【POSITION】
position
[名]①位置;場所②立場,地位③職業,仕事④態度,見解⑤姿勢
今貴方がいる場所は自分で選んで掴んだ場所?
それとも言い訳を並べて、仕方無くいる、そんな場所?
(ウサギの賢者殿、僕は1人でリリィを守れるんでしょうか?)
ルイと戦っているうちに、黒い靄がアルスの心の隙間から入り込み、心を黒く染め上げる。
リリィを守る。
闇に気持ちを絡めとられながらも、その気持ちだけを何とかアルスは保っていた。
そして、自分の中に容赦ない力があるのは分かるけれど、使い方が解らなくなる。
だから、闇に呑まれ続けながら"守る為"だけに剣をアルスは振るった。
そして、"守る為"という言葉だけに固執して、剣を振るっている内に闇はアルスに更に染み込んできていた。
やがて更に濃い闇が擡げて、ルイを生意気と感じ始めた瞬間には、ルイは"生意気な者"としか認識が出来なくて。
対峙して止めを刺すため剣を掲げた時、その手を止められた。
『―――』
何かの声が聞こえたような気がしたが、闇が泥のように耳につまり、声の意味が理解出来ない。
闇の中で分かるのは、目の前にある生意気な存在も"何か"に動きを止められていることだ。
そして、その生意気》何かに打ち据えられて、蹲った次の瞬間に身体をグイと引き寄せられた。
「―――ド君は、―――めまして―――♪」
えらくふざけた物言いに感じられた。
それでも、全てを遮るような泥のような闇の中を何とかすり抜けて、耳に届いた事にアルスは驚いた。
「―――めんね」
(―――謝られた?)
何か意味がある言葉を、泥の闇の中から掬い上げた瞬間に、激しく―――身体が宙に浮くほど蹴り飛ばされた。
その蹴り飛ばされた反動で、泥のような闇がアルスの身体から引き剥がされる。
そして、中庭の石畳に叩きつけられた衝撃でも、泥の闇はアルスの身体から剥がれ落ちた。
闇の泥が剥がれて、アルスは"生意気"な存在がルイだと、吹っ飛ばされた石田畳の上で再認識する。
そして見たことがない、紅黒いコートの男性が―――
(見たこと―――が、ある?)
何処かで見た記憶があった。
ただ、正面からではなく確か後ろ姿で。
(いつだ?)
アルスを助けようとする為に、一度は殺そうとしたルイが紅黒いコートに向かって殴りかかっていた。
「本日2度目!」
そんな張りのある声を聞いて、うつ伏せの状態から顔を上げると、その後ろ姿をはっきりと思い出した。
(そうだ、アルセン様のお屋敷でリリィを拐われた時)
フワフワとした感じの鳶色の髪で、コートの色は紅黒くはなく、緑色だったが佇まいを見て間違いないと感じる。
そしてあの時は姿が透けていたが、今はしっかりと存在していた。
「わああああ!」
激しい音がして、ルイは先程アルスが衝突させた雨避けシートの場所に、紅黒いコートの男に投げ飛ばされて今度は激突していた。
(ルイ君、大丈夫?!)
何度もこの台詞を口にしていたアルスだが、今思ったものが一番感情が込もっている。
だがルイ思いの外元気な様子で、何やら投げ飛ばした紅黒いコートの男性と、ヤイヤイと言い合っていた。
「―――中庭の家具を壊してしまいましたか?」
「決定的に壊したのはあんただろ!!」
そこでルイの言葉が何故か止まっていたが、アルスは心の中で笑っている。
(あの紅黒いコートの人、不貞不貞しいけど面白いな、ルイ君も乗りが良いけど)
鳶色の男とルイのやり取りに、アルスの心が笑い緩んだ瞬間、シュッとと暗い何かが今まで、『守る為』と堪えていた場所に入り込んできた。
"Why is it laughing?."
(何故、笑っている?)
(え?)
