪が乱れて、いつもにまして若く見える白いアルセンの顔を見る。
(昨日よりは幾らか、顔色はマシになったかのう)
ネェツアークがアルセンの魔力を吸い取る絵本を、彼の身体から引き剥がすように離した時は、それこそ紙のように真っ白になっており、緑色の瞳以外を動かす事が出来なくなってしまっていた。
だが眠っているアルセンの顔色は、平時の時とそう顔色も変わらないようにグランドールに見える。
(こういった時は、アルセンの寝付きが良すぎるのを有り難く感じるわい)
細やかな気配りが得意、それ故に割りと神経質に思われがちなアルセンだが、"睡眠"に関しては、かなりの猛者である。
自分から自然に目を覚まさない限り、平時では身体を揺さぶる、大きな声で呼び掛けないと中々目覚めてはくれない。
眠りに対しての集中力も、一般の人なら絶対眠れない事で有名なグランドールの鼾を耳元で聴いていようとも、眠れるといった具合である。
今も腕を引っ張ったのだから、普通なら起きても仕方ないものだが、相変わらずスウスウと品良く寝息をたててアルセンは眠り続けていた。
(さて、"事態"はどういう局面になっているかのう)
『明日、事態が動いて何らかの片が付く』
(まだ"片"はつかないのだろうが)
ネェツアークが昨晩言っていた事を思い出しながら、愛用の毛皮の上着を羽織り、寝室の扉を開けてシュトが待つ客室の入り口へと向かう。
「待たせて悪かった」
グランドールが扉を開いた向こうには、大分見習い執事の姿が板についてきたシュトと、アトもいた。
シュトはともかく、その弟の姿は意外だったのでグランドールは目を丸くする。
「グランさま、おはようございます」
「あっ、アト!」
シュトが慌てて止めるが、アトが不安そうな表情を浮かべて、いきなりグランドールに挨拶をした。
「―――ああ。アト、"おはようございます"」
幾らかはアトの"拘り"を理解出来るグランドールは、それを踏まえて挨拶をしっかり返してやると、アトは落ち着いた様子になる。
「アトにとって、予定表が狂う出来事でもあったのか?」
グランドールがシュトに尋ねると、シュトは躊躇いながらも頷いた。
「良かったら、話してみろ」
好漢としてのグランドールもあるが、妹のように思っていたエリファスの弟子達が、困っている姿を放っておく事も出来なかった。
「―――実は、執事のロックさんが姿を消されてしまわれて」
シュトは重たい口を開いた。
"ロック"という言葉を聞いた途端に、アトの顔にまた不安の色が広がる。
そしてシュトの服の腕の辺りをギュッと掴み、落ち着かない様子となった。
「そうか。それで、エリファスも姿を消したままと言うわけか。
アトの面倒というか補助が出来る奴が、今はこの土地には、シュトしかおらんと言うわけなんだのう」
グランドールの確認の言葉にシュトが、辛そうに頷く。
人の良い男は、シュトの様子に"辛そうな理由"がそれだけではないと、あっさり見抜き、逞しい腕を組み、気迫を強くしてでも、グランドールはシュトに悩みを吐き出させる事にする。
「―――もしかしたら、ここに来る前に何かあったんじゃないかのぅ?。
酷くデリケートな事かも知れんが、アトについて、知識もない奴が口さがない事をいったんじゃないか?」
シュトがビクリと震えた。
兄が震えた事で、頑是無い心ながらも助けようと弟は口を開く。
「シュト兄、アトのことで、バカにされました、しらないおじさん、、できそこない、クズ、きもちわるい、いわれました」
「アト!」
「っ!」
シュトがアトを止めるのと、グランドールが怒気を込めて舌打ちする音が重なる。
怒るグランドールの迫力には、シュトもアトも 思わず身体の動きが止まった。
「ああ、スマン。その、シュトやアトに向けた舌打ちじゃないから、そんなに身を竦ませんでくれ」
腕を組んだままグランドールが苦笑いすると、シュトは肩の力が抜けたように笑ったが、アトは少しだけまだ怯えている。
そしてシュトはグランドールに"弱音"を吐き始めた。
「―――ロブロウの河川が、昨夜からの豪雨で氾濫しそうという事で、俺、ワタシは深夜を過ぎたぐらいから、領主様と動いていたんです。
まだアトは寝ている時間だったので、領主様が氾濫を鎮める為の算段やら打ち合わせをしていました。
アトが起きたとしても、ワタシがお仕えする領主、アプリコット様はアトの障がいの具合も、勉強してくれているみたいで、行動を共にしてくださると仰ってくれたんですが―――」
頼まれた届け物を"ある男"にした後、届け物を恙無く終えた事と、"ある男"からの伝言を戻ってアプリコットに言伝てた。
それから私室に目覚めたアトを迎えに行き、身支度をさせて領主の部屋に向かうと、部屋につく直前で、仮面を着けたアプリコットが、扉を開けて飛び出してきて、驚いた。
『シュト、アト!』
アプリコットは2人の姿に驚いていたが、アトは判に押したような様子でしっかりと挨拶をする。
『りょーしゅさま!おはようございます!』
『はい、おはようございます!』
機転の利く女領主は、アトにも理解が出来る喋り方で状況の説明をシュトに始めた。
『領主様は、悪人面の友だちに呼ばれたので、中庭に行ってきます。シュトとアトは領主様の部屋で、待っていてください!』
『あ、悪人面っですか?』
失礼ではあるのだが、その例えで、シュトは先程届け物した人物、ネェツアークをあっさりと思い浮かべる事はできた。
『そっ、打ち合わせと辻褄あわせと策の練り直しと、私は請求書を押し付けないといけないの!』
ピッとこの世界の請求書にあたる紙を指の間から見せて、アプリコットは中庭に向かって走って行ってしまった。
『シュト兄、りょーしゅ様、部屋で待っていなさいっていいました。部屋でお留守番しましょう』
『そうだな』
"銃の兄弟"は雇い主の指示に従い、領主の部屋で待つ事にする。
『シュト兄、ライスボールあります!』
部屋に入った途端に、アトがアプリコットの机の法にトトッと小走りに向かう。
『あっ、こらアト! 』
部屋に入るとアプリコットの机の上に、確かに皿に乗せられた塩だけで握られたライスボールがあった。
側にはアトにも読める文字で、"アトのあさごはんです"と多少クセのある字で書かれている。
そして、その横には"アトの予定表"と同じく、クセのある字で簡単にではあるが書かれていた。
『シュト兄、アト、アトのライスボールを食べてもいいですか?』
『ああ、食べてもいいです』
シュトは"アトの予定表"を眺めながら、小さく答える。
アトの為に作られた予定表を見て、今日1日で行われる"戦い"に自分達"銃の兄弟"が―――含まれない事をシュトは知る。
"アト、シュト、リリィ、は旧領主邸の秘密基地で夜までかくれんぼっ。
アルスの先生は部屋でおやすみ"
("かくれんぼっ"て領主様)
アプリコットの参加させない為の表現に少しだけ呆れながら、そのスケジュールをシュトは眺めていた。
(俺やアトや、お嬢ちゃんを参加させないのは分かるけれど、"アルスの先生"て、確かえらい美人な金髪の貴族さんだよな?)
美人で―――かなり強そうでもあった。
(女性騎士達は参戦させるのに、あの貴族さんは参加しないのか。
もしも、何かあった時に、初仕事の傭兵だけじゃ心配なのかな)
弟の為に用意されたスケジュールを眺めて、少しばかり後ろ向きに、シュトが考える。
その間に弟のアトは、パクパクと塩だけで味付けされたライスボールを、平らげてしまっていた。
『シュト兄、ごちそうさまでした。美味しかったです!』
顔と指と衣服に、食べる時に溢してしまったライスの粒を着けたまま、アトがにっこりと笑う。
シュトは慣れた様子でハンカチを取り出し、先ず弟の顔についたライスの粒を取ってハンカチに乗せて"お手本"を見せ、差し出す。
『"アト、見苦しいのはダメなので、ライスの粒を取りましょう"』
『はい、見苦しいのダメです』
アトはシュトの言葉をオウム返しに、繰り返してから兄に差し出されたハンカチを手に持ち、自分の衣服についたライスの粒を取り出した。
『さてと、"ワタシ"は少しばかり領主様の仕事机を片付けますか』
アトのライスボールとスケジュールが置かれた場所は、比較的片付いていたが、他の部分は見事にゴチャゴチャとしていた。
まず、開かれたままの本にシュトは手を伸 ばした途端、ある人物の声が記憶からひっぱり出された。
『シュト、今の領主様は初代領主様のピーン様と似ておられて、大変片付けが、苦手でおいででいらっしゃいます』
付箋紙が沢山貼られ、広げられたままの魔術書を閉じながらシュトは、笑顔で"片付けについて指導する先輩"―――ロックを思い出す。
『ロックさんは、本当にアプリコット様のお祖父様が、大好きだったんだろうなぁ』
注意深くロックの指導する言葉を思い出せば、端々に必ず初代ロブロウ領主がいた。
魔術書を閉じて纏めて机の隅に置き、やけに怪しい計算の跡が記された紙と失敗したらしい領収書には"不要・処分"のスタンプがされてあるので、塵箱に纏めて捨てる。
捨てる書類に"2割増?、いや3割増?請求"という、怪しい文字を見たような気もしたが、シュトは気にしない。
『十露盤は確か、机の引き出しの中にしまうんだったな』
『シュト兄、見苦しいの、アト取りました』
シュトがガラリと机の引き出しを開け十露盤をしまおうとした時、丁度アトが、アトなりにライスボールから零れ、衣服や肌についたライスの粒を取り終えた事を兄に報告した。
『うーん、10点中の8点』
数の概念が10までなら理解が出来るアトの為に、ライスの粒の後始末の評価を8点だと伝えてシュトは弟からハンカチを受けとる。
シュトは机の引き出しの中に十露盤を置いて、開けたままで弟からハンカチを受け取り、仕上げとしてアトが取り損ねたライスの粒を取り始めた。
その時、領主の部屋の扉が2回だけノックされ、扉は躊躇される事なく開かれる。
『"代理"領主殿!、一体いつになったら浚渫を行うにあたって大農家・グランドール・マクガフィン殿との連絡をつけて下さるのですか!』
やけに"代理"という言葉を強調しながら、ロブロウの農民の"代表者"となる中年の男性が領主の部屋に扉を開くのもそうであったが、入室も躊躇いもなくズカズカと入ってきた。
躊躇いのなさは、"親しさ"よりも、アプリコットを見下したニュアンスがよく現れている。
身につけている衣服が、グランドールと謁見する為なのか、無駄に豪華で帯剣する剣も華美で何だかシュトには滑稽にも見えた。
シュトが驚いて開いてしまった扉の方に目をやると、ロブロウの農民の代表者である中年の男性。
それは深夜を過ぎ、就寝したばかりの時間にシュトを無理やり起こし、アプリコットを起こす事を言いつけた人物と同一人物であった。
アプリコットによれば、彼女が処断した4人の叔母達の1人と、このロブロウを代表者と自称する男性は幼馴染みであったらしい。
だから叔母達の影響下にあったせいか、アプリコットは随分と横柄な態度や口を聞いたり、裏ではかなりの事も口さがなく言っている様子だった。
『あの男が欲しいのは名ばかりの"領主"という立場ではなくて、"領主という名ばかりの立場を上回る存在感と権力"。
小さな領地の、影の支配者の気分になりたいだけだから、丁寧な口だけ聞いてあげて、あんまり相手にしなくていいわ』
つい先程に、アプリコットからそう説明された"代表者"は、シュトを見て面白くなさそうな声を出した。
『―――"代理"はどこだ?』
アプリコットがいなければ、"領主"という言葉をすらつける気もこの男にはないらしい。
シュトはアトが溢したライスの粒を拾ったハンカチを素早く片付けて、恭しく頭を下げる。
『"急遽、王都からの連絡がございまして、御客様を更にもう1人お迎えにするにあたり、準備に勤しんでおられます"』
アプリコットが用意してくれたセリフを"立て板に水"の塩梅でよどみなく、すらすらとシュトは"代表者"と話した。
『何聞かれても、似たような言葉で"丁寧な言葉"で返しておけば、オ―ケーだから』
『新しい御客様だと?!私は聞いていないぞっ!どういう事だ!』
『ワタシは見習いの為、存じ上げません。申し訳ありません』
『シュトは"見習いなんで、知りません、存じ上げません"とわざとらしく低姿勢でいれば、相手から多少馬鹿にされるけれど、それ以上の事はないと思うから』
『ふん、やはり外から来た奴は使えん。もういい!黙って、控えていろ』
『―――申し訳ありません』
代表者があまりにもアプリコットが言った通りに行動するので、シュトは笑いだしそうになるのを、頭を下げたまま堪えていた。
『相手は"優越感"に浸りたい だけなんだから、好きなだけ浸らせとけば、こちらにそこまで害は与えて来ないはずだから』
仮面を外しケロイドがなくなった滑らかな素肌のアプリコットは、少しだけ哀れむようにそんな事を口にもしていた。
"シュトが使えない"と勝手に判断した男は"領主専用"に設えてある、部屋の隅に置いてあった最高級の椅子を自分でわざわざ引っ張ってきて、それに座ろうとする。
(―――馬鹿じゃねーの?)
