第一章⑦
ナオミコの幼なじみである広瀬ヒロミは、船場とも幼なじみということになる。小さい頃は三人でよく一緒に遊んだ。公園のジャングルジムに登った。シーソをした。砂場で山を作り、旗を立てた。三人は仲が良かった。ナオミコとヒロミは船場が走ると追いかけてきた。
けれど。
時間は確実に経過する。
あの頃に戻りたいとは思わない。
でも。
センチメンタルになる。
とても変わってしまった。
三人はとても変わってしまったと思うから。
「……目まぐるしい変化の早さについていけない」
「ホント、私のイマジネーション・マーケットに手が追いつかない、」ヒロミは机に向かってペンを走らせながら言った。「あ、はい、兄貴、これも、お願い」
「……あいよ」船場は渋い顔をしながらも、頷く。
船場はナオミコに部屋を追い出され、途方に暮れ、もう一度シャワーを浴び直し、犬を抱いてヒロミの部屋に来た。犬は部屋を見て、口を半開きにした。ヒロミの家は何の変哲もない文化住宅で、変わっているところといえば、彼女の父の空手道場が隣接しているくらいだが、問題は彼女の部屋である。造りではなくて、壁一面に隙間なく貼られた男のポスタだ。いわゆるBLのポスタである。ヒロミは小学生高学年くらいから乙女ゲームに夢中になり、いつの間にかBLに夢中になり、いつの間にかチョコレート・ムースというペンネームで創作活動を始めていた。
そして今も。
ヒロミは創作に励んでいて。
なぜか船場は。
ヒロミの部屋の中央にある足の短いテーブルの前で胡座を掻いて。
男たちの絵をスキャナしてパソコンに取り込む作業をしていた。
創作を手伝うのは初めてのことじゃなかった。
何回か、いや、何十回かは、こういうことをしたことがあった。
断らないのは、ありきたりだが。
ヒロミは船場にとってもう一人の妹のような存在だからだ。
BLにのめり込もうが、それは変わらない。
「よぉし、」ヒロミはペンを置き、「うーん、」と両手を持ち上げて伸びをした。「休憩っと、兄貴、今回のはどう?」
「……何が?」船場は最後の原稿をスキャナしながら聞く。
「感動的だったでしょ?」
「ああ、これか?」船場は原稿を束にして揃えてヒロミに渡す。「うん、絵が上手くなったな」
「違うよ、ストーリィはどうって聞いてんの、」ヒロミは椅子から降りて船場の対面に座った。そしてノートパソコンを向こう側から押し倒し、両肘をテーブルに乗せ、前のめりになって、ヒロミは胸元を強調するポーズをする。彼女はアニメのTシャツを着ている。サイズが大きめだから、鎖骨がよく見える。そのポーズの意図は船場には謎だ。「感動的だったでしょ? 涙がこぼれそうだった? いいよ、我慢しなくて、泣いてもいいよ、アシスタントの率直な感想が聞きたいから」
船場は思わず苦笑する。
「……え、なに、」ヒロミも合わせて微笑む。「なんなの?」
「……Tシャツが裏返しだ」船場は指摘する。
「え?」ヒロミは自分のTシャツを見る。「……あ、ホントだぁ、やだぁ、もぉ、早く教えてよぉ、やだぁ、」ヒロミは僅かに俯き、顔をピンク色にして言う。「兄貴、ちょっと、向こう向いてて」
「ああ」船場は言われたとおり向こうを向いた。ナオミコの場合だったらこうも素直に向こうは向かないだろう。男たちのポスタが目に入ったので船場は目を細めた。
「いいよ、ごめん、」Tシャツは正常に戻っていた。ヒロミはなぜか困惑した表情でグラスに注がれたコーラを一口飲む。「……その、えっと、なんだっけ?」
「ナオミコのことだ、」船場はヒロミならナオミコの百合に関する細かいことを知っていると思ったから、ここに来たのだ。そしたら、アシスタントになったのだ。「ナオミコの話をしに来たんだよ」
「あ、そうそう、そうだったね、そうだった、」ヒロミはなんとなく、無理に笑っているようだ。何かを隠しているようにも見える。「兄貴はいつも、ナオミコのことばっかり」
「今日は二人でどこに行ってたんだ?」船場はヒロミのベッドの上を見ながら聞く。ヒロミのベッドの上には、BLの薄い本が散乱している。ナオミコの部屋もジャンルは違えど、こんな風だった。
「あらら、兄貴がナオミコのスケジュールを把握してないなんて珍しい」
「俺がナオミコのスケジュールを完全に把握出来ていたのは四年前までだ、中学生になってナオミコは恥ずかしがり屋がエスカレートして俺とあまり会話をしなくなった上に、部屋に鍵をつけた、恥ずかしがり屋だから、でも、ナオミコは天然だから鍵を掛け忘れることが多い、そのまま眠ってしまうことも多い、だからまだ完全に把握できないという最悪な状況ではないわけだが、しかし、今日どこに行くのかを解明することは出来なかった」
「産業会館だよ」
「産業会館?」
「うん、同性愛オンリィの同人誌即売会だったの、関東のBL、GLの作家さんが大集合、凄いイベントだったよ、本も沢山買っちゃった、」楽しそうにしゃべりながらベッドの上から一冊の本を持ってきて船場に差し出す。「今日の一番の収穫はコレかな」
船場は受け取り、とりあえずぺらぺら捲る。この絵のタッチにはどことなく見覚えがある。
