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チョコレート・ムース・レシピ  作者: 枕木悠
第四章 アブサッド・スピーチ
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第四章⑦

内海の母親はとてもリベラルな思考の持ち主だ。母親はG大の講師で、専門は社会学。主にジェンダ論を扱っている。だから幼い頃から内海が女の子のことを好きだと言っても否定することはなかった。「女の子のことが好きな自分のことを客観的に分析し、自覚して、正確な判断をしなさい、その正確さとは、正直さと言い換えられる、常識的で論理的な思考の有効性は尊重しなくてはいけない、けれど非常識で非論理的な思考は排除してはならない、むしろ大切に扱わなければならないこと、つまり、正直に向き合い、正直な応対をすることが大事、コレはモラルの問題よ」

 そんな母親はアメリを内海家に住まわせることに反対しなかった。ミーティングは翌朝のリビング。テーブルには和風の朝食が並んでいる。アメリはフォークでご飯を食べている。父親は興味深そうにイギリス人の容姿のアメリを見ていた。

「……可愛いなぁ、」父親は変質者の目をしていた。「耳、触っていい?」

「……、」アメリは垂れ目で父親をじっと見ながら両手で耳を隠す。「……駄目です」

「可愛いなぁ」

 というわけでアメリは内海の家で暮らすことがすんなりと決まった。すんなりとアメリのことが決まったのはよかったのだが、内海の心には靄がかかったままだった。

土曜日の今日、藍染はお見合いをするらしい。

いや、別になにも心配してはないけれど。

 ナオミコは今日、何をしているんだろう。

プレゼントした本を読んでくれているだろうか?

 そして。

 悲しい思いをさせてしまった彼女に。

なんて謝ろう。

 ずっと謝りたかった。

 でも、ずっと謝り方が分からなかった。

 今も分からない。

 会ってまた。

 怒鳴られてしまうんじゃないかって思うと。

 怖い。

 面倒臭い。

 そう思う自分が。

面倒臭い。

 彼女の居場所は分かっている。彼女は錦景女子の料理部の女の子。

 削除したはずの電話番号も覚えている。

机の上のスマホにはすでに電話番号を押している。

後はダイヤルキーをプッシュするだけ。

 楽しい彼女との思い出も忘れていない。

 本当に彼女は。

 楽しい女の子だった。

 悲しい顔なんて見たことがなかった。

 悲しい顔をさせたから。

 悲しい顔をさせてしまったから。

呪われても仕方がなかったって思える。

 そんな彼女は、今日。

 何をしているんだろう。

「早く電話を掛けて下さい、ご主人様、」アメリは鏡の前で髪の毛を整えている。内海が所有している自分に似合わない服がアメリには似合っている。これからアメリはドラゴン・ベイビーズに出勤するようだ。「それが私に出来る最高のアドバイスです、呪いを解くのは早い方がいいです、取り返しがつかなくなる前に」

「私の声が聞こえていたの?」内海はアメリの方に体を向ける。「テレパシィで?」

アメリはネクタイを結びながら頷く。「すみません、なるべく聞かないようにします」

「いいよ、聞いて、聞いてよ、テレパシィなんて素敵」

 内海は悪い目をして。

アメリに猥褻なことをしているイメージを思い浮かべた。

「……最低、」アメリは真っ赤な顔をして、耳を隠す。「ご主人様のバカ」

「あはは、ごめん、ごめんね、」内海はアメリに接近して抱きしめて匂いを嗅ぐ。「ちょっと、アレよ、実験よ、実験」

「マルガリータ様も猥褻なことを考えては私を恥ずかしい気持ちにさせました、」アメリは内海より頭一つ分小さくて抱くのにピッタリだった。昨夜もアメリを抱いて寝た。「マルガリータ様はおっしゃっていました、猥褻なことを考えるのは目の前にある、とても近く迫ってくる脅威からの逃避であると、つまりだから、ご主人様は逃げようとしています、マルガリータ様はおしゃっていました、使い魔は逃げるご主人の髪の毛を掴んで脅威の前に立たせなければならないと、早く電話を掛けてください、ご主人様、どうか、私のアドバイスを聞いてください、私は早くご主人様の綺麗な色の髪と目が見たいです」

 アメリは内海に短いキスをして、部屋を出た。アメリはどうやらキスが内海に効果的だと思っているようだ。

 大正解だ。

大正解だが。

ごめんよ。

まだ。

怖いんだ。

 机に向かって学校の課題を始める。内海は推薦入試でG大に行く予定だった。藍染のいるT大に行きたいのが本音だが、内海の学力では到底無理な話。別に興味がある専門分野があるわけじゃないし、本気に勉強しても、ただ疲れてしまうだけのような気がする。絵は好きだが、職業にする気もない。