シュトは下げていた頭をあげて、その様子をみた時、ロックに指導された品の良い笑顔を浮かべながら、心の中で思わず毒づいていた。
(椅子は椅子でしかねーのになぁ)
『何か、文句でもあるのか?』
代表者の男は少しだけ、怯みを含んだ声でシュトにそんな事を言う。
シュトは気がつかないが、それなりに背もあり、若々し過ぎる故に彼は品よく微笑んだつもりでも、鋭さが残っており、それは知らず知らずに男を威嚇していた。
まだ腹に一物を抱えつつも、ロックのように"穏和さ"だけを与える笑みを浮かべれ術は、シュトにとっては難しい。
『いいえ、文句など。それではワタシは領主様の机の片付けを、引き続きさせていただきます』
(余計な"敵"は作らない方がいいよなぁ)
シュトがまた机を片付けを始める横で、アトが緊張した顔で佇んでいる。
(あのタイプの"人"とアトみたいなのは、相性が悪いからな)
男に気取られないように、アトの肩をトントンと叩いて小声で囁く。
『シュト兄とお片付けを一緒にして下さい』
『はいシュト兄』
シュトが小声を出していうのを、どうやら何かのゲームと勘違いしたアトは真似をし、同じ様に小声で答えていた。
無遠慮に部屋にズカズカと入ってきた、無駄に威張っている男に"人見知り"の為に緊張していたアトだが、"片付ける"という慣れた作業をすることで、何とか気持ちを持ち直す。
アトは挨拶への拘りが強いので、代表の男に連呼しないかを内心は冷々としていたが、シュトの杞憂に終わった。
シュトが少し扱いが難しい物を片付け、アトは揃えるのが簡単な筆記具などを、良い意味で拘りを発揮して、丁寧に整頓していく。
アプリコットが、見事に乱雑に仕上げていた机の片付けが終わりかけの頃、執事見習いの2人の後ろでガダッと激 しい音がする。
思わず兄弟揃って振り返ると、代表者の男がティーテーブルの支えとの中央にある柱の部分を厚い靴底で蹴っていた。
『また、通信を切っている!魔術に長けていて、どこでも受信出来るというのに、切っていては意味がないではないかっ!』
ドカッとまた大きな音をたてて、ティーテーブルの柱を忌々しそうに代表の男は激しく蹴る。
(関わりを持たない方が良い、特にこういったタイプの人間とは)
シュトは無視した方が良いと分かっているから、心の中に沸き上がる衝動を抑える為に、更に自分に言い聞かせる。
ただ、"物にも心がある"という事を、賢者によって先程目の当たりにさせられたのと、ロックが丁寧にティーテーブルを手入れをしている姿を見ていたシュトは―――。
また代表の男がティーテーブルの柱を激しく蹴ろうとした時、素早く側により結構な重量があるテーブルをヒョイと抱え上げていた。
通信機の事ばかりに、気を取られていた代表の男の脚は見事に空振り、力が余って"領主の椅子"から滑り落ちた。
序でに、滑り落ちた際に、椅子の座面の縁で後頭部をぶつけている。
(―――あ、やっちまった)
抱えあげていたティーテーブルを、シュトは代表の男から少し離れた場所に下ろした。
とりあえず"領主の部屋の調度品を守る"という執事としての役目と大義名分があるので、今は後頭部を抑えて呻いている代表の男を、シュトは無言で眺める。
『おっ、お前は何をしたかわかっているのか、つうう!』
『―――失礼しました』
シュトは我ながら、感情の入っていない謝罪をしているものだと呆れる。
呆れるが、自分がした事の"後始末"もしっかりこなさねば、アプリコットに迷惑がかかる。
(こっちが悪い事をした訳じゃないのに、謝るのは癪に障るけど)
シュトは謝罪を述べる為に、今一度頭を下げる。
『"代表"様、本当に申し訳ありませんでした』
名前を呼ぶより、肩書きで呼ばれる事を喜ぶので、シュトはそれで目の前の男に言葉を続ける。
『しかしながら、ワタシは見習いですが、領主様の部屋の留守を預かる立場の人間です。
領主様が不在の内に、領主様が代々大切に扱われてきた調度品を守るのも又、執事の役目でございますので』
シュトは一瞬だけでもの身体に、領主の部屋と初代の領主を愛した老執事―――ロックの心が宿ってしまったのではないか自分と思うほど、朗々と語っていた。
それは代表の中年男もそう感じたらしい。
見習い執事の少年を見上げながら思わず、息を飲んでいた。
(うん、待てよ?)
代表の男が黙る事でシュトにある疑問が擡げる。
(どうして、この代表のオヤジは、ロックさんが不在の事を何も聞いてこないんだ?)
ロックが数日前から臥せっているのは、周知の扱い。しかし――
(こんなオヤジのタイプなら、ロックさんが臥せっているにしても、"お前じゃ使い物にならない、ロックを呼べっ!!"と言いそうな奴じゃないか?)
シュトが疑問を抱える事で、代表の男に対する圧が抜ける。
その間に、中年の男はいそいそと立ち上がった。
『あたま、大丈夫ですか?』
更に追い討ちをかけるように、代表の男にアトが声をかけてしまっていた。
実際には心配をしてアトは声をかけているのだが、卑屈そうで常に優越感を味わいタイプの人間なら、曲がった受け取り方をしてしまいそうな、言葉の並びである。
いくら純粋に外部的な後頭部の傷を心配してかけた声でも、
"頭の中身は大丈夫ですか?"
そんな受け取り方をしてしまえる言葉であった。
『おい!客人に向かって何て口の聞き方だっ』
シュトの方は一切見ずに、アトに向かって怒声を浴びせる。
『ごっ、ごめんなさい』
アトが素直に謝った。
いかにも素直で―――"頭"が足りなさそうな少年を前に、代表の男はシュトによってやり込められた下らない自尊心を取り戻そうとする。
卑怯な人間にある常なのだが、自分より弱い"人"と認定したなら徹底的に見下し馬鹿にして、アイデンティティーを保とうとする。
シュトには貫禄負けをしてしまいそうだが、自分にそんな柔い言い方をしてくる少年なら勝てる―――そう考えた代表は早速アトを凝視していた。
"攻めいる隙はないか、取れる挙げ足はないか"
それはアプリコットの母親シネラリアが、4人の叔母達に毎日のように向けられていた物と同じだった。
そんな事は露程も知らないシュトとアトなのだが、代表の男の視線で十分不快になれた。
『そいつも、執事見習いなのか?』
『"そいつ"違います、名前は"アト"です』
アトはシュトの背中に隠れながら、自分の名前を主張した。
少年の反応を見て、いよいよ見た目は確りとした少年だが、彼の心は幼子みたいなようなものだと気が付いた。
"攻めいる隙があるなら、相手の事情など知ったものではない"
代表の男が"嫌な"笑みを浮かべるのが分かるから、シュトはアトを庇うように前に立つ。
(久しぶりの感覚だな)
兄弟2人きりになり、こうやって弱い弟を庇うのは、実にエリファスに弟子として引き取られて以来だった。
『―――その"出来損ない"はお前の家族か?』
『"出来損ない"の意味がわかりませんが、ワタシの弟です』
シュトは極力冷静になるよう、自分に言い聞かせる。
卑怯の中に常があるように、"優しい人"の常なのか
"自分の事をいくら馬鹿にされようが気にしない"が、
"大事な人を馬鹿にされると怒りが、抑えきれない"。
それはシュトにも当てはまった。
そして何の勘違いかしたのか分からないが、弟のアトを"馬鹿"にする言葉を吐く事で、兄のシュトが傷ついたような表情を浮かべる事に"勝った"と思い込む代表の男がいる。
『"出来損ない"の"クズ"を押し付けられたなら、流石のロックも嘘をついて"寝込んだふり"をするんだな』
代表の男がせせら笑い、アトの方を馬鹿にするようにして言う。
『―――ロックさん、嘘をいいません。本当に、気持ち悪そうでした』
アトはロックが"嘘つき"にされた事を怒り、直ぐ様に言い返す。
『"気持ち悪い"のはお前だろうが、そんな喋り方をして―――おい、お前は何をしているんだ?』
シュトの手には代表の見たことがない、黒光りする筒上の何かがを懐から出されて握られていた。
"この世界では見たことがなければ、聞いたことない武器"
"まるで誰かの意志があって、広まらないようにされている最悪な"魔法"みたいなもの"
(エリファス師匠ゴメン、せっかく紹介してくれた就職先だけど、俺には無理です)
心で謝罪して、シュトは右手で銃把を握り、左手で銃口の先に、更に筒状の黒い物を取り付けていた。
『―――テメェの方が、よっぽど根性がキメェんだよ』
そして取り付け後に銃口を、代表の男に向けた。
『そうだ、シュト君に良いものをあげよう、王都から荷物を送って貰ったついでに、運んでもらった昔私が試しに造ったんだ。
消音機。
これを銃口に装着すれば、音を大分抑えて銃が撃てるよ』
(さっきまでは、気軽な賢者殿の声にしか聴こえなかったのに、今思い出すと、悪魔の囁きみたいに聴こえるな)
銀の弾丸からはシリンダーをずらして、普通の弾丸を装填し、先程の男と同じように"見下す"意味で躊躇いなくハンマーに親指をかけて引く。
(なあ、賢者さん。あんた、俺がこんな風"銃"を使うと見越して消音機を"プレゼント"してくれたのか?)
