第一章⑥
船場が自宅に着いたのは夕焼けが紫色に変化した時刻だった。中央高校から自宅までは自転車で三十分以上ある。自宅に着く頃には、テレパシィで犬と会話が出来るようになっていた。額の辺りで音が響く感じ。不思議な感覚だったが、会話を交わすうちに不自然さは消えていった。油断すると、声が出てしまうが、徐々に慣れるだろう。
船場の自宅は赤紫の煉瓦が積み重ねられた、レトロな香りのする洋館だ。魔女の館という形容がピッタリ。いや、事実、魔女の館だ。テニスコート半面くらいの広さの庭は、母が育てている様々な色の草花で溢れている。
船場は鉄骨に蔦が絡まって天然の屋根になっているガレージに自転車を停めた。車はなかった。母はまだ帰っていないようだ。母は化粧品メーカで働いていて、細かいことは知らないが部長をしているらしい。今夜も日付が変わるまで帰って来ないかもしれない。父は一年前から大阪に単身赴任だ。
船場は自宅に入る。内装は外から見るような館の雰囲気はない。普通の和洋折衷のありふれた造りだ。玄関に妹のナオミコのスニーカがある。リビングの明かりは点いていない。ナオミコは二階の自室にいるようだ。しかし、とても静かだった。ナオミコは千場の一つ下で、錦景女子高校の一年生だ。高校生になってからナオミコはロックン・ロールに目覚め、自室に引きこもってコンポのボリュームを上げがちだ。
しかし、今は静か。
勉強でもしているのだろうか?
「ただいま」船場は二階に向かって言う。
返事はない。いつものことだ。船場は犬を抱いて風呂場に向かった。汗も搔いているし、犬を洗ってやりたかった。風呂にお湯を溜める間、船場はシャワーで犬を洗った。犬は終始気持ちよさそうにキャンキャン吠えた。湯船に浸かって犬の旅の話を聞いた。とても感動した。風呂から上がって船場は犬の餌を用意した。犬は腹ペコだったようでガツガツと餌を食べた。船場はそれを見ながらコーラを飲んだ。そして録画したアニメのことを思い出して、リビングに移動する。ソファに座り、リモコンを操作してアニメを再生させた。犬は船場の隣に座って人間みたいな欠伸をして後ろ足で器用に背中を搔いている。アニメを見ていた。その表情を見ていると、話の内容は理解しているらしい。笑いの壺は船場と同じだった。
「……少年、いつになったら、儂にナオミコ様を紹介してくれるんだ?」
アニメが中盤に差し掛かったところで、犬は言った。そういえばナオミコはまだ二階から降りてこない。
「ああ、そうだな、そうだった、呼んでくる」一時停止のボタンを押して船場は立ち上がった。
犬は僅かに緊張しているようだ。
「安心しろ、ナオミコは滅茶苦茶、優しい」
言って船場は二階への階段を登った。階段は緩やかなカーブを描いて二階に通じている。この階段は魔女の館っぽいなと気付く。一段一段の段差はかなり小さい。二階は船場の部屋とナオミコの部屋、そして母の書斎がある。もしかしたら魔導書のようなものがそこにはあるのかもしれないなと思う。確かその部屋には常に鍵が掛かっていた。階段を登ってすぐに船場の部屋があり、その隣がナオミコの部屋だった。
ナオミコの部屋の引き戸の小さな摩りガラスからはぼうっと明かりが漏れていた。
机に備え付けのスタンドライトのオレンジ色の明かりだ。
天井の蛍光灯の明かりは消えている。
そして。
静かだった。
何をしているんだろう?
船場は真夜湖の部屋のドアをノックした。
しかし。
応答がない。
変だな。
そう思って船場は躊躇いもなく、扉をスライドさせる。
「ナオミコ?」
船場は見慣れたナオミコの部屋を見回した。部屋の左奥にベッド、手前にはクローゼット、右奥には漫画が敷き詰められた本棚が壁一面を覆っていて、丁度ドアの死角に机がある。
ナオミコはベッドの上にちょこんと座っていた。
ナオミコの髪は僅かにピンクがかっている。普段はそれほど目立たないが、光の加減で真っ赤に見えるときもある。背は小さい。小学生からほとんど背は伸びず、体つきも華奢な方だ。胸の起伏は公園のベンチの背もたれのように滑らかで、それをからかうと酷く怒る。
一番大事なのは、ナオミコと船場が兄妹であることを示す共通点は全くないということだ。
それがもしかしたら。
ナオミコのことを大切に思う理由の一つなのかもしれないと船場は常々分析していた。
それから。
ナオミコはとても恥ずかしがり屋で。
ヒステリックで。
おそらく。
世界一。
可愛い。
ナオミコは扉を開けてから、ずっと船場の登場に反応しなかった。きっと集中していたのだ。ナオミコは両手で漫画雑誌を持って、頬を赤らめて、潤んだ目でページを追っていた。ナオミコはドアの方に向かって座っていた。だから船場の位置から、その漫画雑誌の表紙ははっきりと確認できた。
船場は少し、複雑な気分になった。
安易に扉を開けなければよかったと後悔する。
しかし。
知らなければ未来に後悔していただろう。
船場は開けた扉を鋭くノックする。「……ナオミコ?」
