第四章⑫
天之河ミツキのバックバンドをするのにも慣れてきた。それがコレクチブ・ロウテイションの喫茶ドラゴン・ベイビーズでの大切な仕事だ。ステージで自分たちの楽曲を演奏するのは厳密に言えば、仕事じゃない。「彼女は発電機」を歌ったら年齢不詳のバイトリーダの東雲ユミコはコーラやパフェやショートケーキやオムライスを食べさせてくれるが、基本的に報酬が出ることはなかった。だからミスをしても許される。しかし天之河の後ろにいるときは、ミスは許されないのだ。なぜなら時給が発生するから。始めたばかりの頃は久納ユリカと鏑矢リホは沢山ミスった。矢沢エイキチの楽曲は初心者の二人には難しい。天之河の後ろでミスをするたびに二人は事務所に呼ばれ、中々帰って来なかった。しかし、ほぼ毎日繰り返しているとミスらなくなった。この夏で確実にバンドの演奏面での技術はレベル・アップした。天之河のおかげだ。八月三十日の天之河のショーも、なんとかミスをすることなく終わることが出来た。
ショーが終わり、天之河が優雅に客席を歩いている間、三人はセッションを始める。新曲Pのセッションを緩やかに始めた。書き上げたばかりの歌詞を久納はメロディに乗せて歌う。ゼプテンバは鏑矢に複雑なリズムを提案する。彼女は同世代の女子で一番遠くに飛べる女子だ。元々のポテンシャルが高いからすぐにゼプテンバの要求に応えてくれた。ゼプテンバの歪んだギターソロに、ステージ直近の席から拍手が起こった。
仕上がりは上々。
「どうだった?」久納はベースをスタンドに置いてポケットからネタ帳を取り出してゼプテンバに見せた。「時間がなかったから、その、捻りもないし、結構、純粋で、抽象的な歌詞になっちゃったけど」
ゼプテンバはネタ帳を見ながら微笑んだ。「凄くいい、凄く素直で、まるで私の心みたい」
「何を言ってるの?」久納は笑う。「ゼプテンバがこの歌詞みたいに素直なわけないじゃん」
ゼプテンバはむっとして久納のマッシュルームに手を突っ込んで混ぜて鏑矢を見て言う。「でも、出だしが少し気になる、他に何か、ないかな?」
「うーん、」鏑矢はフロアの天井で回転する金のプロペラを見る。「確かにいきなり直球過ぎるかな、っていうのはあるね」
というわけでゼプテンバと鏑矢は歌詞の編集作業に入る。あーでもない、こーでもないと言い合いながら歌詞に修正を加えるのはいつものことだった。脳ミソが回転してくると細かな修正が、大幅な修正に変化してくる。途中で客の一人の男子が奇声を上げて席を立った。そのせいで脳ミソの集中が中断してしまった。ゼプテンバは邪魔をされて少し切れた。だから近くにあった黒いタンバリンを、男の頭狙って投げた。何かを投げたのは久しぶりのことだった。だからとても力が入ってしまった。狙い通りの軌道を描いて、黒いタンバリンは男子の後頭部に直撃する。激しい音がして男が黙ったので、編集作業は再開される。ヴァレンシアのステージの時間になる頃には、ある程度の形が纏まった。
後は。
午後九時からの特別なコレクチブ・ロウテイションのステージで演奏するだけだ。
出番の前に更衣室でステージ衣装に乱れがないか、入念にチェックした。ウサギの耳のズレを細目に直す。前髪を気にする。とにかく鏡をよく見た。喉が渇くので、緑色のジュースを良く飲んだ。
そんな風に忙しないゼプテンバに対して、久納は言う。「今日は私よりも鏡を見ているね、変なの、自分のことを誰よりも可愛くてカッコよくて素敵だと思っているゼプテンバがまるで自分に自信がない乙女みたいに様々なことを気にしているね、変なの」