シュトはトリガーを引くのも、躊躇いがなかった。
「待て待て待て待て!銃を撃ったのか!」
最後まで話を聞こうと考えていたグランドールだが、濃い茶色の瞳を丸くしてシュトの話を止めた。
「はい、シュト兄、銃を嫌なオジサンに向かって撃ちました!」
アトがキチンと答える事で、グランドールは冷静さを取り戻した。
「ああ、成る程"撃った"だけなんだな」
苦笑いを浮かべるグランドールに、シュトが申し訳なさそうに頭を下げた。
「はい、それで、その、領主殿の部屋を退出するのにグランドール様を理由にしてしまいました。
お名前を勝手に使わせて貰って、申し訳ありません」
頼られる事が嬉しい好漢は、シュトの言葉を聞いて、寧ろ機嫌良さそうに腕を組んだまま盛大に笑った。
(エリファスを"妹"のように考えるなら、シュトやアトはワシにしてみたら、甥っ子みたいなもんだからのう)
唯一無二の"姪"の為に、縦横無尽に動き回り、策を巡らせる鳶色の親友の事をグランドールはふと考える。
(成る程、恋人でも友人でもないが守りたくて仕方無くなる気持ちは、こんなものかもしれないな)
「がっはっはっは!何、構わんさ。どうせならワシも"辻褄合わせ"に付き合おう。良かったらもう少し銃を撃った辺りから、ここにくるようになった理由を話してもらえんか?」
"妹"が育てた子どもの話に、グランドール再び耳を傾けた。
"チュンっ"という短い音と共に、消音機を附けられた銃口から1発だけシュトは発砲する。
ガチャンと音がして、代表の男の帯剣が領主の部屋の絨毯の上に落ちて―代表の男は銃弾の掠った衝撃で、ドンと音を出して再び尻を絨毯につけていた。
『"シ ュト"―――貴様、いったい、何をした!?』
急に与えられた正体不明の衝撃に、尻餅をついたまま代表の男が喚いた。
(あっ、さっきの"根性がキメェ"って言葉忘れてる、良かった)
シュトはもう"見習い執事"を辞める決心―――エリファスが世話してくれた職場は諦める覚悟は出来ていた。
ただその事で世話になった人達に、迷惑がかからないように言葉使いには、"まだ"気をつけようと考えていたので、頭に血が昇った先程の一言を忘れてくれているのが有り難い。
『―――何だ、ワタシのお名前を存じあげていらっしゃるじゃないですか?。なら、うちの可愛い弟の名前も存じあげといてくださいよ、代表殿』
消音機をつけた銃口からは白い硝煙が立ち上ぼり、それをフッと吹いてから、未だに熱い銃身を懐のホルスターに戻す。
代表の男には、シュトが得体の知らない魔術を使ったようにしか見えなかった。
『シュト兄、アトは男の子です。可愛い、いけません!』
そして、アトがシュトが銃を扱った事に全く驚く様子を全く見せない事も、代表の男は驚愕する。
『ああっ、可愛いは悪かったって!ごめんなさい、アト』
あくまでもマイペースに自分の"拘り"を訴え、兄をポカポカと叩くアトにシュトは苦笑をして謝った。
『その―――ク、アトもその"魔法"が使えるのか?』
アトの事を"クズ"と呼び掛けるのを止めて、代表の男はシュトに尋ねた。
丁度尻餅をついた事で、ポカポカと兄を叩くアトの上着の内側に、シュトと同じホルスターが見える。
理屈はわからないが、"シュトの魔法"は充分に代表の男に恐怖を与える事に成功したらしい。
何せ豪華でもあるが頑丈でもある帯剣の金具が、捻れて弾けるように、小さな音を出す"黒い筒"みたいな物から出された魔法で壊された。
それを散々罵詈を吐いた少年も扱えると考えて―――代表の男は青くなる。
シュトはそこで迷った。アトは扱えることは、確かに扱えるが、今は銃を持っていない。
『―――扱えますよ』
とりあえずシュトは"事実"を伝える。
(アトが馬鹿にされるよりは、恐れられていた方が"俺"は良い)
多少"馬鹿"にされても、人の事が大好きな、人懐っこい弟の事を考えると、少しだけ独善的と解りながらも、弟が恐れられる方をシュトは選んだ。
『―――そうか』
(銃を持ってないのかばれる前に、アトと、この"代表"を離しておきたいな)
シュトが何も言わなくなったへたりこむ代表の男を見ると、手は僅かに震えている。
そしてその手の中に、一方的に呼び掛けてばかりの通信機があるのに気がついた。
シュトの頭に、頼り甲斐のある褐色の大男の姿が浮かぶ。
(グランドール様なら、アトとのコミュニケーションの取り方をわかってくれている)
『代表殿、もう日も昇ってきましたし、ワタシがマクガフィン様をお呼びして参ります』
「成る程。アトと代表の奴を離す為に、ワシの所に来たわけか」
「申し訳ありません。ネェツアーク様やアプリコット様からも、マクガフィン様と、パドリック様は疲れていらっしゃると話を聞いていたのに」
シュトがまた深く頭を下げると、アトも真似をする。
グランドールが組んでいた腕をほどいて、大きな掌でシュトの髪をガシガシと撫でた。
「ワシの所に来て貰って良かった。
以前のワシは、お前の師匠の助力を求める声に気がつけなかったから。
せめてお前達兄弟を少しぐらい、助けてやりたかったんでな」
「グランさま!アトも"良い子"してください!!」
感慨深く言った後に、アトがそんな事を言うのでグランドールは笑い、シュトは"良い子"という言葉に少し照れてしまっていた。
「ああ、エリファスの弟子達は2人とも良い子達だ」
そう言ってグランドールはアトの頭もガシガシと"良い子"と撫でてやると、えへへへと無邪気に声をあげていた。
「マクガフィン様、ありがとうございます」
先程の"代表"の言葉に傷付いたつもりなどシュトには微塵もなかったが、こうやって受け入れて貰える"優しさ"は本当に何事にも代えられないものだった。
そのシュトの様子が、グランドールには痛ましく感じてしまった。
(アルセン、ネェツアーク、ワシらの周りの子ども達は苦労人が多いなぁ)
今度は"銃の兄弟"の頭を纏めて、ワシャワシャと撫でてやった。
「シュト、ワシの事は名前の"グランドール"で構わん。
それにワシより、余程アトの世話が上手い奴がいるから、心配は本当にしなくていいぞ」
「グランドール様よりですか?」
早速名前でシュトが呼び返した時、グランドールの背後にある、寝室に繋がる扉が静かに開いた。
「グランドール?ネェツアークが戻って来たんですか?」
白いシャツと室内着であるスラックスを身に付けて、多少乱れた金髪の"美人"が寝室から現れる。
「あれが、子守りの天才アルセン・パドリック。
見た目も中身も、図書館の子ども達から大人気の"アルセンさま"だからな」
グランドールの言葉に、寝室から出てきたばかりアルセンは激しく瞬きを繰り返す。
「いきなり何を言って」
アルセンが呆れて口を開くと、頭を撫でる日に焼けた手をスルリと抜けて、アトが素早くアルセンの前に立ちはだかった。
それからマジマジとアルセンの事を見つめる。
「えっと、アトさん?」
アルセンが優しく語りかけると、純真無垢な少年は笑顔で兄に呼び掛ける。
「わあっ、シュト兄、"天使"さまがいるよ!」
「なっ?!」
アトの"天使"発言に驚いたのは、言われた当人のアルセンである。
「アトさん、私は軍人のアルセンですよ?。昨日、会ったでしょう?。
ほら、アルスの先生ですよ」
分かりやすい例えで教えておいた"呼称"をアルセンが穏やかに語りかけても、アトは頭をプルプルと左右に振った。
「アルセンさま違います、天使さまです!」
天使さま!と、アトは上機嫌にアルセンの周りを跳ね回り始める。
「―――グランドール」
アルセンが半ば助けを求めるように、親友を見上げる。
「ん~、前髪が降りてるからじゃないか?」
グランドールが極めて真面目な顔で答えて、アルセンは体調が優れないながらも、魔力を調整する為に嵌めている、白手袋をつけた右手で前髪をあげてみたが―――。
「天使さま、前髪降ろしていた方がキレイです!」
「ありがとうございます」
効果は全くなく、アルセンは小さくため息をついて、ピョンピョンとまだ跳ね回るアトの肩をトントンと叩いた。
「アトさん、部屋の中でジャンプはいけません。それに私は、アルセンです」
ちょっとだけ怖い顔を作って、叱るとジャンプは素直に止めた。
「はい、天使さま!ジャンプしません!」
アトは素直に言うこと聞いてくれるが、アルセンを"天使"と呼ぶことは止めてはくれない。
「外見ではないのでしょうか?。でも、昨日は普通に私の事は"アルセンさま、軍人、アルスのせんせ"と言っていましたし。軍服を脱いでいるからですかね?」
「確かに軍服は特徴的な造りだからな。
じゃが、それで見方を区別しているにして、 "天使"と呼ぶ理由がわからんのう」
やや髭が伸びた顎に、日に焼けた手を当て、グランドールも逞しい首を捻る。
「シュトさん、何か心当たりはありますか?」
アルセンのほとほと困った顔でシュトは、あることを思い出した。
「あっ!?そうだ、天使の話は師匠が話してくれた絵本の童話です!」
「童話だと?」
「童話ですか?」
グランドールとアルセン、思わず2人で言葉が揃っていた。
「はい、シュト兄!。"泪が出せない天使さま"のお話です!」
アトの言葉にはグランドールとアルセンは、今度は無言で顔を見合わせていた。
「そうだ、確かそんな題名の話だった。確か先生が勝手に創った話じゃなかったかな?。
で、エリファス師匠が言う天使が丁度、アルセン様みたいな姿なんですよ。
金髪にグリーンの瞳に、白い衣、確かアトは意味が難しかったみたいで、"白い衣"の事を"白いシャツ"って師匠から教えられたんです」
「アトの中では、"金髪にグリーンの瞳に、白い衣"は軍人アルセン・パドリックではなく、"天使さま"が優先順位が上というわけなんだな」
グランドールが納得が言った様子で、天使と言われて多少恥ずかしそうにしている美人の親友を眺める。
「私としては、"天使のお話"の内容も気になりますが」
自分を天使と表現はされるのは複雑且つ、恥ずかしくて、余り考えたくはないアルセンである。
しかし、"泪が出せない天使さま"の特徴や外見は、高い確率でアルセンをモチーフにしているのは、間違いない。
『アルセン、人は嬉しい時、泪を流せるものなの?』
半ば怯えるようにアルセンに尋ねてきたエリファスの姿が、脳裏に浮かぶ。