意味が理解できない言語が、アルスの頭の中に響いた。
でも、意味は―――何となく責められているのは感じるのが分かる。
そして心の芯をガシリと捕まれ、言われた。
"The boy whom you tried to kill."
(あの少年を殺そうとしていたね)
―――ああ、ああ、ああ、ああ!!!!!
言い様のない恐怖と泥のような闇が、石畳の下にある大地からアルスは身体へと這い上がり、蝕む。
理解ができないはずの言葉に責められて、アルスの芯は握り潰される寸前まで縮む。
そして、恐怖で心を揺さぶられながら、剣を握り締めながらアルスは立ち上がった。
そんなアルスを、ルイとのやり取りが終わり、ついでにからかって魔法で動きを拘束してしまった、鳶色の男が見ていた。
やはりアルスは初めて見る顔で、髪と同じような鳶色の瞳をしていて、丸い眼鏡をかけている。
表情は険しく、アルスが真っ直ぐとある気持ちを抱いて見詰めていることに気がつくと、鳶色の瞳に悲しみを含ませていた。
そして丸眼鏡の奥で鳶色の瞳を一度閉じて、開きアルスにではなく、取り付く泥のような闇に向かって口を開いた。
「A premature start is not good,Beelzebub」
アルスには理解出来ないが、中に居座る闇が、ザワザワと動き始め、勝手に口を動かされた。
「Darkness is our domain」
そう言って、鳶色の男にアルスの身体は剣を振り上げた。
鳶色の男は、短いナイフでそれ に応戦する。
「ア、アルスさん?!」
拘束されているルイの信じられないという感情に満ちた声が、遠くに聞こえていた。
("僕"は何をやっているんだ)
不安な時にだけ、一人称が僕となるのはアルスは自分でも分かっている。
アルスの身体は、幾度も鳶色の男に剣でもって切りつけていた。
(どうして、こんなに不安なんだ)
"賢者さま"
不安なアルスの心の中に、更に不安そうな、鈴がなるような声が響いた。
泥のような闇に捕らわれても、直ぐに声の主がアルスには分かり、また自分も不安に包まれる。
(僕じゃ、あの子を、リリィを守れないです、賢者殿)
不安に包まれ、身体は泥のような闇に蝕まれたアルスは、まるで深い大地の底より深い場所にいるような感覚に堕ちる。
(まるで、氷漬けにされているみたいだな)
だがどうやら、泥の闇となって身体を操る存在は、アルスが氷漬けなっているような感覚には、気がついていない。
鳶色の男が何かを感心するような口調で喋りながら、アルスの剣を捌いていた。
(―――あれ、前にもこんな事があった?)
こんな風に、僕の剣を簡単に―――――に捌かれて。
知っているはずなのに、知らない。
知らないはずなのに、知っている。
そんな懐かしい名前達が、アルスの頭の中に溢れる。
"――――は、強いけど、―――との差が激しいんだよなぁ。双子なのになんでだろ"
凍てつき始めたアルスの心に、鳶色の男の声で、そんな言葉がアルスの頭の中に飄々と響く。
"―――――は、―――――ですよ。――――、頑張って―――――なんてやっつけてしまいなさい"
とても優しい声で、僕をいつも励ましてくれる声。
常に"頂"にいなければならない僕を、労り癒してくれる。
頂点?。
不意に"アルス"の中にはないはずの記憶に戸惑うが 、身体の凍てつきが急激にひいていく。
"僕は、頂点にいた覚えはないし、優しくて天使みたいな人は"
まだ僅かに凍てついた身体が砕けるような辛さを堪えて、泥の闇に抑え込まれた身体を――口を、懸命に動かして『癒しの人』の名前をアルスは呼ぶ。
「―――セン様?」
アルスの心の芯を掴んでいた泥の闇が、驚いたように力を弱めた。
「私はパドリック様程優しくありませんし、あんなに綺麗ではありませんよ?」
今度は、はっきりと耳で鳶色の男の声を、アルスは捉える事が出来ていた。
"小賢しい"
老人の落ち着いた声が、アルスの頭の中に響き渡る。
再び、泥の闇が心の芯を掴もうとするのを邪魔するが如く、鳶色の男はアルスに攻撃を始めた。