「兄貴、知ってる? 沙汽江さん、この本の作者ね、中央の人なんだよ、話を聞いたら同じ一年生でビックリ、凄いクオリティでしょ? インスパイアされちゃった、絵が描きたい衝動に駆られたね、握手してもらっちゃった、今度一緒に池袋に行こうねって約束もしたんだ、楽しみぃ」
「知らないなぁ、」船場はそう言って本を返した。「それより、ナオミコもその、本とか、買ってたの?」
「え、ナオミコ? ううん、」ヒロミは首を横に振った。「ナオミコはBLになんて興味ないし、ああ、ナオミコがどうして私と一緒に即売会に行ったかっていうとね、即売会と同じ会場でライブがあったからなんだ」
「ライブ?」
「うん、近隣の高校のガールズ・バンドのだけど、私たちの高校の軽音楽部も参加しててね、ナオミコの目的はライブ、BLじゃなくてね、ナオミコはずっとライブを見てたんじゃないかなぁ」
「……本当か?」
「なぁに、疑ってるの?」ヒロミコは首を傾けて言う。「あ、ははん、心配してるんでしょ? ナオミコが私みたいに腐らないかって心配してるんだ、大丈夫だよ、安心してよ、兄貴、大丈夫、私は、ナオミコをBLの世界になんて連れ込まないから」
「……GLの世界にもだ」
「もちろん、」ヒロミコは笑う。「でも、もしかしたら」
「もしかしたら?」
「GLに目覚めちゃうかもなぁ」
「え、どうして?」
「うち、女子校だし、多いよ、女の子同士で付き合ってる人、もしかしたらナオミコも、誰かに告白されたりなんかしたら、あ、ナオミコね、軽音楽部のゼプテンバっていう留学生の女の子のファンなの、その娘、ギターが滅茶苦茶上手で、よく分からないけど、高速カッティングなんだって、ファンクラブもあって、ナオミコは確か、ファンクラブにも入ったって嬉しそうに言ってたなぁ、もしかしたらGLの本を手にとって、ゼプテンバとこんなことしたいとか思っちゃったらもう、私には止められないよねぇ、うん、」ヒロミはそこまでしゃべって船場の異変に気付いたようだ。「……あ、兄貴、どうしたの?」
「……駄目だ、」船場は立ち上がり、がなった。「駄目だ、駄目だ、駄目だ!」
「……あ、兄貴?」ヒロミは目を大きくした「どうしたの?」
「認めない、俺は認めない、ナオミコがGLで、百合で、アブだなんて俺は絶対に認めない!」
「あ、兄貴、ごめん、あ、今の話はあくまで私の妄想だし、」ヒロミは早口で船場を宥める。「うん、ナオミコが女の子と付き合うなんてこと、ないよ、……多分」
「多分?」
「ううん、ない」
「ああ、ない、」船場は熱くなるのを抑えられなかった。ナオミコが留学生のギタリストの女子と付き合う? 「ない、あるわけがない! あったとしても、俺は必ず否定する! しなければならない! 否定して、否定して、否定しなければならない! なぜなら俺はナオミコのお兄ちゃんだからだ、そう思うだろ、ヒロミも!」
「……あ、う、うん、」ヒロミは何回も大きく首を縦に振った。「そう思う、うん、私は絶対そう思うよ、兄貴の言う通りだと思うよ」
「そうだろ、そうだ、そうだよ」
自分に言い聞かせるように言って船場は大きく深呼吸した。
そして座り直し。
項垂れた。「……悪いな、本当に悪かった、大きな声出して、ごめん、なんていうか、俺はナオミコのことになると、……駄目なんだよ」
「分かってるよ、兄貴、」ヒロミは微笑み、四つん這いで、なぜか近くに来た。「……昔から、そうだったよね、ナオミコのことばっかり考えていて」
「うん」
「変わってないね、そういうところ」
「そうだな、何も変わってない、進歩してないな、駄目だな」
「だ、駄目じゃないよ、」ヒロミの声は優しかった。「変わらないって大変なことだよ、同じ気持ちのままいるって大変なことだよ」
「……なんの話だ?」
船場が顔を上げると、ヒロミの顔が近かった。「……あ、あの、私、私ね、……、その、」
ヒロミの声の響きは不安定だった。
目が合う。
ヒロミの顔がよく見えた。
よく見た。
それはこの部屋で頻繁にしないことの一つだ。
目の前にいる女の子は。
ヒロミとは違う人みたいだった。
そう思った。
どうしてそんなことを思うのか、船場は訳が分からないが、訳が分からないのはさっきからずっと。
ああ、本当に。
ナオミコのことが分からない。
分かることなんてない。
しかし。
分かりたい。
知りたい。
難しい。
ナオミコは船場を苦悩させる。
ヒロミは船場から目を逸らした。
近かった距離を遠くにした。
そして犬の頭を撫でる。「……いい子だねぇ、兄貴、いつになったらこの子のこと、私に紹介してくれるの?」
「ああ、そういえば、そうだったな」船場は渇いていた喉にコーラを流し込んだ。
「名前は?」
「まだない」
「猫じゃないんだから」
「いや、そいつは犬だ、シベリアン・ハスキィ」
「違うって、そういうことじゃないって」
「何が?」
「名前をつけてやる、」ヒロミはしばらく考えて、そして魔女の目をして犬に言う。「……ナオト、ナオトがいい」
「ナオト?」
「今日からお前は、」ヒロミは犬を抱き上げた。「船場ナオト」
「だせぇ!」犬は吠えた。
「おお、嬉しいかぁ、」ヒロミはどうやら魔女ではないようだ。「よしよし、ナオトぉ、よしよし」