第一章⑤
スクールバンド・ライブ・BGM(ゼプテンバはライブの名称を最後まで知らなかった)は部長の萱原の見立てと裏腹に盛況だった。予想以上の動員に、沢村ビートルズの沢村マワリはライブ中に、男たちに向かってダイブした。裏方では拍手が起こった。ラストは錦景商業のアイドルユニット、エクセル・ガールズの登場。六十年代風な曲調とダンス、表計算ソフトを皮肉った歌詞に会場は大いに盛り上がった。
盛り上がりの余韻を残し。
午後五時十五分。
イベントは終了。
「ねぇ、これからどうするの?」
鏑屋はコーラをゼプテンバに渡し、ベンチの隣に腰掛ける。今、ゼプテンバと久納と鏑屋の赤ジャージの三人は産業会館の向かいの緑地公園のベンチにいた。他の軽音楽部のメンバは例によってカラオケに向かっただろう。萱原のリサイタルに付き合うのが苦手な三人は、先に会場を抜け出して来たのだ。
「ぷはぁ、」久納はコーラを一気に半分くらい飲んだ。「うめぇ、……けぷっ」
「可愛いげっぷ、」鏑屋は笑う。「……けぷっ」
「リホちゃんだって、……けぷっ、あはははっ」
久納は酔っぱらってしまったように手を叩いて笑う。
春のことだ。体育の授業、キャッチボール中、久納は鏑屋が投じたフライの処理に失敗した。ボールは脳天を直撃。命に別状はなかった。がしかしそのせいで、何かの拍子でこんな風にとても愉快になるときがある。
愉快な久納はじーっとコーラを飲むゼプテンバを見ている。おそらくげっぷを期待しているのだ。今の久納はげっぷに愉快な久納。絶対にするものかとゼプテンバは思ってコーラを飲む。「……けぷっ」
出てしまった。
「きゃはははははっ」久納は手を叩いて猿みたいに笑う。
「もう、久納ちんってばぁ、ああ、スイッチ入っちゃったよぉ、」鏑屋は慈悲深い目で久納を見る。「また黒いタンバリンが必要だね」
黒いタンバリンというのは錦景女子高校の三年で、占い師の斗浪アイナが所持している魔具の一つで、女子のヒステリックを鎮静化する効果があるとか、ないとか、言われている。ゼプテンバは触って確かめたことがないから細かいことは知らない。しかし、久納は黒いタンバリンの音色で、冷静になることは、本当だ。
久納は一度、静かになって、またゼプテンバを見ている。
ゼプテンバはコーラを飲み干し。
必死でげっぷを我慢した。
立ち上がり。
空の缶を潰し。
振りかぶる。
十メートル先のゴミ箱に。
潰した缶を投げる。
綺麗な放物線を描き。
缶は。
高い精度のコントロールで。
ゴミ箱に。
入らなかった。
誰かがキャッチした。
意表を突かれ。
「……けぷっ」とげっぷが出た。
「きゃはっ」久納の笑い声がする。
缶をキャッチしたその人は、悪戯に微笑んでいる。高いレベルの美貌。東洋人特有のベビィ・フェイス。髪は黒く長く艶がある。現代日本ではあまり見られなくなった、大和撫子が前にいる。服装はTシャツにデニム。矢沢永吉のTシャツだった。ジャパニーズ・ロックの神様だ。
「アルミの缶はココじゃないよ、ココは燃えるゴミ、」缶をキャッチした人はそう言って缶を正しい場所に捨てる。「ゴミはちゃんと分けないと叱られちゃうよ、ホントに? 私は怒らないよ、だって燃やせばほとんど燃えるんだもん」
「……缶は?」ゼプテンバは聞いてみる。
「溶けるよ」その人は息の量多目に、発声した。
「きゃはっ」久納は愉快に笑っている。
ゼプテンバは久納を見る。久納は首を傾げていたが、目を大きくした。「……あ、そうだ、昼間、サインした中央の人の隣に座っていた」
言われ、ゼプテンバは昼間のサインのときの映像を思い出し頷いた。
「うん、そうだよ、嬉しいな、」その人は地球の自転軸くらい首を傾けて、ゆっくりとゼプテンバに近づいてくる。ゼプテンバは少し警戒する。「可愛い女の子たちが私のことを覚えていてくれているなんて、」その人はゼプテンバの肩に優しく触って、押して、ベンチに座らせて、自分もベンチに座る。このベンチに四人は狭くて、ゼプテンバは彼女と密着することになった。ついでに久納とも密着する。久納の体も柔らかいが、彼女も柔らかい。「今日は後輩のためにサインしてくれてありがとう、ライブも素敵だった、私もファンになっちゃった、二人でデュエットしていた曲が好き、ランランラーっていうメロディの、あなたの声、可愛いのね、」ゼプテンバは声を可愛いと褒められ、動揺する。「私は中央のエコロジーっていうボランティア同好会の元会長の桜吹雪屋藍染テラス、今はT大の一年生、専門は工学」