それはアルスが敬愛する人物、アルセン・パドリックと同じ所作だった。
するとやはりアルスの中にある、アルセンへの信頼への記憶が"闇"を退け始めていた。
キンキンキンとアルスの剣と、鳶色の男のナイフがぶつかりあう金属の音が響く度に、アルスを蝕む泥のような闇が僅かだが剥がれ始める。
『アルス、争いがない"御世に剣を扱う時は、敵を倒す為と心頭においてはいけません』
キン
『大切な存在を守る為に、敢えなく剣を扱う。そう考えなさい』
アルセンとは全く"違う"姿でありながら、全く"同じ"仕草で鳶色の男は、アルスに対して剣捌きを続けてみせる。
「―――アルセン様」
アルスが再びアルセンの名前を出した時、鳶色の男は微笑んだ。
互いに剣とナイフを交えながら、アルセンからかけられた言葉の続きをアルスは思い出していた。
『アルスが生きている間は、もう戦がないように願ってこの事も伝えておきます』
キンキン
『貴方が戦っている相手にも、大切に思っている存在がいて、武器を手にしている』
キンキンキンキン
『その事を忘れないでください』
金属の音が響く度に、忘れたくなかったアルセンの言葉達が、アルスの心に甦る。
キン
『そうする事で、貴方の強い剣が無用な哀しみを産むことは、きっと少なくなるから』
(あれ?)
そしてアルスは、鳶色の男との剣を交える事で、泥を剥ぎ落としながら不思議な事に気が付く。
アルスがアルセンの事を思う度に、鳶色の男の笑顔がとても優しいものになっていく。
―――優しいけどイタズラ好きそうな笑顔は、つい最近出来た、アルスの弱音を聞いてくれる2人目の大人を、"1匹のウサギ"を思い出させて。
でも、そのウサギは今姿を消していて。
「―――ギの賢者殿、何処ですか?」
アルセンという心の支えがありながらも、不安そうで助けを求める声をアルスは出していた。
"賢者さま"
アルスの心に、また鈴なり祈り、願うような声が響く。
(賢者殿、僕ではダメなんです)
「なっ?!」
鳶色の男が信じられないっといった様子で声を出しながらも、アルスの剣をナイフで以て弾き跳ばした。
アルスの手から剣が飛び、中庭の石畳の上に乾いた音を響かせて落下した。
剣が落ちる音と、叩き落とされた痺れを体感しながらもアルスは悲しそうな顔をして、口だけを鳶色の男に向かって動かした。
(僕じゃ、駄目なんです)
《兄さん!》
アルスと張り付く闇にだけに聞こえる声が響き渡り、不思議な間が出来きあがった。
《弟君!?》
アルスに張り付つ泥の闇が、驚きの声をあげた瞬間にアルスと鳶色の男の間の空間が歪む。
歪んだ空間から現れた金色に光る"何か"を、アルスも張り付く闇も、眩しすぎて見つめる事が出来ない。
眩しさの余りに、アルスは立ち眩みそうになる。
「―――カエル!無茶をするな!」
アルスが"ウサギの賢者"の名前を呼んだ事で、何故か心が揺れている鳶色の男が、"カエル"と出した声は更に心配で揺れているのが分かる。
("かえる"?)
眩しさに目が眩みながら、アルスがカエルで思い出すのは、丁度今、自分の身体に張り付く闇のように、ウサギの賢者に何時も張り付いている金色のカエルだった。
《憐れな、この状態で"兄上"と呼ばれるか》
叡智と荘厳に満ちた、まるで進言するような口振りで闇の声がアルスに伝える。
輝きが更に増して、アルスも身体の中にいる闇も身体のバランスが保つのがやっとだった。
そして更に強い風が吹き荒れ、余りに眩い光の向こう側にいる、鳶色の男の紅黒いコートがバタバタとはためく音が聞こえる程だった。
「うわっ!!」
《ぐっつ!!》
ルイが大きな驚きの声をあげた時、アルスの中にいる闇もまた大きな声をあげていた。
中庭に厚い黒い雲の隙間を縫って、既に昇り始めていた強烈な朝陽が、新領主邸の中庭を射していた。
《Light is my domain if darkness is your domain.》
(闇があなたの領域であるなら、光は私の領域です!)