どういうつもりで弟子のシュトやアトに、自分の事を天使に模して話したのか、本当はエリファス本人にアルセンは尋ねたかった。
そして何より、アルセンは親友である彼女と話したくて仕方なかった。
(どうしてだかエリファスの存在が、ここにきて希薄になってきたような気がしてなりません)
アルセン自身、魔力を吸われ体調が優れない為もあるのだろうが、不安が身体中に満ちていた。
今は何とか自力で立ててはいるが、正直何かに座るか凭れかかりたい状態まで体力、魔力共に落ちている。
シュトがそんな儚げなアルセンの様子を見て、今は鳶目兎耳を名乗る鳶色の賢者が、彼を自分達共々、"戦う事"に参加させない理由がわかった気がした。
そして"弟"がまだ"天使"とはしゃぐので、幼い頃シュトとアトを寝かしつけながら、豊かな胸の母でも姉でもないけれど、慈愛に満ちた女神のような女性は創作した昔話を思い出していた。
"そうして、とても優しい天使さまは、大切な人を傷つけしまった事をとても悲しんで"
優しい声で語られる話を思い出して、ゾクリとした悪寒をシュトは感じる。
(師匠が話した"天使の話"の内容が、もしもこれから起こる戦いに重なるのなら)
話の中の"天使"と重なってしまうのなら―――アルセンに"死"に変わらない事が起こる事になる。
(偶然、なんだよな?)
頭に広がる考えは、シュトが記憶と起こるかもしれない、悲劇をこじつけているだけかもしれない。
("夢"みたいな話でしかないし、縁起が悪い、黙っておこう――。
何より、アルセン様は"戦い"に参加しないはずだから)
シュト自身が、アトがアルセンを見て"天使さま!"と言い出したので、やっと思い出す事が出来た話でもあったのだから、信用性の欠片もない。
(思えば、あの鳶色の賢者さん、"天使の話"なんて知らないはずだよな?)
鳶色の賢者ネェツアークが、知っているわけがない。
(でも俺達より先にエリファス師匠は、グランドール様達と縁があったわけだから。何らかの形で、知ってはいるのかも)
そう考えて、シュトにとって話しやすくなった、グランドールに尋ねてみた。
「グランドール様、あのすみません、いきなりなんですが。
鳶目兎耳のあの方は、エリファス師匠とも、友だちだったんですか?」
シュトの突然の質問に、グランドールがまた目を丸くする。
アルセンは"天使さま"とはしゃぐアトに付き合っていて、身体の疲労もあるためか、どうやらこちらの話は聞こえていないようだった。
「いや、ネェツアークとエリファスは不思議とあんまり縁がなかったな。
あいつの"嫁さん"とは、エリファスは仲が良かった記憶はあるが」
「そうですか、"お嫁さん"と」
一方ではアトがはしゃいで"天使さま!"と、体力が殆んどないアルセンを寝室にひっぱりこんでいた。
興奮が治まらないのか寝台に座って、足をバタバタとさせながらアルセンに話しかけるので、到頭"天使"による説教が始まってしまっている。
勿論、アトにも理解出来るように向かい合い、アルセンもベッドに腰かけて丁寧に語りかけている具合だった。
その頃に、漸く客間の入口で取り残された、シュトとグランドールは動きだす。
グランドールの"失敗した"という顔と、シュトの"度肝を抜かれた"という顔が同時に向き合う。
「あの人、結婚出来ていたんですか?」
「お前さん、何気に良い性格しておるのう」
誤魔化そうとする前に、シュトによるあんまりな"親友"に対する評価に、苦笑いを浮かべてしまう。
そして誤魔化すよりも、事情を話してシュトに口を閉じて貰った方が無難だと考え直す。
「あいつは嫁さんはいたんだがな、ある事情があって"亡くなった"。
エリファスも、嫁さんが亡くなったのは知っているはずだ。
ただひどく哀しい話でもあったから、弟子達に話さなくて仕方ないともワシは思う」
そこでグランドールは思い出す。
"グランドール、アルセン、もしもの時は私の"家族"を、ネェツアークをよろしくね"
4人だけでした結婚式で、美しい紅い色の髪と瞳を持ったメイプルから、ネェツアークを頼まれた事を。
そしてネェツアークの妻が亡くなった事で、エリファスに"形"だけでも家族になろうと"プロポーズ"紛いな事をしようと決意した事も。
(メイプルが死んで、ネェツアークの心が壊れて、大事な繋がり達が、一時で随分と壊れそうな時期でもあったのう)
まだ若かったグランドールは、大切な人達と離れてしまいそうな縁を、歪な形で繋ぎ止めようとしていた。
妹としか思えない女性に、縁が途切れないように"プロポーズ"をしてしまっていた。
エリファスは驚いた顔をして、プロポーズを受け入れてくれた。
この世界で家族を象徴する"銀"の指輪を渡すと、涙を流し、指には嵌めずに大事そうに掌に包みこんで、困ったように笑った。
その時、一時ではあるがエリファスが"人以上"の慈愛に満ちた何かに、グランドールは感じていた。
そして何より、兄としか感じる事が出来ない男が"これ以上仲間を喪う事に怯えている"事にエリファスが気がついていたと、今のグランドールなら分かる。
『―――じゃあ、ある意味丁度良かったかも。
グランドール、これは私からの"贈り物"。銃の兄弟の、初代が昔王都で手に入れたの。
指輪は嫌いだって言っていたから、腕輪にした。受け取ってグランドール』
エリファスは腰につけている鞄から、金の腕輪取りだし、左手首に嵌め―――それは今もグランドール の左手首に嵌められている。
『そしてこれも、渡して置くわね』
金の指輪だった。
早速金の腕輪が嵌められた、日に焼けたグランドールの左の掌にエリファスが、指輪を置いて、グッと拳にして握らせる。
『ねえ、グランドールにとって"家族"もきっと大事な存在だろうけれど、家族以上に貴方を心配して、"心配をかけまい"って強がっている友だちの事を忘れていない?』
エリファスに言われてグランドールが直ぐには気が付けなかった。
『この指輪や、腕輪の色の髪の毛を持った、泣きたくても泣けない"友だち"の事を忘れていない?。
今は1人で、仲間の分も戦ってくれてる"天使"みたいな人』
そこでグランドールは直ぐに思い付いた。
理不尽な死を遂げた友人を目の当たりにしても、
妻を失って"人"の姿から友人が逃げ、隠栖したとしても
仲間を喪う事に怯え、震える男の前でも1人変わらず、軍人でありつづけ"戦う"事を選んだ親友。
エリファスに言われて、初めて気がついた。
先日、理に叶わないプロポーズを相談した時さえ、いつもと変わらず優しい笑顔を浮かべ、相談に乗ってくれたアルセンを思い出した。
『仲間が死んで、1人は引き込もって。
そして、一番に敬愛する"親友"が怯えている中で、ただ1人で"変わらないでいてくれる存在"の有り難さ、"兄さん"にはわからないのかしら?』
エリファスが鋭い瞳で"兄"であるグランドールを見上げる、親友アルセンの強さを語る。
『―――』
何も言えず、黙るグランドールの耳をエリファスは引っ張った。
『―――痛いぞ』
エリファスは怒っていた。
『私の"親友アルセン"に心配かけてる、私の"婚約者"にこれぐらいいいでしょ?。
それに―――貴方もメイプルに頼まれたんじゃなかったの?』
"グランドール、アルセン、もしもの時は私の"家族"を、ネェツアークをよろしくね"
"ネェツアークは器用そうでいて、一番不器用な"人"だから。
そんな面倒臭い奴の友だちでいてくれるのは、グランドールとアルセンぐらいだから、お願いね"
『私はあまり縁がなくて知らないけれど、メイプルの伴侶の人の事。
アルセンとグランドール、この"2人"にメイプルは頼んだはずよ。
そして、その約束を、今はアルセンが1人で2人分を守っているみたいなものだわ』
『そうだな』
金の指輪を握らせられた拳に力を入れる。
『グランドールは、"兄さん"は何にそんなに怯えて、今動けないでいるの?。貴方は、この国を守る英雄の1人じゃないの?』
『―――ワシは』
目を閉じて浮かぶのは、青い髪の貴族に殺される妹の姿と、友人を得るまでの異国の戦いばかりを求めて生きていくような日々。
馬鹿をしあえる悪友に、尊敬出来た異性の友人、絶対の信頼を寄せてくれる親友に、そして―――失ったはずの妹を彷彿とさせる目の前にいる女性。
『大切な人を喪って、戦いを好む自分に戻るのが怖いの?。
戦う事ばかりの日々が続くのが、嫌なの?』
まるで心を見透かされているような、エリファスの声にグランドールは少しだけまた"怯えて"いた。
『違う、ワシが怖いのは"仲間"を友との繋がりを喪う事だ。
戦う事が、怖いわけじゃない』
エリファスは、引っ張っていたグランドールの耳を離した。
『ならアルセンの方が、よっぽど立派ね!。
自分も心がどんなに震えて、怖くても、大事な人が不安に怯えていたなら、心配をかけないように自分の怖さや怯える心を微塵も出さない。
そうする事で、相手が無理せず強がることをしないですむように。
例え自分の心がズタボロになっても、自分だけは笑顔を絶やさないように"変わらない"ようにしている』
エリファスの、自分の事を自分以上によく知っている上での、親友を思いやる"妹"の言葉が胸に痛かった。
エリファスに贈る銀の指輪を選ぶ際も、アルセンは微笑みを絶やさずに、そして少しだけ叱ってくれた。
『グランドールが、エリファスと"本当の家族"になりたいんでしょう?。
なら貴方が選ばないといけませんよ、お店は良いところを教えて差し上げますから。
そのお店なら、エリファスのお気に入りな物ばかりのだから、グランドールのセンスでも大丈夫でしょう』
少しだけふざけて言ってくれる言葉に、"変わらないアルセン"を感じて、心から安堵しながら、その声を聴いていた事に今になってやっと気がつく。
多忙な仕事の休憩中の間に、丁寧な地図を書いてアルセンはグ ランドールに渡した。
『エリファスは"優しい"ですから、グランドールが婚約指輪、プレゼントをくれたなら喜んでくれますよ』
そう言って店の場所が書かれたメモを―――今は金の指輪がある左手の中に、優しく渡してくれた感触を思い出す。
『―――ワシは』
"プロポーズが上手くいくに決まっていますから、祝杯をあげる日を教えてください。
仕事をサボって、酒を呑める良い口実になりますから"
『その指輪、誰に渡して欲しいか分かるよね?。