「……え?」ナオミコは四ページくらい読み進めてから、やっと船場を見てくれた。ナオミコは大きな瞬きを五回もした。そして言葉を忘れたかのように「……あ、え? えっとぉ、えぇぇえ、」としどろもどろに上半身をくねらせた。それから思い出したように漫画雑誌を後ろに隠した。しかし、その行為にはほとんど意味がなかった。ベッドの上には、その漫画雑誌のバックナンバらしきものが数点、床にはその漫画雑誌のジャンルの薄い本が散乱していた。ナオミコの顔は真っ赤になっていた。慌ててそれらを回収して、船場の視線から遠いところに隠した。そのぎこちない作業が終了すると、ナオミコは弱気な顔ですべきことを考えてから、船場を涙目で睨みつけ、そして怒鳴った。
「いつも勝手に部屋に入らないでって言ってるでしょ!」アニメの美少女キャラクタのような特徴的な声は裏返っていた。ナオミコはさらに顔を赤くして言い直す。「勝手に入って来ないでよ、もうっ!」
「俺は名前を呼んでから、ノックもした、」船場は動じることなく答える。「でも反応がなかったから、心配になって」
「余計なお世話よっ、」ナオミコは枕を船場に向かって投げる。「バカっ!」
船場は枕をキャッチした。いい匂いがした。本当にいい匂いだった。気持ちが良くなる匂いだった。思わず顔を埋めたくなる匂いだった。船場はナオミコの前で枕に顔を埋めた。
「な、なに、匂い、か、嗅いでるのよ、変態っ!」ナオミコは目一杯の力で陽介から枕を奪った。
「赤ちゃんの匂いだ」船場は真夜湖の目を見て発言する。
五秒間、しばし、兄妹は見つめ合った。
「バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、バカ、変態っ! この、ロリコンっ!」
物凄い勢いでナオミコは船場に枕を叩きつけてきた。枕は意外と硬い素材で出来ていたため、少し痛い。しかもナオミコは執拗に船場の柔らかい部分目掛けて枕の固い部分を叩きつけてくる。船場は涙目になりながら主張する。「ま、待て、ナオミコ、俺はロリコンじゃねぇ!」
「ハゲっ!」
「ハゲでもないっ!」
「ロリコンっ!」
「だから俺は!」
「もう疲れたっ!」
ナオミコは枕での攻撃を止めて、そして船場の隙を付いて鋭いローキックを船場の左太ももにくらわせた。ナオミコは幼いころから空手を嗜んでいる。隣の家は空手道場だ。船場は顔を歪ませて膝から崩れ落ちた。「……痛い、……いてぇ」
本気で痛がる船場を見て、ナオミコは顔を背けた。ナオミコは恥ずかしがり屋なので船場に謝罪したことなんて一度もない。でも、ナオミコはそういう可愛い反応をしてくれる。船場はそれでよかった。ナオミコのことが大好きだからだ。
「……は、早く出て行って、」ナオミコは腕を組んで小さな声でツンと言う。とても愛嬌のある表情だった。それで太ももの痛みが和らぐようだった。いや、痛いけれども。いや、それよりも……。船場は確かめたいことがある。
「……なあ、ナオミコ、お前が読んでいた、その雑誌って、……もしかして、」
「……な、」ナオミコは明らかに動揺している。その反応は初めて母にエロ本を押収された四年前くらいの船場とほとんど一緒だった。涙目だ。「……な、な、なんでよぉ、なんでナオズミが知ってるのよぉ、ロリコンのくせにぃ」
「俺は別にロリコンじゃないけれど、」船場は前置きしてから発言する。「俺はそういうマイナな方面のコレクタだから、その雑誌の存在くらいは知っているし、同好会のメンバに生粋のアブがいて、そのアブの愛読書が、」
「せめて百合って言って、」ナオミコは訴える。「百合って」
船場は些末なことだと思うが言い直す。「ああ、百合な、百合、その百合の先輩の愛読書がな、それなんだよ、それ」
そして。
長い沈黙が来る。
船場は何かを語ってくれるのを待った。ナオミコが弁解してくれるのを待った。百合ではないことをナオミコに言ってもらいたかったのだ。笑い飛ばしてもらいたかった。友達に勧められて、とかそんな風な軽い言い訳を待っていた。しかし、毛糸が絡まったようなナオミコの反応を見て、そうなんだと思う。
そうなんだと思った。
しかしでも。
ナオミコがアブだなんて信じたくない。
いや、百合だなんて。
「……出てって」ナオミコは船場に背中を向けて言う。その背中は大きく震えている。
「え?」
「出てけぇ!」ナオミコはがなった。両手で船場を押して、部屋から追い出した。
船場は廊下のフローリングの上に尻餅を付く。
「ちょ、いきなり、何を」
見上げたナオミコの目は潤んでいた。「……バカっ!」
扉が閉められた。施錠される冷たい金属音。船場は扉を叩いて聞く。「あ、お、おいっ、ナオミコ、夕食は、夕食はどうするんだ?」
「いらないっ!」ヒステリックなナオミコの声。
「いらないって、おいっ、」船場の心は悲しかった。ナオミコに本気で拒絶されている気がしたのだ。いや、本気で拒絶されているのだ。「ハンバーグだぞ、チーズハンバーグだっ!」
「ナオズミなんて知らないっ!」
それから何度ドアを叩いても、ナオミコは返事をしてくれなかった。
船場は絶望的な気分になった。
もう、アニメどころじゃない。
魔法どころじゃない。