聞いた事のない少年の声が、アルスと闇に向かって響いた。
強烈な朝日を浴びて、ただ溢れるだけだった目の前にあった眩い光は、形を為す。
光は、バッと何かを振り撒いた。
(羽根?)
そして強烈な朝日と輝く羽根の中に、姿を現したのはアルスはよく知った姿だった。
("僕"?でも、違う)
アルスの目の前に現れたのは、アルスと同じ容姿の白い衣を纏い、帯剣し、何より印象的だったのは羽根を12枚も持っていた。
そして羽根のある少年は、哀しそうな顔をしていた。
哀しい顔をしていたが、それでもアルスの姿を、自分と同じ空色の瞳に映すと、嬉しそうに微笑む。
《憐れな、慕う余りに器に、姿だけの兄上に囚われるとは》
光に身を焦がされながらも、闇がアルスの傍に控えるようにまだいて、哀れむように呟いた。
闇の言葉を耳にした途端に、羽根の生えた少年の目は澄んでいながらも冷たい、先程までルイを弄ぶように剣をふるっていたアルスと同じ瞳となる。
《うるさい》
少年は全く躊躇わず帯剣を引き抜き、紅い焔を纏った剣掲げた。
(止めよ!)
アルスと同じ顔をした少年が、アルスに向かって剣を降り下ろす。
(え?)
アルスを庇うように闇が人の形、荘厳と叡智を身につめた老人を造り、焔の剣の切っ先を立ちはだかっていた。
老人の姿となった闇は、腕を盾にしてアルスを庇い、焔の剣は腕に刺さっている。
突き刺さった場所から煙があがり、炎の剣が闇の老人の身、存在を削ごうとしていた。
だが、焔の剣を腕で受け止めながらも、闇の老人は"アルスに酷似"した天使を心の底から嘲笑う。
《姿だけの兄上に囚われているのは、どちらです》
そんな様子の老人にアルスの姿をした翼が生えた少年は、忌々しそうに告げてから焔の剣を老人の腕から引き抜いた。
《ふっ、情に囚われる故に"魔"よ。儂は人間と共にある》
そこまで言って老人は跪き、アルスはそれに添うように片膝を石畳に着けて蹲る。
「大丈夫ですか?」
アルスは思わず、今まで自分の身体を翻弄していたに違いない存在、老人の方に声をかけていた。
そしてそれを見た、羽根の生えた少年は唇をぐっと噛む。
まるで、幼子が自分より幼い存在に、親を奪われたような切ない顔をして、涙を滲ませた声をだす。
《今です》
アルスは、羽根の生えた少年が涙を滲ませた声を聴いて、その声を出させてしまったのが自分だと悟る。
蹲る老人も自分を身を呈して庇い、羽根の生えた少年も自分を想って剣を振るった事が解る。
どちらも、アルスの事を考えて、アルスの為に行動してくれた、けれど、老人もアルスと同じ姿をした少年は、相容れる事が出来ない。
"相容れない物、どちらも、助けたいと思ってはいけないのですか?"