将来はとっても漠然としていると思った。藍染は何か凄いことを企んでいた。その話を聞いて、半分以上理解できなかったが、凄い将来を企んでいることは分かった。それに比べて自分は何もない。何もないんだ。漠然としている。この課題に向き合っている理由もよく分からない。

 ああ、そうだ。

魔法の勉強をすれば。

研究をすれば。

未来は。

少しでも。

変わるのかな。

「……ああ、駄目だ」

 集中力は三十分も持たなかった。プリントの空欄に宮中某重大事件と書いて、内海は立ち上がる。

そして家を出て中央高校の環境保全団体エコロジーの部室に向かった。部室に行って百合色の本を読んで、脳ミソと心臓のメンテナンスをしようと思ったのだ。アメリの言う逃避に当たる行為には違いにないだろうが、今の内海にはどうしようもなく必要なことだった。非論理的な気持ちを大切にした結果だ。今日は土曜日。部室には誰もいないだろうから、メンテナンスに集中できる。

しかし。

 部室にはいた。

 船場ナオズミがいる。

 なんで?

 どうして?

 しかも。

 藍染と内海のリリィ・コレクションの一冊を手にして。

なんだか熱心に読んでいるではないか。

 内海は扉の横に背中を預け。

 彼の観察を始めた。

内海は船場のことが嫌いだ。顔が嫌いという訳じゃない。性格が嫌いという訳じゃない。別に何かをされたわけじゃない。

 ただ船場がナオミコの兄で。

 ナオミコは船場のことをあまり話したがらなかったけれど。

 ナオミコは船場のことを……。

「……何やってんの?」内海は低い声を作って言った。

船場は振り返って内海の姿を確認して盛大に驚く。「うわっ!」

「……何よ、そのリアクション、」内海は船場を睨んだ。「失礼じゃないかしらっ」

 変な空気が流れた。船場には厳しいことしか言わないから、彼もきっと内海のことを嫌いなのだと思う。いや、恐れているのではないだろうか。船場は百合の雑誌で顔を隠して小さく呻いている。「……えっと、そのぉ、あのぉ」

 内海は船場に歩み寄る。

 殺してやる。

 そういう種類のプレッシャを掛ける。

 内海は船場の二歩手前で立ち止まり。

 肩の力を抜いた。

「昨日、突然、その、百合に目覚めまして、」船場は震える声で言う。「それで、あの、先輩のコレクションを読ませてもらおうと、思いまして」

「ふうん、」内海は船場から視線を逸らし、いつもの席に座った。「……で、何がきっかけなの?」

「……え?」

「だから何がきっかけで百合に目覚めたかって聞いてんのよ」

内海はいつもの調子で厳しく話す。船場は一歩後退。逃げ出しそうな雰囲気。「……その、テスコを見て、テスコとパルコっていいなって、二人がいちゃいちゃしてるのって、いいなぁ、って、その、思いまして、ほら、昨日カンクロウに振られたでしょ、テスコが、それをパルコが慰めているのを見て、来たんですよ」

「あんたはテスパル派?」内海は早口で問う。表情には見えていないだろうが、少し愉快だった。「それともパルテス派?」

「……ええっと、」船場は一度大きく悩んだ目の色をして応える。「俺は、断然、パルテス派ですね」

 少し黙ったのは。

「……分かってんじゃん、」内海も船場と同じ答えだった。「座れば?」

 船場は言われるがままいつもの席にゆっくりと座る。内海と船場の間にはいつも、天野が座っているからその分微妙な距離が発生している。船場は少しずつ安堵の息を吐く。

「今はテスパル派が多勢だけど、」内海は若干船場の方に体を傾け語り始めた。どうして傾いたのか、自分でも分からない。まだ思考は漠然としている。「でも、私はテスコが好きだし、実際パルコは腹黒だと思うのよね、アニメだと優しくて気の弱いパルコしか描かれないけどでも、実際は虎視眈々とテスコの貞操を狙っているはずだわ、あんたもそう思わない?」

「はい、」船場は歯切れよく返事をした。きっと無理している。「テスパル派なんてナンセンスですよね」

「そこまでは言ってないわ、」内海はかなり愉快だった。「テスパルもアリっちゃアリよ、でも、たまにでいいな、私は」

「はい、そうですね、」船場は下手な愛想笑いをしながら言う。「テスパルも、アリっちゃ、アリですよね」

 それから内海と船場は百合談義に花を咲かせた。いや、九割九部は内海がしゃべっていたが、とにかく船場は熱心に耳を傾けていた。内海は百合について色を付けて分かりやすく説明した。リリィ・コレクションの中から初心者向けの本を船場のために選び、解説した。船場は素晴らしい百合作品に触れ、感動しているようだった。