ゼプテンバは久納のマッシュルームに手を突っ込んで混ぜる。最近、彼女の頭をいじるのが癖になっている。マッシュルーム・ジャンキィになりかけている。落ち着くのだ。心が。「ふひぃ」
「え、あ、ちょ、もぉ!」久納は髪が乱れて動揺して、慌てて鏡の前に立つ。「ああ、せっかく絶妙な膨らみにセットしたのにぃ、台無しだよぉ、もぉ、台無し!」
そこへ東雲ユミコが現れる。「ああ、今日も楽しかったねぇ」
ヴァレンシアのステージが終わったようだ。時計を見ると午後九時、十分前。東雲の後ろから谷崎モモカが更衣室に入る。「楽しかった? どの口がいう訳? 今日も私のソロパートに被せてきたな、もう、信じられない」
「えー、いいじゃん、」東雲は自分のロッカの前に立ち、中からタオルを取り出し汗を拭っている。「楽しかったし」
「私は楽しくないの、全然楽しくない、あんたと一緒に歌ってて一度も楽しいなんて思ったことはないもの、」谷崎はヒステリックに叫ぶ。「ねぇ、久納ちん、久納ちんもそう思うでしょ? 実際のところ私、全然楽しそうじゃないでしょ?」
「今それどころじゃありません、」久納はマッシュルームに真剣だ。手に軽い力を入れてふわっふわにしようと神経を注いでいる。「谷崎さんが楽しいか、楽しくないかなんてそんな些末な問題よりも、今はこの問題をどうにかせねばならないんです!」
「そうよ、些末な問題よ、モモカちゃん、」東雲は汗を拭っている。拭うと言うよりはふんわりとした繊維の量の多いタオルに汗を染み込ませているという感じだ。その仕草からも彼女の年齢を読み取ることは不可能だ。「それよりも、私、これから用事があるから、お店、モモカちゃん、よろしくね」
「もう、解散よ、解散、」谷崎のヒステリックは収束しない。「どうも三年間、短い間だったけど、ありがとうございました、コレから私はソロで頑張っていきますので」
「はい、はい」東雲は余裕の表情で谷崎を宥める。
「ほ、本気なんだからね!」
「はい、はい、本気、本気、いつもモモカちゃんは本気だよね、凄いね」
「も、もう、いっつも、いっつも、いっつも、私のことをバカにしてぇ!」
谷崎は東雲に叫んで睨む。
東雲はそんなこと、意に返さずと言う風に、ゼプテンバを見て言う。「あ、そろそろ出番よ」
ゼプテンバは頷いて立ち上がる。
太ももに黒いタンバリン当てて鳴らす。
「ああ、ちょ、待って、」久納はまだマッシュルームの乱れを気にしている。少し乱れていた方が可愛いらしいのに、久納は完璧なマッシュルームを目指しているのだ。「もう少し、もう少しだけぇ」
そんな久納の腕を鏑矢は引っ張ってくる。「ほうら、もう、時間だから」
二人はゼプテンバの横を通って更衣室の扉から出ていく。
そのタイミングでオープニングSEが鳴り始める。
コレクチブ・ロウテイションのオープニングSEはチキチキバンバンだ。
谷崎のヒステリックは続いている。
東雲は谷崎のことを抱き締めて鎮火しようとしている。
しかし。
「解散よ、もう、解散だ!」谷崎は律儀にキッチンの制服にきちんと着替えて更衣室を出ていく。「今度は本気だからね、一緒にキネマを見ても、一緒にダンスを踊っても、プレゼントをもらっても、解散なんだからね!」
更衣室の扉が乱暴に閉まる。
「あら、あら、」東雲は腰に手を当て、息を吐いて言う。「まだ若いなぁ」
しばらくして。
鏑矢が慌てて戻ってきた。「ゼプテンバってば、もう、チキチキが鳴り止むよ、どうしたの?」