物凄く遠い昔、誰かに訊ねた記憶がある。
"どちらも助けられる力をもっていないのに、助けようと思うのは"傲慢だ"
静かに、厳かな声でそう告げられて。
でも、僕はどちらも助けたくて。
でも、僕には力がたりなくて。
力の象徴となる剣を手に取った。
信頼出来る存在に大事な、本当に大事な弟を託し、別れが辛くなるから何も告げずに、創られた居場所を抜け出した。
今、共に蹲る叡智と荘厳を兼ね備える、かつて"神"の居場所にいた老人も言った。
私も、"人に弾かれた人"、悪魔ですら同情してしまう人間の為の居場所を"創って"欲しいと思っておりました。
そう言って、老人は神としての自分に、"生け贄"として捧げられた、人の世界で安らぎを得る事が出来なかった胸の豊かな、気持ちの優しい妻を想っていた。
"大切な存在が、安らげる居場所を新しく創りたいと思うことは、傲慢ですか?"
「ったく、私 の周りには大切な人の為に無茶をする輩が多すぎる!!」
そんな飄々とした声が、風に乗ってアルスの耳に飛び込んで来た。
そしての軍服の胸元にポンと柔らかく暖かい何かがへばり付き、その衝撃で老人の側に蹲っていたアルスは、後ろ向きに尻餅をついた。
鼻先でピピッと長い耳がうごき、フワフワとプニプニが共にある手で、アルスはペチリ頬を叩かれた。
「とりあえず誰も困らない、迷惑かけないズルはしちゃうよ、"ワシ"」
柔和な明るい、アルスが求めていたもう1つの声。
「ウサギの賢者殿!!」
アルスの顔に、心から満面の笑みが浮かぶ。
「今、思ってくれている"人"達の所に帰っておいで」
そう言って、ウサギの賢者は驚きで開いている少年の口に、彼の為だけに造られたクッキーを押し込んだ。
クッキーを口に含まされた瞬間に、アルスの中から何かが抜けて行く。
「けっ、賢者、殿」
それは闇でもあり光でもあり、過去の"戒め"にも似た、丁度ウサギの賢者が人、"ネェツアークとウサギの姿を入れ換える時"に出来る旋風に似ていた。
アルスは尻餅をついた状態から、ゆっくりと石畳に倒仰向けに倒れる。
ウサギの賢者がピョンピョンと素早くアルスの胸元から、飛び降りて石畳とアルスの後頭部がぶつかりそうになるのを、フワフワな身体で止めてゆっくりと寝かせるように配慮した。
「スミマセン、賢者殿」
「アッハッハッハッハ、初めてこれを体験したのに意識が残っているのは、流石にアルセンの弟子だね」
明るくウサギの賢者が言った後に、改まった口調で自分の護衛騎士に告げる。
「まだ、ワシは調べる事があって戻れないけれど、リリィの事、頼むよ」
「でも、"僕"」
傲慢など微塵の欠片もない、不安にまみれた声を少年は出す。
かつて、僕を信じてくれた者達を、"僕"は。
「君はアルス・トラッド」
ウサギの賢者は断言する。
「1ヶ月前に鎮守の森に住むイタズラ大好きで、お茶目なウサギの賢者の所に、敬愛するアルセン・パドリックに頼み込まれてやってきた、優しい新人兵士、アルス」
円らな瞳を、空色にも鳶色にも輝やかせて。
「"アルス君"なら、大丈夫」
肉球がついた手を、アルスの額にのせた。
「はい」
安心に包まれて、アルスは気を失った。
アルスの身体が落ち着いたのに安心した瞬間に、紅黒いコートを着たウサギの賢者の身体がビクッとする。
「っ、タイムリミットだな!」
ウサギの賢者は"ネェツアークの声"を出して急ぐように堅い爪をバチリと弾き、白と黒の旋風を起こして人の姿に戻った。
「―――いったい、何が起きたんだ」
朝日に満ちた中庭で、未だに雨避けのシートの上に拘束されたルイがネェツアーク、蹲る老人、金色に輝くカエルそして、中庭の石畳に仰向けに倒れるアルスを眺めていた。