「桜吹雪屋って、」久納と鏑屋は声を重ねる。「あの、桜吹雪屋?」
ゼプテンバはどうして二人がそんな反応をするのか、分からない。
その人は上品に二人に微笑み返し、その人の気品の高さはまるで魔女が魔女であるように自然だった、ゼプテンバの耳元に口を近づけて囁く。「私にはこんなことしかできないけれど」
藍染はゼプテンバのジャージのポケットに手を入れて、何かを入れた。
「かーいちょ、」呼ぶ声とともに足音が近づいてきた。女子が教会のある方向からこちらに向かってくる。中央の制服を着ている。彼女のことも覚えている。「ああ、もう、またぁ、ナンパですかぁ、今日、何回目ですかぁ?」
「違うよ、沙汽江ちゃん、誤解しないでってば、」藍染は立ち上がり、両手を軽く広げる。「私の今夜は、沙汽江ちゃんのものだから」
「いりません、私はアブではありませんから、」キッパリ断って、沙汽江はゼプテンバたちに視線をやる。「あ、この人たち、昼間の?」
「うん、」藍染は頷く。「錦景女子のコレクチブ・ロウテイションの三人、アメリカ人の彼女が缶を燃えるゴミの方に投げたからそれを注意していたのよ、環境保全団体エコロジーの元会長としては放っておけなくて」
「そんな言い訳しなくてもいいですよぉ、」そう言って沙汽江はゼプテンバたちを、睨むようにじっと見る。「……あの、錦景女子ってやっぱり、その、あれなんですか?」
「あれって?」鏑屋が言う。
「えっと、そのぉ、」沙汽江はなぜか恥ずかしそうに顔をピンク色にしている。「つまり、あなたたち三人もぉ、本に描いてあったようなことしているのかなぁって、……ああ、ごめんなさい、やっぱりなんでもないです、なんでも」
「本に描いてあったこと?」鏑屋は純粋に首を傾げる。「本に描いてあったこと?」
「ほ、本に描いてあったこと?」久納は顔をピンク色にしている。「さ、さあ、なんだろうねぇ、なんだろうねぇ、ねぇ、ゼプテンバぁ?」
「三人は友達」ゼプテンバは歯切れ良く言った。これは公明正大の事実だ。
「あ、そうなんですかぁ、」なぜか沙汽江は残念そうだ。「残念、あ、いえ、でも、……ああ、そうなんですねぇ」
「楽しそうね、沙汽江ちゃん、」藍染は沙汽江の頭を触る。「よく悩んでね、私の今夜は沙汽江ちゃんのものなんだから」
「あ、いえ、結構です」沙汽江は前髪の乱れを直しながら即答する。
「あ、そ、」藍染は上品に微笑む。そして教会の方を見て言う。「……それで、イオリとあの娘は?」
その質問に沙汽江は腕を組む。「うーん、なんていうか、説明し辛いんですけど、色で言うと、……オレンジ?」
「夕方だからね、」藍染は微笑む。「それじゃあ、沙汽江ちゃん、帰ろうか」
「え、内海先輩は?」
「いいよ、二人で帰ろう、待っていても仕方がないことの一つよ、今は、」藍染は沙汽江の肩を抱く。「バスで帰る? それともタクシィ?」
「自転車で帰ります、」沙汽江は藍染から距離を取り、キッパリと言う。「会長の手は煩わせませんから、ご安心を」
「ええ?」藍染は子供っぽい声を出す。「それじゃあ、ウチにも来ないの?」
「皆さん、さようなら」沙汽江は藍染を無視してゼプテンバたちに向かってお辞儀をした。そして踵を返し、出入り口の方に向かって煉瓦の道を歩き出した。
「ああん、待ってよぉ、」藍染は沙汽江を追う。少し行った先で振り返って手を振る。「それじゃあ、またね、また、ライブ、見に行くから!」
二人は緑地公園から去った。
急に静かになったような気がした。
「愉快な人」ゼプテンバは感想を言って、藍染がポケットに入れたものを確かめる。
「……久納ちん、あの人、桜吹雪屋って言ったよね?」
「うん、リホちゃん、うん、言ったよ、言った、桜吹雪屋って言ったよ」
「一万円、」ゼプテンバは藍染がポケットに入れたものを広げた。夕日にかざしてみる。「本物だ」
「え、何?」鏑屋が聞く。
「あの人がくれたんだ、桜吹雪屋とは何者だ?」
「市長さんだよ、」鏑屋が答える。「映画館がゼロになるくらい駄目になった錦景市を立て直した偉い市長さんだよ、あの人は多分、娘さんだよ、きっと、T大って言ってたよね、凄いね、やっぱり遺伝子は受け継がれているんだよ」
「なるほど、」ゼプテンバは頷く。「でも、……アブだ」
「それより、ゼプテンバ、……その一万円、」久納はお腹に手をやって腹ぺこのポーズをする。そしてなぜか上目遣いだ。「どうするの?」
「どうするの?」鏑屋も腹ぺこのポーズを始めた。鏑屋もなぜか上目遣いだ。
「もんじゃ」
ゼプテンバの流暢な日本語に、二人は歓声を上げた。