「……リホ、お願い」
「え?」
「背中を押して」ゼプテンバの口から出た声は震えていた。
何かがおかしい。
普通じゃなかった。
黒いタンバリンを鳴らしても。
足が前に出ない。
心臓が破裂しそう。
呼吸が苦しい。
眩暈がする。
黒いタンバリンが鳴っているのに。
「え、背中?」鏑矢は首を傾げた。「どうして?」
「何も聞くな、」ゼプテンバの顔は熱かった。きっとピンク色だから鏑矢に見られたくない。顔を背けた。「何も聞かないで、背中を押して」
「う、うん、何も聞かないよ、うん、聞かない、」鏑矢は頷きゼプテンバの後ろに回り、ゼプテンバの肩甲骨の辺りを弱い力で押しながら、耳元で囁く。「なんだかよく分からないけど、頑張ろっ」
この時ほど。
鏑矢がいい女に思えたことはなかった。
チキチキバンバンの終わりとともにゼプテンバはステージに立つ。
歓声が起こる。拍手の量が多い。待たせたからだろう。
耳元で黒いタンバリンを一度鳴らして。
ギターのストラップを肩に掛け。
チューニングを始める。
ファン・クラブの女の子たちを睨んで。
彼女たちは狂ったみたいに奇声を上げる。
そして。
ゼプテンバは店内を見回す。
奥の方に大森テルコと朱澄エイコの姿を見つける。
すでに仕事を終えたアメリは二人掛けのテーブルの対面に犬を座らせパフェを食べながら何かを相談している。
アメリの背中の通路を通って白と緑のチェック柄のワンピースを着た東雲が店から出て行く。
あの人はいなかった。
どこにもいない。
「聞いてください、」久納が真剣な目をして、マイクにハスキィボイスを乗せる。「パーフェクトマッシュルームヘアの夏のお嬢さん」
「せーのっ、」鏑矢とゼプテンバがマイクに声を乗せる。「ちゅーう、ちゅう、ちゅちゅ!」
一曲目は昭和アイドル歌謡のカバー。
歌詞はマッシュルームヘアの久納の苦悩を描いたものだ。
それを久納が真剣に歌うことで。
客席は盛り上がる。
それから、
ゴールドフィッシュにうってつけの春、
対カルチャショック戦争の前夜、
笑う女、
アケミに捧ぐ(私のためにピアノを弾け)、
利根川のほとりで、
甘い口どけ髪は紅、
エヴァ・シエンタの銀の時代、
鏑矢リホが遠くに飛ぶための愛に溢れた応援歌、
と続けて演奏した。
そして。
最後に。
彼女は発電機じゃなくて。
新曲P。
それをやる予定だった。
でも。
彼は現れない。
時刻は夜の十時に近い。
つまり。
今夜は来ないのだろうか。
今日は来ない。
いつも来ていたのに。
夏の終わりの今日に。
来ないなんて。
信じられない。
ゼプテンバは初めての気分になる。
説明が難しい気持ちになる。
とにかく。
不愉快で。
不愉快で。
仕方がなかった。
マッシュルームヘアが汗で乱れた久納のMCが究極につまらないから。
怖い顔をしているわけじゃない。
とにかく。
とにかくもう。
新曲Pをやる気にはなれなかった。
「それじゃ新曲、聞いてください、」
久納が曲名を言う前に。
ゼプテンバはギターをアコースティックに変えて。
勝手に演奏を始めた。
「え?」という顔を見せる久納。
鏑矢は慌てて黒いタンバリンで合わせてくる。
客席から手拍子が聞こえる。
この曲はそう。
ロンドンにいた時の。
下らない主張を歌った。
下らない歌。
今。
そのメロディを思い出した。
今。
このメロディを歌いたいと思った。
今日だけ。
スペシャル。
この曲で。
コレクチブ・ロウテンションの夏が。
終わる。




