第一章③
錦景市産業会館にはゼプテンバも、久納も初めて訪れる。錦景市駅とは地下道で繋がっていて、第二ビルから徒歩で南に十分くらいの場所にある。地下の出入り口から入り、階段を登った。正面玄関に近い受付に行き、久納は手続きをしている。正面玄関の方を見ると、イベントのための行列が出来てる。道路を挟んで向かいには、森林が広がっていた。木々の隙間から尖った屋根が見える。どうやら教会があるようだ。久納はスタッフパスを貰ってきて、それをゼプテンバの首に掛けた。
「行くよ、こっち」
厚みのある観音開きの扉を押して、二人はイベントホールに入った。三階くらいの高さまである、吹き抜けの大ホール。そこには折畳式のテーブルが整然と並んでいた。イベントに参加する各サークルの人たちは開場前に準備に追われていた。比率で言えば、女性が多い。奥に行くほど、男性の姿も見えてくるが、やはり女性が多かった。さらに奥には仮設のステージが用意され、ゼプテンバと久納が所属する錦景女子軽音部の沢村ビートルズがリハーサルをしていた。このイベントには錦景女子以外の他の軽音部も参加することになっている。役割は、BGM。スクールバンドを目的に来る参加者は少ないだろうと言うのが、部長の萱原トウカの見立てだった。
「うわぁ、スゴいねぇ、広い、」久納は通路を進みながら周囲を見回して言う。「こんなに広かったら野球が出来るね」
「うん、クッソ、広い」ゼプテンバは言いながら久納の発言に疼いていた。最近、キャッチボールしてないから、何か、投げたい。
「おーい、」ステージの方から二人に手を振っているのは、コレクチブ・ロテイションのメンバでドラムの鏑屋リホだった。彼女は陸上部のスプリンタでもある。午前中の練習を終え一足早く、開場に来ていたようだ。鏑屋はこちらに駆け寄ってくる。「二人とも、大変だよぉ」
「大変?」久納は首を傾げる。
「大げさなんだよ、」ゼプテンバは最近覚えた鏑屋に大して有効的な言葉を言う。「大げさなんだよぉ」
「私たちが最初なんだって」鏑屋は二人の前でストップして言う。
「え、嘘?」久納は背負っていたギターを床に降ろした。「でも、昨日、部長がやるって言ってたよね?」
「うん、でも、恥ずかしがり屋が絶賛発動中で、」鏑屋はステージの方に視線をやる。ステージ脇の白いテントの脇に部長の萱原がいて、同じバンドの三年生のメンバに背中をさすられている。「てなわけで、そういうことで、私たちが、最初にやれと」
「ノウ・プロブレム」ゼプテンバは歯切れよく言った。
「あ、今、」久納はゼプテンバを見て嬉しそうに言う。「問題ないって言った、そうでしょ?」
「あ、あと、それからね、ゼプテンバ」
「なんだ、コラ」
「サインが欲しいって、中央の人が」
「どこ?」
「この人」
中央の人、というのは三人が話していた通路の折畳式の机の前に鎮座していた。左隣には露出の高い大学生くらいの女性。右隣には中央の制服を着た女子。そう言えば、先ほどから、この大ホールに入ったときから、絡みつくようなダーティな視線を感じていた。なるほど、彼女の視線だったのだ。顔の造形を覆う3D眼鏡よりも無骨な瓶底眼鏡に、ヘルメットのような顔の輪郭を覆うマッシュルームヘア。同じマッシュルームでも、久納のマッシュルームとは全く違う。マッシュルームというより、中国キノコである。一瞬、性別が分からなくなるが、胸が膨らんでいるから、女子なのだと再確認できた。
「・・・・・・あ、あのっ、」その人は急に上擦った声を出し、立ち上がった。「わ、私、あ、あな、あなたたち、の、ファンで、前夜祭で一度見てから、その、衝撃を受けてしまって、ドラゴンベイビーズにも何度か、」言われてみれば彼女の異様な姿に心当たりがあった。右隣に座る彼女にも見覚えがある。彼女たちと、他に男子三人のグループがドラゴンベイビーズの円卓にいたような映像を思い出す。「ず、ずっと、話しかけようと思っていたんですけど、勇気がなくて、でも、今日は、イベントなので、」そう言って差し出されたのは一冊の薄い本。「よ、よかったら、どうぞ、お読みになって下さい」
ゼプテンバは薄い本を受け取りページをパラパラとめくった。久納と鏑屋がのぞき込む。アニメのキャラクタが猥褻なことをしている本だった。
「あらまっ」久納は声を出して、顔をピンク色にした。
「うわぁ、エロいね」鏑屋は健康的に発声する。
ゼプテンバは本を閉じて歯切れよく言う。「マーベラス」
するとその人は乙女チックに五指を組んで口元だけで微笑んだ。目も笑っていたのかもしれないが、いかんせん、表情が分からない。その人はそして、スケッチブックとペンを差し出す。「・・・・・・さ、サイン、プリーズ?」
「ノウ・プロブレム」
コレクチブ・ロウテイションの三人はスケッチブックにサインをした。ゼプテンバはサインをしながら、彼女のあることに気付く。「・・・・・・今夜はドラゴンベイビーズに行くの?」
「え、あ、えっと、」突然の質問に、彼女はしどろもどろになっている。「・・・・・・日本語、お上手ですね」
「しかしまだ、イントネーションの不自然さは拭えない、」ゼプテンバは腕を組む。「日本語は難しい」
「あの、えっと、もしかして、わざと、なんですか?」
「何が?」ゼプテンバは質問の意図を理解しているが、分かっていないふりをした。
「・・・・・・いえ、その、えっと、」彼女は困っている。「・・・・・・ああ、今夜、ドラゴンベイビーズに行くかっていう質問でしたね、ええっと、あなたたちが出演されるんだったら」
「今夜は出ない」
「ああ、そうですか、それなら今夜は、」
「行った方がいい」
「え?」
「プレゼント、」ゼプテンバは言って、コーヒー無料券を彼女に渡した。「絶対に行ってね」
「絶対に、今夜ですか?」
「絶対に今夜がいいね」ゼプテンバは彼女にウインクして、その場を後にした。
遅れて、久納と鏑屋がゼプテンバに並んで歩く。
二人は何か言いたげな目をしている。
「君たちには関係のない世界だ」ゼプテンバは片言の日本語で言って笑う。
さて。
そんなことよりも。
ライブだ。