「早起きして暴れるイタズラ小僧を、諜報活動していたオッサンが戒めただけの話です。クローバー君」
"鳶目兎耳のネェツアーク"がそんな事を言いながら、胸元から古びた"絵本"を1冊取り出した。
そしてまず、アルスの額に乗せると、絵本は微かに輝く。
「"賢者の使い魔のカエルさん"、すみませんがこの絵本をクローバー君にも見せてあげてください」
あくまでも、金色のカエルはウサギの賢者の使い魔であるので、"鳶目兎耳のネェツアーク"として呼び掛けた。
「え、でもさっきの」
一部始終ではないが、ルイはウサギの賢者がネェツアークに姿を変える所を目撃していた。
そして何より、身に付けている紅黒いコートに丸眼鏡が同じ仕様で―――。
「ゲコッ♪」
「ぶっ?!」
ルイが色々と珍しく頭を使って考えている間に、金色のカエルはネェツアークから受け取った絵本を、拘束されている少年の顔面にぶつけていた。
「一応、あの絵本は"仮住ま い"でもあったので、今少し丁重な扱いを願いますぞ、"鳶目兎耳"ネェツアーク殿」
老人―――ベルゼブルから"ベルゼブブ"となった地獄の宰相が腕を抑えながら、苦笑する。
ベルゼブブがそう言った時には、ルイは魔力と"記憶"を吸われて意識を失って雨避けシートの上に、アルスと同じ様に仰向けに倒れていた。
「アッハッハッハッハ。どうせ処理できない、"今はまだ"混乱しか呼ばない記憶は、ないほうがいい」
ネェツアークは腕を組んだまま笑った後に、少しだけ表情を固める。
「フライングの件は、私の護衛騎士を、兄が大好きで過ぎて見境がとれなくなっていた"弟"から身を挺して護ってくれた、という事でドローにしよう」
気を失った―――というより、鼾をかいているので寝ているルイの腹の上で、クツクツと喉を鳴らす金色のカエルを見つめながら、ネェツアークがベルゼブブに告げた。
「フフッ、"妻"に付き合って戦の前に感慨に耽ってみれば、こうも色んな"縁"に出逢うとは」
ベルゼブブは意識を失ったアルスを見た後、ネェツアークが飛び降りてきた客室の窓を見上げる。
「あの2方は気がつかれていないのか?」
尋ねながら、ベルゼブブはかつて沛然の庭で、ネェツアークに言った言葉を思い出していた。
"己が立てた誓いをかなぐり捨て、慈悲深き美しき男が泣くだろう。
吝嗇の賢者を止める為、闇と炎を受け止めた大男が泣くだろう"
「さあ、改まって訊いた事なんかないから。それに私は吝嗇だから、言うのも野暮だし、面倒くさいよ。
ただ、あの2人は、どんな時間の流れにいたとしても、互いに思い合う"親友"だ」
「そうか、今でもか」
ベルゼブブはどこか切なそうに、まだ客室の窓を見上げていた。
ネェツアークは無言で指を弾くと中庭に横、縦、横、縦の順に光の線が升目状に入り始める。
「―――これは、これは」
ネェツアークの2人の親友が眠る客室を見上げるのを止めて、ベルゼブブが苦笑しながら、光の線が中庭に刻まれるの眺める。
勿論、光の線中に腕を抑えて跪ずくまるベルゼブブの身体もあった。
「異国の呪術―――"結界"か」
ベルゼ ブブが興味深そうに呟いた時には、最後の光の線は横に入り、合計9本の線が中庭に浮かんだ。
「お爺さん、ピーン・ビネガーの遺言というよりは、"取引"でね。
領主邸の場所を動かしたならば、この術を中庭に施しなさいと言われていたらしい。
後は"秘蔵の術を教えてやる代わりに、色々子孫にあたる人物"を助けてくれってね。
まるでこうなる事を見越して、判っていたみたい」
そう言う、ネェツアークが指を弾くと結界が作動を始める―――。
「賢しい"人"は、どの時代にも必ずあらわるか」
ベルゼブブの姿が薄くなって言っていた。
「アプリコットさんと、この場所の"所有者"と、私は血の契約を交わした」