指輪を渡す事で、きっと少しは、アルセンの優しい気持ちを助けてあげられるはずだから。
1人で頑張らなくてもいいんだって、伝えてあげて。
友人、親友どうしなんだから、助けあえばいいんだって。
"尊敬して貰える先輩"に早く戻ってあげないと』
エリファスの言葉に、ゆっくりとグランドールは頷いた―――が、少しだけ逞しい首を捻った。
『それならエリファスから、アルセンに渡せば良いんじゃないのか?。
お前とアルセン、結構つるんで仲よしなんだろ?』
大きな掌を広げて金の指輪を眺めてグランドールが言うと、エリファスは笑って頭を小さく振った。
『それは、"絶対"に出来ない』
少しだけ切なそうに、"妹"は慈愛に満ちた目元を細めた。
それだけなのだけれど、それはエリファスの中では絶対の不文律であるとグランドールには分かった。
それから気持ちを切り替えるように、エリファスは威勢よく口を開く。
『だって、私に本当に"愛する方"が出会った時に、私から他の人に愛の証明になりそうな物を渡したのなら、失礼になってしまうもの!。私が貰う分には、"自分の奥さんが魅力的だという証明"になるからいいんだけどね』
『貰う分にはいいって』
グランドールが思わず苦笑して、エリファスの理屈を受け入れる。
少しだけ調子に乗った"妹"をからかうつもりで、指輪を握ったまま左手首を持ち上げて、先程貰った金の腕輪をあげて見せる。
『じゃあ、この腕輪は?。それにワシから指輪を貰っただろ?』
ここでエリファスは豊かな胸を揺らして、大きなため息をついて、"反撃"するために大きく息を吸った。
『だーかーらー!、グランドールは"お兄さん"で、銀色は家族の象徴で、従って銀色の指輪は家族の印。
家族愛みたいなものは、叡知のある方は理解してくれるから、貰っちゃってかまわないの!。
それは腕輪は贈り物!指輪みたいに"愛"みたいなやっかいなものが、入ってないの!。
しかも、金の腕輪は金の指輪と揃えなものなの!。
だからオーケー!わかった"兄さん"?!』
エリファスが銃の腕前と同じ様に、要所に言葉の弾を口から撃ちだして、グランドールをやり込める。
『そっ、そうなのか?』
"口が達者な妹に、やり込められる兄"とい言葉が見事に当てはまる状況だった。
それからエリファスはグランドールのプロポーズを受けた、下宿の窓から外を見る。
曇り空で、雨がふりそうな雰囲気だった。
『だったら"善は急げ"!。雨が降る前に、アルセンの所に行ってきなさい!』
『今からか?』
余りに急な発言に目を丸くするグランドールに、エリファスが頷いた。
『私と"家族"と同じくらい、アルセンの事が大事なんでしょう?。
そして、そのアルセンと一緒に守らないといけない約束を、メイプルに頼まれているんでしょう?。
今まで、アルセン1人きりにさせていたんだから、早く一緒にして、"グランドール"が元に戻ったんだって教えて、私の"天使"みたいな友達を助けてあげて』
『"天使"みたいなって。最近"可愛い"っと言っても怒るんだぞアイツは。ん、じゃあ、行ってくる』
グランドールは笑って、エリファスの部屋を出ようとした。
久しぶりに、腹から笑った気がした。
『"兄さん"!』
呼ばれて、振り返ると左の薬指に銀のリングを嵌めてグランドールに、"ニッ"と笑ってみせる"妹"がいた。
『ありがとう!嬉しかった!』
『ああ、"家族の色"の指輪。よく似合う』
エリファスはグランドールの笑顔を眩しそうに、けれども安心したように見つめた。
それから思い付いたように、両掌を合わせて、パンっと鳴らした。
『あっ、そうだ。指輪だけだったらなんだから、今までの感謝の意味を込めて花もつけたら?。
アルセン、確か向日葵が好きだとか言っていたから』
『花か。それもいいか、確か向日葵は王家を象徴する花だよな?』
グランドールがあっさりと返事をすると、エリファスは少しだけ考えてるように、数度瞬きをしてから、又、ニッと笑った。
『そうそう、"王家の花"だから。縁戚のアルセンにはピッタリだから。
じゃあ、金色の指輪と向日葵の花を持って、アルセンの屋敷に行ってらっしゃい!』
『ああ、じゃあ、今度こそ行ってくる』
『いってらっしゃい!グランドール!!』
日に焼けた"兄"が扉の向こうに消えて、しっかりとしまった後
『ありがとう、さようなら、グランドール』
エリファスは銀の指輪を外して、一緒に貰った白い花束をグッと抱き締めた。
部屋の床に数枚の花弁が、舞い落ちた。
(やけに微笑ましい感じで、花屋に見られのは気のせいか?)
向日葵を1輪だけ花屋で買って、今日は非番のアルセンがいるという貴族の住宅街にあるパドリック邸に向かう途中で、グランドールは首を捻っていた。
(まあ、いい。ついでにアルセンに"プロポーズ"が上手くいった事も伝えよう。
確か、今日は屋敷に1人だと言っていたからな。
恥ずかしい思いをせんでも済む)
国から派遣されているパドリック邸の門番に、片手を挙げて通り過ぎる。
扉をノックすると、私服のアルセンが直ぐに出てきた。
『グランドール、雨が降りそうなのにどうしたんです?』
綺麗な緑の瞳を驚きで大きく開いて、上機嫌そうな体の大きな親友を見上げる。
『礼を良いに来たんだ、エリファスのプロポーズ。上手くいったぞ』
エリファスがニッと笑ったように、グランドールも丈夫白い歯を見せて笑った。
『―――それは良かった。じゃあ、早速エリファスも合わせて祝杯をあげる準備を』
少しだけ驚いた後に、アルセンは綺麗な微笑みを浮かべた時、グランドルが無言で、サッと1輪の向日葵を差し出した。
『えっと、これは私にですか?』
アルセンが戸惑うように向日葵を見つめると、グランドールはまた無言で頷いた。
『―――ありがとう、ございます』
アルセンがぎこちない様子で、休日の為に素肌である白い右手で向日葵を受けとる。
グランドールでも解るくらい、アルセンの白い頬に朱色がさしていた。
『あと、これもだな。剥き出しで悪いんだが』
そう言いながら、エリファスから貰った金の指輪を腰の鞄から取り出して、向日葵を受け取らなかったアルセンの左手首を、金の腕輪を嵌めているグランドールの武骨な左手がぐっと握った。
『まだ、何かあるんですか?』
『ああ、取って置きだな。それと今まで、本当にすまんかった』
厳つい眉で、日に焼けた顔の眉間に皺を刻み、心から申し訳ないっという表情をグランドールは作った。
『―――一体どうしたんです、グランドール?』
紅い顔の中で浮かべていた笑みの中に、困惑を混ぜ、アルセンが尋ねた。
『お前の秘密を教えてもらっているのに、お前が涙を流せない事に甘えていた。
それに"尊敬をしてもらえる先輩"という、アルセンの夢を壊して悪かった』
手を握られたまま、"困った笑顔"を浮かべてアルセンは小さく頭を振る。
『それは、私が勝手に"マクガフィン中曹"だったグランドールに押し付けてしまった"憧れ"ですから』
『いいや、アルセンから"憧れ"られた事で、ワシは"憎しみ"の与えてくれる虚しさと無意味さに気がつく事が出来た。
だから、今までの感謝の意味も込めての贈り物だ』
申し訳ない顔から笑顔にもどしながら、自分の左の掌の上に、重ねるようにアルセンの左の白い掌を上向きにして、"金の指輪"を置いた。
自分の左の掌に置かれたのが"金の指輪"と気がついたアルセンの顔が愈々《いよいよ》本格的に紅くなって、流石のグランドールも気が付いて怪訝そうな顔をする。
しかし、グランドールの怪訝そうな顔でアルセンは少し冷静さを取り戻していた。
左手はグランドールに委ねたまま、向日葵を受け取った右手を胸にあてて、アルセンは大きく深呼吸をする。
深呼吸をするアルセンを、グランドールは不思議そうに見つめた。
まだ紅い顔をしたまま、アルセンはグランドールに質問をする。
『グランドール、貴方はこの国で"金色"の意味を知っていますか?』
『いんや?金だから、高価な意味とか?』
大きな身体で幼い子どもが不思議がるように、首を捻った。
アルセンは、小さく"やっぱり"と言った後、グランドールに左手を握られたまま笑い出した。
『なっ、なんなんだっ?!』
今度はグランドールが顔を紅くして、無性に照れ臭さくなっていた。
『笑ってごめんなさい、グランドール。
あの、それと、もしかして、今回のプレゼントの指輪と向日葵に関してはエリファスが絡んでいませんか?』
アルセンはまだ"金色"の意味を答えずに、グランドールに質問を続けた。
『どうして分かった?!』
またしても素直過ぎる"親友"の反応に、アルセンは笑みを溢して――素敵過ぎる"親友兄妹"に出逢えた事をを幸せに感じて、笑いながら涙を流していた。
"悲しい泪は流さない"アルセンが泪を流すということは今は彼が 微笑みながら泪は、"喜び"と解るが、グランドールは軽く戸惑いを抱く。
『そんなに涙を流せる程、指輪や花を貰う事は幸せな事だったのか?』
アルセンは流れる涙を拭いもしないで、小さく口を開いた。
『確かに、指輪や花を貰う事は嬉しかったです。
何より、ほんの少しだけいつもの、私達に戻れたような気がして』
『え?』
思い出すように、静かに緑の瞳を閉じてアルセンは続けて語った。
『本当ならネェツアークがイタズラをして、グランドールがそれに巻き込まれて"共犯"になって、私は呆れて、メイプルがそれを窘めて最後には皆で笑って。
後で私とエリファスでグランドールでその話をして、3人でまた笑ったりして。
内緒でしたが、メイプルから、私はグランドールに甘すぎる、と叱られた時もありました』
『メイプルに"2人"でネェツアークの事を頼まれていたのに、本当にすまなかった』
『私はグランドールに謝られたら、もう何もいえませんよ。
だからメイプルに、私は"グランドールに甘い"と叱られていたんでしょうけれど』
それから左の掌を乗っている金色の指輪を、見てから向日葵を見つめた。
『―――まあ、今回のイタズラはエリファスからされたわけですが』
アルセンが親友のエリファスがイタズラをする時の"ニッ"とした笑顔を思い出しながら、グランドールを見つめて少しだけ人の悪い笑みを浮かべる。
『グランドール、向日葵の花言葉は光輝(ひかり。かがやき。名誉。)もありますが、"私はあなただけを見つめる"という意味があるのご存知、ではないみたいですね。その顔は』
