第一章④
犬は黒と白のツートンカラー。眼光鋭く、狼のようにも見える。が、小さく、足が短い。毛筆のような尻尾を振っていた。品種は分からない。
船場はまだ周囲に誰かいるのではないかと疑っていた。犬は舌を出して尻尾を振って船場を見ている。船場は犬を抱いたままその場で一回転する。
「どうして回転した?」犬の口元に連動して、声がする。
「夢か、幻聴か、それとも」
「これは現実だよ、少年」
「……現実か?」
「うん」
「こういう現実も悪くないが、でも、しかし、なんていうか、なんていうか、」船場は犬の頭を撫でてやる。「こんなこともあるんだなぁ」
「物分かりがいいなぁ、」犬は機嫌がいい、という声を出す。「さすが、魔法使い」
「魔法使い?」船場はそのファンタジィなキーワードに反応する。「魔法使いなのか? 俺は? そういう設定なのか?」
「遺伝子の問題だ」
「ああ、なるほど」船場は頷く。
「物分かりがいいなぁ、どうして?」
「昔、酒に酔った母さんは自分のことを魔女だって言って、鍋を三十センチくらい浮かせたことがある、秘密にしていたみたいだったけど、でも、俺は見たし、俺は母さんのことを超能力者だと思っていた、でも、そうか、魔女なんだなぁ、へぇ、凄い」
「君も魔法使いだ」
「でも、俺は、普通だ、魔法なんて使えない」
「魔法が使えなくて当然だよ、研究してないんだから、研究しなきゃ魔法は使えない、でも、しかし、その順応性は普通じゃないキャラクタだよ、スポンジみたいに何でも吸収して、全く動じない、素晴らしい素質」
「そうなのか? いや、でも、動じないことなんてない、動じるときは、動じるし、そう、そう、例えば後輩の沙汽江にBLの妄想をされたときとかは、焦るし、もし、妹に彼氏なんて出来た日には、」
犬は耳をピクリと動かした。「妹がいるのか?」
「ああ、」船場は頷く。「それが何?」
「可愛いのか?」
「当たり前だ、」船場はスマホを取り出し、隠し撮りした寝顔を見せる。「どうだ?」
「マーベラス」
船場は微笑んでスマホをポケットに仕舞う。「そうだろう、俺の妹は誰よりも可愛い」
「紹介してくれ」
船場は微笑みを消して、犬を睨む。「……まさか彼氏になりたいのか?」
「バカ、儂は犬だ」
「じゃあ、どういうことだ?」
「彼女の使い魔にしてもらいたい」
「ナオミコも魔女なのか?」
「それは会ってみないと分からないが、でも、その可能性が高い、君の妹ならば」
「使い魔になってどうする? いや、そもそも、お前はなんだ? ただの犬なのか?」
「ああ、ただの犬だよ、ただの犬だったんだが、以前は魔法使いの使い魔だった、儂の首にタグがあるだろ?」
「ある、」船場は犬のレザーの首輪に付いた銀色のタグを触る。「ドッグ・タグがある、米兵か?」
「儂はロンドンだ、少年、ああ、そこに刻まれているだろ?」
船場はタグを見てみる。刻まれているのは、アルファベット。「……英語は苦手なんだ、なんだマルガ、チエッタ?」
「マルガリータ、」犬は歯切れよく発声する。「以前の主人の名前だ、儂は彼女を探しに、この辺境の地に船に乗って来た、この土地にはかすかに彼女の匂いが残っている、儂らは匂いを頼りにして世界中を旅した、そしてこの土地に辿り着いた、しかし匂いはこの土地で途絶えていて先がない、つまり、彼女はこの土地のどこかにいるはずだ、儂らは彼女を探している、けれど、見つからない、誰かに主人になってもらって魔力を頂かなければ、儂らの魔力は尽きてしまう、だから、君の妹、ナオミコ様を紹介して頂きたい」
「なるほど、」船場は頷く。「だいたい、事情は分かった、儂ら、ってことは、他にも仲間がいるのか?」
「ああ、いる、あいつはあいつで、主人を探している」
「お前を使い魔にするメリットは?」
「魔法研究に関しての様々なアドバイスが出来るだろう、」犬は自慢げに言う。「なんといっても、儂は今年で四十二だ」
「厄年か」
「なんだそれは?」
「いいだろう、」船場は犬を自転車の籠に乗せた。信号が赤だから、出発は出来ないが、船場は自転車に跨った。「いいだろう、紹介してやる、妹が魔法少女になるなんて最高だ」
犬は愉快そうに吠え訂正する。「魔法少女ってなんだ? 魔女だよ、魔女」
「日本では魔法少女っていうんだよ」
「巫女ではないのか?」
「どちらかというと亜種だよ、巫女さんは、いや、でも、それもいいなぁ」
「何を考えているんだ?」
「妹のことだよ、ああ、それでお前、名前は?」
「名前はナオミコ様に付けてもらう、以前の名前は忘れた、ああ、儂は純粋なシベリアン・ハスキィだ、覚えておいてくれよ」
「忘れた?」
「マルガリータ様に契約を切られてから、様々なことを忘れているよ、魔力を失っていくのと一緒に忘れているよ、もう一匹の使い魔はまだ、マルガリータ様の顔を覚えているだろうけど、儂はもう忘れてしまった、マルガリータ様は写真を撮らない人だったから、もう、見つけるしか、彼女の顔を思い出す方法はないんだよ、匂いだけなんだよ、彼女の匂いしか、儂は覚えていないのだよ」
「……そうか」
「泣いているのか? 少年」
「汗だ、」船場は涙腺が弱かった。どんなアニメでも、最終回は必ず泣く。「……今夜も熱帯夜だ、錦景は毎日暑いだろ?」
信号が青になり、船場は自転車を漕ぐ。