第四章⑤
内海は喫茶ドラゴン・ベイビーズへ向かった。ドラゴン・ベイビーズはマクドナルドから近い。歩きながら時計を確認した。ぼうっとしていただけで時間はかなり浪費されていた。時刻はすでに夜の八時を回っている。世界をリードするカルチャショップ、ゲーマーズは店仕舞いの時間だ。
ドラゴン・ベイビーズに近づくと、かすかに音楽が聞こえてきた。
さらに近づくと。
漏れている音楽が鮮明になってくる。
この可愛らしい歌声は。
ゼプテンバの歌声だ。
「あれ?」内海は首を左に傾ける。「今夜は出ないって言ってたのにな」
ドラゴン・ベイビーズの自動ドアの前に立つ。
開き。
電子のベルの音が響く。
店内を見回す。
奥の円形のステージでは、やはりゼプテンバが歌っていた。
彼女たち、コレクチブ・ロウテイションには珍しいスローテンポのバラッド。
聞いたことのない歌。彼女たちには珍しい愛の歌だ。
彼女たちを見ていたら。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
急に視界が遮られた。犬耳を頭に乗せたメイドさんが内海に向かって軽いお辞儀をして手の平を天井に向けて言う。「どうぞ、こちらへ」
メイドさんには犬耳だけじゃなく、尻尾もあった。スカートの絶妙な位置から尻尾が出ている。耳と尻尾は微細に動いていて内海は最新テクノロジィに驚いていた。案内された席はステージから対角線上の、一番遠い席だった。二人掛けの丸いテーブル席。ステージの周りはゼプテンバのファン・クラブの方々が占領していた。しかしスピーカが丁度席の真上にあるので、彼女たちの音楽はよく聞こえた。ゼプテンバの可愛い声にとっても癒される。
「ご注文はいかがなさいますかわん?」
内海はメイドさんの名札をチラッと見た。名前はアメリ。初めて見る人だった。とろんと微睡んでいるような目が可愛く、ふわふわとしたアッシュ・ブラウンの髪が印象的だった。そして何よりもキュートなのは、犬の真似をしているのだろう、舌先をずっと空気に触れさせている。内海は彼女に会えただけでもここに来てよかったと思った。とっても癒される。そういう煙が彼女から出ているようだ。彼女の顔をじっと見ながら、ここでは顔をじっと見つめるという変質的な行為が許される、内海はゼプテンバからもらったコーヒー無料券をアメリに渡した。「アイスコーヒーと、」内海はメニュを開いて眺める。「うん、あとショートケーキを下さいな」
返事がない。
顔を上げて彼女を見ると。
とろんとしていた目が僅かに大きく見開かれ。
内海の顔を。
じっと見ている。
そしてアメリは。
内海の眼鏡に手を伸ばす。
なぜ?
でも。
二度目だから。
反応出来た。アメリの手を掴んで眼鏡を触らせなかった。「……いきなり何?」
アメリは押し黙る。
そのとろんとした目からは感情が読めない。
内海が掴んだアメリの右手には力があった。
そっちに気を取られていた。
だからアメリが左手で髪を触るのを阻止できなかった。
「……な、」内海は自分の綺麗じゃない髪を触られ、嬉しいような、悲しいような、とてつもなく変な気分になった。とにかく、顔が熱い。「何をするの?」
「……可哀そう」アメリは呟く。
「……え?」
「あ、アイスコーヒーと、ショートケーキですか?」アメリは内海の髪から手を離して聞く。
「う、うん、」内海は戸惑いながらも頷く。「ええ、それで、どうして私の髪を」
触ったの?