グランドールは、アルセンが向日葵の花言葉の意味を口にした途端に、真っ赤になって固まっていた。
エリファスにプロポーズした時でさえしなかった緊張を、アルセンを前にして味わっていた。
アルセンは、やれやれと言いながらも、優しい笑顔で固まってしまったグランドールの左手から、金色の指輪を握った自分の左手を外す。
そして、1輪の向日葵を握った手で器用に金の指輪をつまみ上げて、緑の目で内側を覗いた。
『―――やっぱり、やってくれていますね、エリファスは』
アルセンは微笑みながら、喜びの為に流れた涙の跡をようやく指で拭った。
『指輪の中に、貴方の名前が彫られています、グランドール』
『なっ、なんだって?!』
アルセンはそれから澄ました顔をして、金の指輪をスッと自分の左の薬指に嵌めた。
『しかも驚くくらい、サイズがあっていますね』
『んな!?』
グランドールは先程から真っ赤になったままで、呻き声みたいな言葉しか出していないのに、アルセンは思わず笑った。
『エリファスとこの前話した時に、やけに私の左手を"疲れているだろうから、マッサージしてあげる!"とふざけていると思っていたら、こういう意味でしたか』
『エリファスは何を考えているんだっ?!』
グランドールが見事に慌てる中で、エリファスの"趣味"を知っているアルセンは、ただただ笑って、"兄"をからかう"妹"に付き合って悪ふざけの止めをさす。
『ついでに、男なら知らなくて仕方がないかもしれませんが、"金色"はこの国では"最愛"の意味を現します。
どうやら"向日葵の花"と"金色の指輪"のワンセットで、私はグランドール・マクガフィンに、"プロポーズ"されてしまったようです。
母上に"孫は諦めてください"と言わなければなりませんね。
責任とってくださいね、グランドール』
わざとらしく、アルセンが言うと、グランドールは耳まで紅くしていた。
『―――エリファスぅうう』
グランドールが情けない声を出し、脱力してをガックリと頭を落としてアルセンの左肩に乗せた。
アルセンは少しだけ驚いたが、そのまま頭を乗せてやる。
そうする事で、すぐ側にあるグランドールの耳に、囁いた。
『エリファスを責めないで上げてくださいね』
赤っ恥をかいて、恥ずかしさに落ち込む"先輩"に、アルセンは慰めの声とエリファスを庇うを言葉をかけた。
『責めやせんさ、ただ、イタズラが過ぎると、叱り飛ばすがな』
アルセンの肩に頭を乗せたまま、モソモソとグランドールが口を開いた。
苦笑しながら、アルセンは更に親友エリファスを庇った。
『勘弁してあげてください。貴方がメイプルの死とネェツアークの様子を見た事で、怯えてばかりいる事に、エリファスは気がついていましたから』
そう言って優しく指輪を嵌めたままの左手で、肩に乗るグランドールのの髪を何度もアルセンは梳いてやる。
『"兄さん"を少しからかって、元気を出させたかったんだと思いますよ。グランドール。貴方はまた最近、夜中に飛び起きているじゃないんですか?』
『―――』
今度は無言で、アルセンの肩に頭を更に押し付け、小さく左右に振った。
深く追及はしないで、グランドールの髪を梳き続けて、形の良い唇を開いた。
『私も彼女から、エリファスから心配してもらいましたから』
そこで漸くグランドールは、アルセンの肩から頭を上げた。
指輪を嵌めたアルセンの左手も、グランドールの頭から離れる。
金髪の前髪の隙間から見える緑色の瞳を見つめる、グランドールの濃いブラウンの瞳が、心配そうに揺れていた。
『―――エリファスにも心配されましたが、私は大丈夫ですよ。
絶好調とは、言えませんけれどね』
少しだけ弱々しくアルセンが笑って、更に言葉を続ける。
『それに、私にとって"メイプル"は本当に敬愛すべき女性で大切な人でありました。
けれど、メイプルを失う事で、心が壊れてしまう程、ネェツアーク程、彼女の事を愛しているわけではなかった』
『それは、ワシも同じだ。メイプルは、誰よりも敬愛出来る異性だった』
とても大事な"仲間"で"親友"だった。
4人の英雄の仲間の内で、本当の意味で賢かったのは、"メイプル・イベリス・サクスフォーン"だとアルセンもグランドールも、思っている。
そして何より彼女の"伴侶"となった男ネェツアーク・サクスフォーンか彼女の"賢さ"と"優しさ"を良く知っていた。
そして心の底から惚れて愛していたから、彼女を失った、彼の心は"壊れた"。
まるで彼女は自分の存在が消える事を察知していた如く、アルセンとグランドールにネェツアークの事を頼んでから、"殺された"。
"グランドール、アルセン、もしもの時は私の"家族"を、ネェツアークをよろしくね"
今一度、彼女との約束をアルセンとグランドールは思い出す。
『―――せっかく、エリファスが思い出させてくれた約束です。
グランドール、どうせならこの際に金の指輪と、貴方が嵌めている腕輪に誓いませんか?』
サアッと音がして、雨が降りだしていた。
『何を誓うんだ?』
雨の降る音が、不思議と優しく耳に入ってきてグランドールには心地良かった。
『せっかくの最愛を示す金色ですから。
これからは、誰1人"最愛の人"達を失わないように、私とグランドールは努力すると言う事で、いかがですか?』
両腕を組むというアルセンが良くする姿で、微笑み提案する。
『ワシとアルセンだけがか?』
グランドールは右手を腰にあてて、金の腕輪が光る左手で自分の顎を掴み、頭を傾ける。
『ええ。私とグランドールだけです。
ネェツアークは勿論ですが――エリファスには、心配をかけてしまいましたからね。
"兄"と"親友"で、秘密裏に護ってさしあげましょう。あっ、"夫"と親友になるんですね』
アルセンが苦笑いをして、グランドールを見上げると、何かを深く考えこんでいるようだった。
『アルセン、その"誓い"誓わせて貰おう。
だが、1つだけ訂正しないとならない』
顎から左手を外して、その手首にある金の腕輪をグランドールは外した。
『訂正、ですか?』
アルセンも左手の薬指から、金の指輪を外す為に右手をかけた。
この国の誓いの作法の1つで、誓いを立てる際に"物"にかけて誓う場合は、その物同士を重ねあわせる。
そして、その時に響いた音を心胆に刻みこむ。
2人が共に、金の指輪と腕輪を外した時にグランドールは口を開いた。
『"夫"になるのは、止めておこう』
まるで"目が覚めた"みたいな言い方で、グランドールはアルセンに告げる。
アルセンは切なそうな顔をして、外した指輪を握り締めたまま、何も言わなかった。
『エリファスはワシが、"大切な人を失う"事を恐れているのに気がついていた。
だから、ワシが血迷ってプロポーズした事にも気がついていた。
けど、断ったらワシがまた更に駄目になるのも、気がついていた。
だから優しいエリファスは、"妹"は受け入れるしかなかった』
外した腕輪を見つめ、渡してくれた時の彼女の笑顔を思い出す。
『断った後、ワシがすがる相手は、エリファスにとっても、大切な"親友"アルセンにしかいない事を分かっていたんだろうな。
ワシが落ち込んだら慰めてくれるのは、今はアルセンとエリファスだけだから。
エリファスがワシのプロポーズを断ったのなら、全身全霊でアルセンに甘えてしまっていただろうから』
『―――グランドール』
アルセンは本の少しだけ苦笑して、今は指に摘まむ金の指輪をまた見詰めて、誓いを立てる為にグランドールの前に差し出す。
グランドールも、指輪と重ねる為に腕輪を前に出した。
『エリファスは、きっとワシという"兄"とアルセンという"親友"がいれば、この世界では幸せなんだろう。
もしかしたら、夫なんかいらないかもしれんな』
急に"兄貴風"を吹かすグランドールに、思わず吹き出してしまう。
『―――エリファスを結婚させてあげないつもりですか、"お兄さん"?』
『ん~、そうだな~。どっかの国の王様なら認めてやらん事もならんかな。あと、アルセンにもチェックして貰って認めたなら、いいだろう』
グランドールの言葉に、ふざけながらも半ば本気に近い言い方に、アルセンも乗ることにする。
『私のチェックは厳しいですよ?。
フフフっ、エリファスがいないのに、こんな話を勝手進めてもいいんでしょうか?』
『構わんさ、大事な"妹"で"親友"なんだからな。さあ、誓おう。アルセン』
グランドールの呼び掛けに、アルセンは優しく微笑んで頷いた。
優しい雨の音の中、"兄"と"親友"は今まで影から2人を気遣ってくれていたエリファスの"幸せな人生"を願って、誓いを立てる。
キィ―――ンと金の腕輪と指輪が、音を奪う雨の中でも互いの音を遮断する事なく、互いに認め会うように、響き渡った。
『私、アルセン・パドリックはこれからの人生を"最愛の人"と自分で定めた人達が健やかに生きていけるように、尽力を尽くす事を、この指輪に誓います』
先に祈るように、アルセンが誓いを立てた。
次にグランドールが落ち着いた声で、誓いを述べる。
『グランドール・マクガフィンも、同じく誓おう。
―――そして、アルセン・パドリックの命は、何にかけても護ってみせよう』
『なっ?!』
アルセンが驚きの声をあげた直後に、グランドールが誓いを"閉める"為にまた腕輪と金の指輪を打ち鳴らした。
『ズルいですよ、グランドール!やり直しです!』
アルセンがもう一度、指輪と腕輪を打ち鳴らそうと、指輪摘む左手を上げるが、グランドールはヒョイと腕輪を握る右手を上にあげる。
大男のグランドールが腕をあげたのなら、アルセンは背伸びをしたとしても、届くはずもなかった。
『そんな子どもみたいな言い方をするな。
それにさっき、エリファスと2人してワシに"プロポーズ"させたから、相子だろ。
それにお前もいったじゃないか、"責任とってくださいね、グランドール"って。だから、責任をだ』
『そんなネェツアークみたいな屁理屈を!?』
普通に、もう1人の親友の名前が口から出てきた。
アルセンとグランドールの脳裏に、鳶色の髪と瞳の青年と、朱色の髪と紅い瞳の女性が浮かぶ。
"よし、いいぞっ、もっとやれ♪グランドール"
"ネェツアーク、グランドールも、いい加減にしなさい!!アルセンが困っているでしょう!"