「知っておる。所有者として覚悟を決められてしまわれたか。
我が"契約主"の願いを叶えるのは、本当に困難になってしまった」
ベルゼブブは少しだけ、残念そうに瞳を閉じた。
ネェツアークは気づいていながらも、"戻る"可能性があった今まで避けていた"名前"をベルゼブブに向かって呼ぶ。
叡智と荘厳に溢れていた、嘗て神とまでなっていた存在を、"降臨"という禁術を使って身に降ろした老人に尋ねた。
「―――もう、貴方が"執事のロック"に戻る事はないのか?」
ネェツアークの言葉に、ベルゼブブを降臨させているロックは――ピーン・ビネガーの心腹の懐剣で、ビネガー家の行く末を頼まれていた老執事は、穏やかに笑いながらも皮肉を口にする。
「白々しいですぞ、吝嗇の賢者殿。
このロックという人間も、この土地の領主となった娘とはまた違った形で賢者殿と似たような境遇だと、ここまで来ていたら気がついているはずだ」
「あれは、ある意味ロックさんの、自分自身への皮肉だったわけだ」
眼鏡を上げるふりをしながら、顔に浮かぶやるせなさをネェツアークは隠した。
雨が降り頻る庭の中で言われた言葉を、ネェツアークは思い出す。
"まるで自分では死ねないが、死ねるチャンスを待っているみたいだったぞ。
例え今自分が消えても、周りが仕方ないと考えて納得してくれる、そんな出来事を心の隅で望んでいる"
「ロックさんは、最初から戻る気はなくてベルゼブル―――ベルゼブブを降ろした訳だ。
腹心ならば、主の孫娘の為ならば立派な理由に、なるのかねぇ」
ネェツアークにしたら、納得は出来ない理由だが、ロックが降ろした"悪魔"には充分に通るらしい。
「―――主の幸せの為に、命を投じる。今では、昔気質と言うかもしれない。
だが、私には充分に契約したくなる理由だったよ」
燦々《さんさん》としていた朝日は、再び厚い雲に覆われて辺りは薄暗くなる。
「もう一度確認させてくれ、ロックさんはもうこの"場所"には戻らないのか?」
「諄い」
ロック―――ベルゼブブは吐き捨てるように言った。
「主―――全てを捧げたいという存在が失せても、居場所に居続けなければならない柵から抜け出せそうな機会、賢き者の名を頂くなら、邪魔してやるな。
"賢者ネェツアーク"」
そこでネェツアークにしては珍しく、素直に叱られた子どものような顔をした。
その賢者の顔を見て、ベルゼブブは少しだけ表情を穏やかなものにして口を開く。
「それに、この男の"時"は主を失った時、止まってしまっている」
そう言って、動かせる腕で、薄くなりかき消えそうになる姿の胸元から、はっきり形のある物を取り出して、ネェツアークに差し出した。
半ば透ける手から静かに受け取ったのは、蓋付きの懐中時計で、ネェツアークは受け取った後に、慣れた手つきで蓋を開いた。
この国で一時期流行った、時計の蓋の裏に精密な肖像画を嵌め込む仕様だった。
そこには年若い、何処と無く銃の兄弟のシュトとアトに似た人物が、豪快に笑っている顔と、まだ少年に見えるロックが照れて微笑む肖像画が嵌め込まれていた。
時計は、動かず止まっている。
「不思議なものよ。この男が主が死んだ時に、貰った時計も止まり、この男の時も止まった。そしてそんな人物が」
ベルゼブブは再び、アルセンがいる客室を見上げた。
「もう1人いたのだから、な」
ネェツアークは敢えて其処には触れずに、懐中時計の蓋を閉じて懐にしまいながら、ロックと言う人に思いを馳せた。
「―――ロックさんは、控え目過ぎる。禁術の手伝いをしたり、あんたを"地獄の宰相"を降臨させる術を使ったり。
その力を表にだして、王都に来ていれば、優秀な魔術師として厚遇されただろうに。