うっすらと涙が浮かんでいた。

吃驚する。

内海は船場のことを全く知らなかったんだなと思う。

 心境は変化した。

 決して悪い方にじゃない。

 傾いた。

 少し戸惑っている。

 彼のことは嫌いだが、悪い男じゃない。正直で、素直で、ナオミコに似て恥ずかしがり屋だ。熱量もある。何かに夢中になると何かを忘れるが、それは彼の魅力的な一面だと評価できる。

 なんて。

そんなことを考えてしまった。

 男性のことを熱心に考えたことなんてなかったから内海は、少し自分自身に戸惑っていた。自分の心の細かいことが、よく分からなかった。

 そんなことを考えていたら。

「……あの、先輩、すいません、急に、その、俺の話を聞いてくれませんか? 実は俺には一歳年下の、妹がいるんですけど、」

 船場はナオミコがヒロミの彼女になりたいことについて、内海に説明した。船場の説明はまとまっていなかったが、内海は大体の事情を呑み込んでいるから分かる。そして口を開いた。「……私も昨日寝ないで考えてたんだけど」

「え?」

「あ、いや、なんでもない、」内海は眼鏡を取って、向こうを向いて目を擦りながら提案する。「……パジャマ・パーティとか、どう?」

「パジャマ・パーティ?」

「うん、その娘、ヒロミちゃんだっけ? ヒロミちゃんをあんたが呼び出してさ、それで上手いことナオミコちゃんとヒロミちゃんと二人っきりにしてさ、ムードを作ってあげたらいいんじゃない? ヒロミちゃんに告白させようっていうのはさ、無理だよ、魔法でも使わない限り無理よ、魔法を使ったってそれが解けちゃえばお終い、だったらナオちゃんが頑張らなきゃ、彼女になんてなれないよ」

「……ナオちゃん?」

「ううん、」内海は慌てて首を横に振る。「ナオミコちゃんだったわね、ああ、覚え憎い名前ね」

「……パジャマ・パーティか、」船場は下唇を噛んで考えている。そして何かを決断した目をした。「……パジャマ・パーティ、やりましょう、今夜」

「え、今夜?」

「え、何か問題でも?」

「ううん、」内海は首を小刻みに横に振って、口元を微笑ませる。少し早すぎやしないかって思った。「……べ、別に、いいんじゃない、今夜、思い立ったが吉日っていうし」

「上手くいったら報告しますよ」

「……うん、」内海はかなり複雑な心境だった。漠然としたものが明白になり、それは思っていたものとは違う現実だった時の、溜息が出る。「……そろそろ帰るね、私」

「ああ、俺も、帰ります」

 船場と内海はきちんと戸締りをして部室から出て、鍵を職員室に届けた。自転車を押して、二人で正門まで並んで歩く。部室ではあんなに饒舌だったのに、終始無言だった。

内海の家は船場の家とは真逆だ。

「じゃあ、また」内海は自転車に跨り、軽く手を上げる。

「あ、そういえば先輩はどうして部室に?」

 内海はなんて答えようか考えて、黙った。

「……あ、いや、答えたくなかったら、別に」

「大したことじゃないんだけどさ、」内海は大きく息を吐く。「会長、今、お見合い中なんだ」

「会長って、藍染先輩のことっすか?」

「うん、」内海は苦笑した。「どう、驚いた?」

「はい、いや、でも、藍染先輩だったら」

「うん、そうだよね、会長だったら、何だってある気がする、だから別に、そこまで驚いてはないんだけど、心がざわつくっていうか、少し、うん、なんとなく、部室で過ごそうと思って、それで部室に来たらあんたがいて」

「あ、すいません、」船場は後頭部を擦る。「一人になりたかったんですね」

「船場の癖に何、気障なこと言ってんだよ、」内海は強く船場の心臓付近をパンチした。船場は衝撃的な一撃を受け止められる男だ。「じゃあね、さぁーて、家に帰って課題でもするかな」

 船場と違う方向に自転車を漕いで少し行った交差点は。

 赤信号だった。

 内海は止まる。

 前方の道を眺めた。

 真っ直ぐ行くと自宅だ。

 内海はスマホをポケットから取り出して。

 彼女のナンバを押す。

 ダイヤルのボタンは。

 押さなかった。

 内海はスマホをポケットに仕舞う。

 交差点の信号は青になった。

 ペダルを踏む。

 内海は横断歩道を渡る人たちの流れに逆らって。

 ハンドルを左に傾けて。

 急いだ。


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