そう聞こうとしたところでアメリはキッチンの方へ早い足取りで向かった。
アメリの尻尾は左右によく動いていた。
「ああ、」内海は鼻から息を吐く。「もぉ、なんなのよぉ」
コレクチブ・ロウテイションの曲が変わる。
激しいロックンロールへ移行。
内海は全身を傾けて聞く。
「お待たせいたしました、お嬢様」
内海はアメリの声に顔を上げる。
アメリはテーブルの上にグラスとショートケーキの乗った皿を並べる。
テーブルの上にはしかし、不思議な光景が広がっていた。「……どうしてコーヒーとケーキが二つずつあるの?」
アメリは内海の向かいに座りながら言う。「お嬢様は魔女ですよね?」
内海はアメリの冗談に笑うことが出来ない。「……ごめん、え、何、サービスなの? 不思議な気持ちにさせてくれる、そういう新しいサービスなの?」
「いいえ、」アメリは真剣な表情で首を横に振りながら、内海のコーヒーにミルクとシロップを注ぐ。「お嬢様、これから話すことは、ノン・フィクションです」
アメリはグラスの氷を遊ばせながら話し始める。アメリは犬であること。以前は魔女の使い魔をしていたこと。出身はロンドン。まだ三歳だということ。主人だったマルガリータという魔女を探しに錦景市にやって来たということ。マルガリータから分け与えてもらった魔力で人間の姿を維持しているということ。しかしもうすぐ魔力が尽きてしまって普通の犬に戻ってしまうということ。内海が魔女であるということ。お願いがあるということ。それは内海の使い魔にして欲しいということ。内海の魔力を分けて欲しいということ。内海はぼんやりと聞いていた。いつもの内海だったら、この不思議なサービスに対して積極的に嬉しい反応が出来るのだろうが、今日は色々あったから疲れてしまっていた。だから胡乱な反応しか出来ない。「いいわ、アメリ、使い魔にしてあげる、さぁ、契約のキスでもしましょうか?」
「契約にキスは不要です」アメリは僅かに顔を赤らめた。
「なぁに、ご主人様に反抗するの?」
「いいえ、」アメリは首を横に振る。「ご主人様が望むなら、……恥ずかしいけど」
「はい、じゃあ、お願い」内海は前のめりになって自分の唇を指差す。
アメリは周囲を見回して。
そして。
本当にキスした。
アメリの柔らかい唇の質感は、自分の唇に残っている。
とにかく。
吃驚だ。「……冗談だと思ったのに」
「……ご主人様のバカ、」アメリの顔は凄く真っ赤だった。「嘘なんて言いません、冗談なんて言いません、今私が話したこと、全部、ノン・フィクションなんですから」
アメリが犬であり、使い魔であり、この世界に魔法がフィクションでなく存在するという現実を内海が信じたのは、自宅に帰り、一緒にお風呂に入り、彼女の耳と尻尾を触って確かめてからだった。
「……うわぁ、マジかよ」浴室にはアメリの髪を洗う内海の低い声が響いた。
「……いい匂い、」アメリはサンセンチメンタル、通称サンセンチというメーカのシャンプに満足していた。「マジ、日本の科学力、ハンパないです」
「綺麗な髪ね、」内海はアメリの髪からシャンプを洗い流す。「艶があって、光ってる」
「あ、そうだ、」アメリは犬みたいに頭を揺らして髪の毛から水気を飛ばした。「ご主人様の髪と目の色を奪った呪いを解かなくちゃいけません」
「……呪い?」内海はアメリに背中を向けながら言う。今度はアメリに髪を洗ってもらう番だ。「……呪い、本当なの?」
「そうです、呪いです、」アメリは内海の綺麗じゃない髪をシャワーでよく濡らし、シャンプする。「ご主人様には呪いが掛けられています、呪いによって魔女にとって大事な髪と目の色を奪われてしまっています、ごれからご主人様が魔法の研究を続けていくに当たって取り除かねばいけない障害です」
呪い。
聞いて戸惑う。
いや。
考えないことはなかった。
そういう非科学的なことを思わないわけではなかった。
でも。
呪いなのなら。
急に髪の毛の色と目の色が悪くなったのが。
理解できる。「……一体誰が?」
いや。
それは、多分。
「名前までは分かりませんが、ご主人様の髪と目の色が好きだった人です、」アメリの言葉に内海の眼は熱くなった。涙はシャワーに流れる。「その人はご主人様の色が好きでした、けれど今はとても嫌いになったのです、呪いといってもその人が何かをしたわけではありません、その人がとても嫌いになったからそれが呪いになってしまったんです」
「……呪いを解くには?」内海はシャワーに消えそうな声で言う。
「簡単なことです、」アメリは優しく髪を洗ってくれる。「その人が抱く漠然とした微睡のような嫌いな気持ちを、消去してしまえばいいのです」
「簡単じゃないじゃない」
「難しいですか?」
「違う、難しいことなんてないけど、」内海は苦笑してしまう。「面倒臭いのよ、女の子だから」
「ああ、つまり犬には分からない感情ですね、マルガリータ様がよくおっしゃっていました、面倒臭い、面倒臭いと言いながら部屋を全く片付けないんです、逆に散らかすんです、私には理解できませんでした」
「あはは、」内海はなんだか愉快な気分になって声を出して笑ってしまった。「多分、違うんじゃないかな」
「違いますか?」アメリはシャンプをシャワーで流す。
「いや、」内海は目を瞑って言う。「一緒かも、全ての事象は部屋の整理整頓と関わってくることかもしれない」
「……一体何のことを言っているんですか? 犬には分からないことですか?」
「私にもよく分からないこと」