もし、彼と彼女がいたのなら、そんな風に言っているのが容易に想像出来た。
『メイプルの笑顔を見ることはもう叶いませんが、ネェツアークの笑顔は戻せるでしょうか?』
腕輪に指輪を打ち鳴らそうと、左手を伸ばしたままアルセンが切なそうに呟いた。
『ワシとアルセンがいれば、2対1で何とかなるだろうさ』
目の前にあるアルセンの白い手の異変に、グランドールは気がついた。
『ん?アルセン、お前の薬指の付け根、赤くなって』
グランドールは腕輪を持つ右手を上にあげたまま、指輪を摘むアルセンの左手首を左手で掴み、自分の目の前に持ってきた。
『―――ワシの名前が刻まれてる、というか、"蹟"になって出来てるな』
そう言ってから、アルセンが摘む指輪を見ると、細かな細工で確かに名前が"浮き出る"ようにされていた。
グランドールから驚きの声を聞いた後、アルセンはエリファスの――親友の性格を思い出す。
『グランドール、すみません左手首を見せて下さい』
アルセンが、グランドールの逞しい左手首を手に取った。
『ああっ、やっぱり、ってこの文字!?』
『エリファスらしいな』
グランドールが自分の手首に浮き上がる文字に苦笑して、アルセンは赤面する。
"私の"兄"さんと"天使"がいつまでも素晴らしい縁で繋がっていますように"
『私は"天使"じゃないと、あれほど言っていたのに!』
アルセンはグランドールの左手首をグッと握りながら、赤面して浮き上がる文字を見詰める。
『やれやれ、結局"グランドール"も"アルセン"もエリファスにからかわれて、"元気づけられた"わけだな』
グランドールは呆れて笑いながら、上げていた右手を下ろして金の腕輪の内側を改めて眺めて、中の細工に感心する。
アルセンは少しだけ忌々しい様子で金の指輪を眺めていたが―――また左の薬指に嵌めた。
『何だ、嵌めるのか』
アルセンに向かってそんな風に言いながらも、グランドールも元通り、左手首に金の腕輪をまた身につけている。
『"親友"の贈り物ですから。
でも、文句は言わせて頂きます。
グランドール!、プロポーズのお祝いは説教に切り替えますよ。
店の個室を借りますから、正座をさせて、エリファスに説教してさしあげます』
『いや、だから、ワシはエリファスへのプロポーズを取り消すとだな、話を聞いとるか、アルセン?』
優しい雨音の中で、"兄"と"親友"がエリファスの話で盛り上がっている事など、微塵も考えもしないで、彼女は、世話になった部屋を片付け終えていた。
エリファスの豊かな胸の横に、2丁の銃がホルスターに納まっている。
机の上には花束と、左の薬指から外した銀色の指輪が光っていた。
(―――今度のは、"いつも"と違ったな)
指輪を外したら蹟を少しだけ愛しげに撫でた後に、指輪を眺めてエリファスは小さく微笑んだ。
いつも愛した人との"別れ"は辛くて、胸が引き裂かれそうなぐらい悲しいものなのに。
("安心して"別れられるって不思議だね、"メイプル")
別れの挨拶も、死に際にも会えなかった、同性の"親友"に心の中で語りかけて自分の使っていた部屋を出た。
エリファスは、初代"銃の兄弟ジュリアン・ザヘト"から銃と共に引き継いだコートを羽織り、グランドールの借りている下宿を出る。
"優しい雨"は激しくなって、土砂降りとなっていた。
雨空を見上げてから、エリファスはコートのフードを目深に被った。
夕闇の雨の中で、外にいるの人は少ない。
(今頃、2人とも"仕掛けに"に気がついているかしら)
エリファスは思わず溢れる笑いに、口元を抑える。
いよいよ城門に近づいた時、一抹の寂しさが豊かな胸の中で沸き上がった。
エリファス自身、自分の中に存在する"不文律"の正体は、わかっていない。
けれど"愛した人"が出来たのなら、自分からその人の元から離れなければならない―――と、まるで"産まれる前から"決められているような感覚が、彼女の中にあった。
(あっ!?)
本当に城門までもう少しという時にに前方から、見覚えがある大男がバシャバシャと走って来ていた。
エリファスは思わず物陰に隠れながら、走ってくるグランドールを見つめていた。
("兄"さん、アルセンがきっと何か貸すっていったはずなのに。
また、コートとか嫌だとか言ったんだろう、な)
グランドールは土砂降りの雨の中を左腕を上げて、雨から前方の視界を庇うように走っていた。
そして左手首には、エリファスが送った金の腕輪が、雨の中で輝くように雨粒を弾いていて、その下にあるグランドールの顔は"笑って"いた。
下宿に帰ったなら、エリファスがいない事など、全く考えていない顔だった。
その"兄"の顔を見た瞬間に、エリファスはフードの中で涙を流している。
"ごめんなさい"
激しい雨音の中で、きっと聞こえるはずもないのに、その言葉が声に出そうになるのを必死に、エリファスは抑える。
"安心"はしているけれど、大切な人に与えてしまう、自分の存在の"大きさ"を忘れていた。
"別れ"の悲しみの涙ではなく、与えてしまう"悲しみ"への懺悔の涙が止まらなくなっていた。
いつも蔑ろにされてきた自分だから。
誰にも最後には憎まれているような"命"だったから。
"あんなに愛していたのに"と言ってくれる人達を、置き去りにしなければ、最愛の存在に逢えない"業"に縛られて、脱け出せない。
けれどもエリファスは、"愛する努力"を押し付けない人達に初めて出逢った。
1人は戦場のど真ん中で、此方が助けているのに"助けはいらないか?"と尋ねてくるような人。
もう1人は悲しみの為の涙を流さないと誓った、本当に優しい天使みたいな人。
"ごめんなさい"
エリファスはグランドールが完全に過ぎ去ってから、走りだす。
出て行くはずだった城門を通り過ぎて、アルセンが住んでる貴族の居住区を目指す。
途中、雨避けに被っていたフードが、後ろに流れて頭や顔に雨粒がぶつかっても構わずエリファスは走り続けた。
貴族の居住区の入り口には門番の衛兵もいるが、衛兵はパドリック家の若い当主に、国に英雄と認められた日に焼けた大男と、傭兵をしている胸が豊かな女性が"親しい"間柄だと知っていた。
だから彼女が、ずぶ濡れになりながら貴族の居住区の入り口の門を通り過ぎても、気にしなかった。
もし、雨が降っていなかったのなら、彼はエリファスを呼び止めていただろう。
雨に濡れていると誤解出来る程、彼女は多くの涙を流していたから。
そして、それはパドリック邸の前にいる兵士も同じであった。
ただ、先程雨の中を"御苦労さん"と日に焼けた笑顔で去っていく大男と、今やってきた胸の大きな女性とでは表情はあまりにも対称的に"悲しげ"で。
門番の兵士は少しだけ彼女が、屋敷のドアをノックする所まで見送ってしまう。
(この屋敷の主人は"優しい"と評判だから、きっと相談事でもあるのだろう)
兵士はそう考えて、やがて再び屋敷のドアが開くのを見て、任務に戻る。
『エリファス?!どうしたんですか、こんな雨の中を来たんですか?!』
緑色の瞳と、綺麗な金色の髪、そして左の薬指に嵌まる"グランドール"が贈った金色の指輪。
初めて会った時、グランドールの友人でメイプルの婚約者が例えた"天使"という言葉が、自分の親友―――アルセンには本当にあっていると感じられた。
エリファスはその"天使"の姿を自分の心に刻みつけるように、見つめる。
彼女の中では、愛する"兄"の親友―――"天使"に出逢えた事は奇蹟で。
アルセンに出逢えたから、エリファスははっきり今、安心してグランドールを"裏切る"事が出来るのが、分かった。
『グランドールを、お願いアルセン。私、貴方もグランドールも大好き』
涙に塗れる顔で、絞り出すような声で、エリファスは"別れ"を告げる為の言葉を自分の"天使"に向かって紡ぎ出す。
『―――?エリファス、何を言っているんですか』
『アルセン、グランドールを、"兄"さんの事をお願い』
濡れた身体のまま、エリファスはアルセンを抱き締めた。
『いったい、どうしたというんですか』
アルセンは自分が濡れるのも構わずに、最近漸く背を追い抜く事が出来た異性の親友の抱擁を受け止めた。
『"ごめんなさい"。私は、何よりも大切な方の為に、しなければいけない事を思い出してしまったから』
天使にだけ、正直に懺悔するように、エリファスは"真実"を話す。
"大切な人"を思い出す為には、必ず"愛そうとした人"を裏切らなければならなかった。
"愛そうとした人"は既にエリファスを"愛してくれている人"だから、必ず彼女は"裏切り者"の烙印を刻みつけられた。
『誰よりも大切な方だから。
私はもう、グランドールを"夫"としてしまったのなら、大切な人の側に戻る事が出来なくなる』
『それは、今この王都を離れなければならない事なんですか?。
それに、グランドールなら』
アルセンは迷っていた。
グランドールが気弱になってしまった事で、早まってプロポーズした事を取り消して、今まで通りの"兄"や"親友"の関係を崩す必要はないという事を伝えるべきかどうか。