まあ、それとロックさんの幸せとが結び付かないなら仕方無いか」
「この男の居場所は、先々代のこの土地の持ち主の横、そこだけだ。
いや、そこにしかロックという人には"幸せな場所"はない」
ロックの姿でベルゼブブは、断言した。
そして力を抜き、区切りをつけるようにフッと小さく息を吐く。
「それでは、失礼しよう。"高所"の場所を取り戻す、決戦の場でお待ちしよう」
羽根を持った少年から受けた傷を庇いながら、地獄の宰相はゆっくりと立ち上がる。
気を失ったアルスに、少しだけ、嘗て仕えた主に重ねてみて―――そして小さく首を横に振った。
気の遠くなるような時間、主を探す存在には解る。
姿は同じかもしれないが、この少年には主を象徴するものが決定的に欠けていた。
"傲慢"が"誇り"がない。
そして旧領主邸の時と同じ様に、ベルゼブル―――ベルゼブブを降臨させたロックは、徐々に姿を空気に溶け込ませるように、姿を消していく。
完全に、姿を消し去る間際"丁寧な御辞儀を客人"ネェツアークに向かって行う。
《どうか御嬢様を、アプリコット様に"人"として、"女性""女""女の子"としての幸せを、教えてあげてください。
そして、その上で私がピーン様から教えて頂いた、友愛や人を想える有難さを、どうか》
「"最後"かもしれませんが、注文が多いですよ、ロックさん」
ネェツアークは苦笑しながら、まだ血の契約の傷痕がある指を弾く。
塞がりかけていた傷痕は開き、少しだけ鮮血が飛ぶ。
中庭の地に這うようにあった9本の光の線が、天に向かって伸び始める。
「さて、血の契約から頂いた情報で旧領主邸から、新領主邸へ―――。
ロブロウでの、"遷都"として"奠都"とを終了させよう」
眼鏡の奥にある鳶色の瞳を細め、血の契約で譲渡された"ロブロウ領主"の秘術の記憶を辿る。
「みっけ♪」
自分でも36歳という年齢ながら、年甲斐ないと思いつつロブロウ領主の"記憶"に畳まれた情報から、秘術を見つけた喜びを、口に出していた。術の作法に乗っ取り、まず腹から息を鼻からゆっくりだした。
(丹田(へその下の辺り)に力を入れて、意識を森羅万象に重ねるつもりで、か)
流れてくる情報と作法に身を委ねて、ネェツアークは術を続ける。
まず人指し指だけを出す形で、少し珍しい形で手を合わせる。
「臨」
落ち着きのある声で、ネェツアークが一言いうと、9本の光の線の内、一番上にある横の線が激しく輝く。
それを確認すると、指の結びの位置をサッと変える。
そして、次の言葉を口に出す。
「兵」
次は一番左側にある、左の縦線が輝き始めた。
(《《コツ》》は、掴めたかな)
薄めに開いていた鳶色の瞳をカッと開いて、続きの文言と印をネェツアークは素早く唱え、実行する。
「闘・者・皆・陣・列・在・前!」
区切られた文言を口にする度に、手に結ぶ印を変えていく。
そして大地に這う光も先程と同じ様に、横、縦の順で輝きをまた強めた。
(仕上げだ!)
「兵闘に臨、物、皆な陣列して前に在り」
ネェツアークの張りのある声が、辺りを満たす。
「ロブロウが先々代領主ピーン・ビネガー 定めし"都"、次代の領主"バン・ビネガー"が治めしこの地に都を遷さん!」
掌をパンっと、合わせて空間が揺れる。
「我、現領主ビネガーが血を引く者の契約を交わせし、ネェツアークなり」
(アプリコットの名前を出さないで、認めてくれるかっ?!)
領主の記録が、ネェツアークに告げる。
"この土地の呪縛から、アプリコットを離したいなら、"名前"を出してはならない"
"《《なまえ》》という"呪"で縛る機会を遷都する"大地"に与えてしまうから"
(で、最終的には力業ってね!!)
"遷都"される土地が、"主"を探す為に蠢めき始めた。