でもそれは、グランドールとエリファスの話であったから、アルセンは躊躇った。
そして躊躇っているうちに、親友は言葉を続ける。
『大切な人は、私にとって貴方の、アルセン・パドリックにとっての"グランドール・マクガフィン"と同じなの。
だから、今、行かないと行けないの』
そのエリファスの言葉に、アルセンは何も言えなくなってしまった。
もし大切な人と出逢えるかもしれない"偶然"があるなら、ガムシャラにでもその"チャンス"を掴もうとする気持ちは、誰よりも知っているつもりだったから。
『でも、私はアルセンがいるから、安心してグランドールの元から消える事が出来る。
私の"妹"という存在の大きさを消す事は出来ないけれど、その分を親友の"アルセン"で埋める事は、必ず出来るはずだから。
ただ、私が空けてしまう存在の"負担"を、全て貴方に押し付けてまう事になってしまうから、ごめんなさい』
エリファスは別れを惜しむ事よりも、この1人の天使みたいな親友に、"淋しがり屋の臆病者"の兄の心を宥める役目を1人に押し付けてしまう事が、本当に申し訳なかった。
"人の心"がどれだけ扱いがたく、難しいものか知っているエリファスだから、それを"親友に"押し付ける形にしかならないのが、心苦しくて堪らなかった。
涙を流さない、強くて優しい親友ばかりに負担が―――"耐えられる存在"にばかりに、誰かを救う為の重荷を背負わせてしまう事は、エリファス自身が最も、忌み嫌った行為の筈なのに。
それを唯一無二の親友に、今、背負わせようとしていた。
『―――なら、エリファス。早く行かないと』
優しい品の良い声が、涙を流す、エリファスの耳元で響いた。
抱き締める手を緩めて、エリファスの顔とアルセンの顔が向かい合う。
『エリファスにとっての大切な方が、私にとってのグランドールと同じなら。私はなにがなんでも、貴女と大切な方と幸せになって欲しい』
エリファスが抱き締めた事でついた、水滴がアルセンの金色の前髪を濡らし、白い顔の頬を流れる。
『私は、エリファスがいなかったらこれ程まで"グランドール"という人を理解し、尊敬出来なかったでしょうから。
ただ、憧れて―――憧れをグランドールに押し付けてしまって、大切な人なのに、その人の苦しみに、気付いてあげれなかったかもしれないから。
その"御礼"の意味も合わせて、エリファスはどうか、大切な方と添い遂げて下さい』
雨に濡れたエリファスの髪を、さっき彼女の"兄"の髪を梳いたのと同じように白い指を差し込み、アルセンは梳いてやった。
『それに、伴侶にしたい人に最初に金色ではなく、すっ飛ばして銀色送るグランドールですよ』
それから左手を上げて、"最愛の色"をした指輪をエリファスに見せる。
『普通は、伴侶になってから10年目ぐらいに、改めて"家族としてよろしく"と言う意味で銀色を送る物なのに。
いくら武骨な男らしいのがグランドールの魅力でも、それぐらい、知っておいて欲しいものですね』
そう言ってから、アルセンは薬指に嵌めていた指輪を外してみせた。
アルセンの白い薬指の付け根に、赤く"グランドール"の文字が浮かぶ。
『アルセン、やっぱり"仕掛け"に気がついてくれてたんだ。
気が利くアルセンなら、直ぐ気がつくと思った』
嬉しそうなエリファスの言葉に、アルセンは小さく首を横に振った。
『名前が彫ってあるのは気がつきましたが、こうやって指の付け根に名前が浮かび上がるのは、偶然に気がつく事が出来ました。
グランドールと2人で、ちょっとやいやいと騒いで、その弾みで』
『そうなんだ』
エリファスは少しだけ意外そうに瞬きをして、アルセンを見つめて、見つめられた親友は困った笑顔を浮かべた。
『エリファス、私もそこまで、気がつくわけじゃありせん。
でも、貴女のお"兄"さんと一緒なら、何とかやっていけますから。
貴女のお"兄"さんは、貴女がいなくなる事で、悲しみを持ったとしても、憎しみを持つような真似は、私がさせませんから』
エリファスが口元に、自分の左手を当てて泣き笑いの表情を浮かべる。
親友がやっと笑ったので、アルセンは安心して金色の指輪を、自分の左手の薬指に嵌めた。
そして丁度対照的にあるエリファスの薬指に、赤く擦ったような痕を見つける。
思わず見つめていると、エリファスは右手の指先でその"痕"を撫でた。
"痕"見る事で、エリファスが1度は嵌めた指輪を抜き取った事が分かる。
それだけ、彼女の決意が堅いのが分かった。
『本当に貴女の"兄"さんは、好漢ではありますが、世話が焼けますから。
エリファスはさっさと、大切な方の所に行ってしまいなさい。
じゃないと、あの"兄"さんは、エリファスをいつまでもお嫁さんに出してくれません』
先程ふざけてした会話を思い出して、少しでも"エリファスが前に進む"事に対して罪悪感を持たなくてよいように、言葉をかける。
『エリファスがエリファスの為に生きて、何が悪いことがありますか?』
『ありがとう。私の"天使"様』
『―――天使じゃありませんから』
アルセンの困った笑顔に見送られて、エリファスは雨の中、王都から姿を消した。
「―――だから、アトさん、私は"天使さま"じゃありません」
「天使様です!」
グランドールの少し長めの"天使"の説明が終わった後にも、アルセンとアトによる"アルセン天使論争"が寝室から聴こえてきていた。
「どうやらアルセンは、アトから押しきられそうだな。
で、ワシはエリファスが王都から消えたあらましをアルセンから、"プロポーズ成功と取り消し祝い"の席で聴いたわけだ」
グランドールは今までしてきた話に、少しだけ疲れているようにもシュトは見えた。
「じゃあ、エリファス師匠は誰に教えられた訳じゃなくて、アルセン様を"天使"って呼んでたわけなんですね」
シュトは、アルセンが未だに根気よくアトに優しく指導している声を聞きながら、"天使"という呼び方の結論を得ていた。
「―――まあ、そうなるな」
グランドールにしてみても、改めて考え直す機会にはなったらしい。
親友のネェツアークがアルセンを"天使"と呼ぶ理由と、"妹"がアルセンを"天使"と呼ぶ理由には、どうやら多少の齟齬があるようだった。
「たまに腹黒くはあるが、見ているこっちが心配になるくらい、慈悲深い時がアルセンにはあるからな。
慈悲深いのが天使の条件だというなら、ワシはアルセンなら十分に当てはまると思うよ」
グランドールは逞しい太い指で、自分の頭をボリボリと掻いた。
人の良さそうな、好漢のグランドールにシュトは失礼を承知して尋ねる。
「エリファス師匠が、その、"大切な方"を思い出したから姿を眩ましたのに、グランドール様が"フラれた"みたいに親友の、ネェツアークさんに話したのは、どうしてですか?」
そこでグランドールは逞しい腕を組んで、丁度左手首に光る金の腕輪が見せつつ苦笑いをしていた。
「そこら辺は、アルセンの采配にワシは従っただけだからな。
まあ、でも"フラれた"としたお陰で、ワシに"姿を消したエリファスのその後"を尋ねてくる奴は、誰もいなかったのは確かだな」
「ああ、成る程。確かにそういう利点はありますね」
シュトは納得がいったと風に頷いた。
18才のシュトではあるが、恋愛の類いは、はっきりいってした事がないに等しい。
しかし、グランドールとエリファスの"別れた過去"を聞いたなら、必要以上に突っ込まない"分別"位はついている。
「やれやれ、"利点"という辺りはエリファスからの譲り受けかの」
少しばかり皮肉の効いた物言いに、胸の豊かな"妹"がニッとした笑った姿が頭に浮かぶ。
そして"譲り受け"という言葉を聞いて、グランドールは寝室で未だに会話を続けている親友と、目の前にいる少年の弟のやり取りである事に気がついた。
「―――ああ、そうか。"アトの教育"はエリファスがメイプルから」
今度はグランドールが、成る程といった様子の声を出す。
弟や師匠、そして何かと名前だけが出てくる鳶色の賢者の妻であった女性の名前にシュトは反応し、顔をあげてグランドールを見詰めた。
言葉には出さないが、疑問に感じていて"メイプル"という人物に尋ねたいのを、シュトの顔は十分に表現していた。
それに気がついたグランドールは、自分から口を開いてやる。
「メイプルという女性については、夫であった奴を差し置いて何とも言えない。ただ、エリファスがアトの教育と発達に関して理解があったのは、多分メイプルのお陰だ」
「メイプル、さんは、教育者だったんですか?」
シュトの質問にグランドールは何処まで話して良いものか、少しだけ考える。
それは偏にネェツアークが本当にメイプルとの"思い出"を大切にしている事や、今でも彼女に対する気持ちに整理をつけきれていないのが"昨夜"の会話で分かった。
(まっ、弟を思う兄に対して少しはいいかの。
メイプル自身は、教育の理解を広めるのを信念をもっていたからのう)
紅色の髪と瞳で強気な目元と、優しさに溢れた口元で微笑む敬愛する異性の友人を思い出して、シュトに説明する為に、グランドールは大きな口を開いた。




