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チョコレート・ムース・レシピ  作者: 枕木悠
第四章 アブサッド・スピーチ
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第四章①

二週間前の金曜日。

 時間は錦景市産業会館で同性愛オンリィ・イベントが開催された、あの金曜日に遡る。

 巨大な瓶底メガネとマッシュルームヘアがトレードマークの内海イオリは売れない同人誌を前に溜息を付いた。

イベントでのGLの比率はおおよそ一割といったところだろうか。一時期の百合ブームはどこへやら、女の子たちの情熱的な正義のキスを描く女子の数は確実に減っている。それを求める女子も、また男子も確実に減っている。

 一方で環境保全団体エコロジー(名はその実を現さないという典型)の女性メンバで唯一の一年生の沙汽江ミナミの同人誌はよく売れていた。沙汽江の本はBLという男の子たちの情熱的な正義のキスを描いたものだ。エコロジーの三人の男子メンバ、芹沢ホヅミ、天野ミツル、船場ナオズミをモデルにした三人の登場人物の猥褻な人間関係を描いたものだ。

隣に座る沙汽江はとても愛らしい風貌をしている。彼女の脳ミソのどこにそんな汚らわしいことを考えるセクションがあるのだろうか、と内海は悩ましい。沙汽江のことを彼女にしようという企みは春の終わりに諦めたが、どうにかしてGLの世界に引きずり込もうと考えている内海だった。「……どうしたものか」

「売れませんね、先輩の本」

「え? ああ、」内海は折り畳み式のテーブルに肘を付いて手の平に顎を乗せて遠くを見ていた。「別に、最初から期待してなかったし、沙汽江みたいに沢山刷ってないし、まあ、適正在庫よ、帰りしなに仲間たちに配って、それで、終わり」

 イベントはそろそろ佳境だった。なぜかこのイベントには錦景市の高校のロックバンドが参加していて、BGMを奏でていた。内海の敬愛する錦景女子のロックバンド、コレクチブ・ロウテイションはオープニング・アクトを飾った。内海は最前列で彼女たちを見た。三人のサインも貰ったし、内海は満足していた。

それにしても気になるのは。

コレクチブ・ロウテイションのリーダのアプリコット・ゼプテンバがくれた。

メイド喫茶ドラゴン・ベイビーズのコーヒー無料券。

今夜、内海はそこに行くべきだと言う。

その意図は謎だ。

愉快なサプライズでも用意してくれるのだろうか?

それはなぜ?

「会長ってば、まだ帰って来ませんね、」沙汽江は言う。沙汽江が言う会長は桜吹雪屋藍染テラスのことで、エコロジーの先代の会長である。彼女はT大に進学して東京で様々な女の子たちと暮らしている。夏休みの間、少しだけ実家に帰って来ていた。「ナンパに出かけてもう一時間ですよ」

「いい女の子でも見つけて、デートでもしてるんじゃない?」内海は苦笑する。

 苦笑しながら内海も可愛い女の子がいないか、辺りを見回していた。

 そのとき。

 見つけた。

 とても可愛い女の子。

 二人。

 ホールの入り口付近。

 内海の目はそちらの方に釘付けになる。

 一人は黒髪セミロング。目が大きい。愛らしい唇。魔法少女テスコのTシャツを着ていた。少しサイズが大きめなようで、鎖骨が露出していた。背負うアディダスのリュックは巨大だった。

そしてもう一人は僅かにピンクがかった髪の色。顔立ちは幼く、背は小さい。ピンクを基調とした、フリルの数が多い服を着ている。それが彼女にはよく似合っていた。

 ピンクの彼女はロックバンドが演奏するステージに向かっている。今演奏しているのは錦景女子の沢村ビートルズというバンドで、ステージ直近の鑑賞スペースは大変なことになっていた。運営スタッフは拡声器に向かって三十センチ後ろに下がるようにと叫んでいる。

 テスコのTシャツを着た彼女はBLの本が陳列されているエリアの物色を始めた。かなりのペースで本を買い込んでいる。まあ、この会場では珍しい行動じゃない。そんな彼女は通路に従って内海と沙汽江の前まで来て、内海のGL本の表紙を一瞥して、通り過ぎる。GLには興味はないようだ。しかし、少し行った先で、踵を中心に回転して、こちらに戻ってきた。

 まさか?

 内海は少し期待してしまった。

 もしかしたら可愛い彼女はGLに興味があるのかもしれない。

 いや。

そんなわけがない。

内海の本の隣には沙汽江の本が置かれている。

 船場と天野が噛みつくようなキスをして、そんな二人を芹沢が抱き締めている表紙。

「あの、見せてもらってもいいですか?」彼女は沙汽江に聞く。

「はい、どうぞ」沙汽江は素晴らしい笑顔で頷く。

 彼女は沙汽江の本を手に取り、読み始める。

 彼女は早いペースでページを捲る。

 彼女の目は輝きを増す。「……凄い」

「ありがとうございます」沙汽江はニッコリと微笑む。

「三冊下さい、」彼女は興奮気味に言う。頬は赤らんでいる。「あの、よかったら、サインも」

「ええ、もちろん」

 それから可愛い彼女は沙汽江と楽しそうに話し始めた。一分もしない内に意気投合してメールアドレスの交換をしている。錦景女子に通う一年生で、彼女も絵描きなのだという。名前は広瀬ヒロミ。内海はBL談義に花を咲かせるミナミとヒロミで百合妄想を始めた。中々悪くない。少し愉快な気分になった。

 そしてそんなとき。

 ピンクの彼女が目の前に立っていた。

「あれ、終わったの?」ヒロミが沙汽江との会話を中断して彼女に聞く。

「もう終わっちゃったみたい、」ピンクの彼女は残念そうに言う。どうやらお目当てのバンドはすでに出番を終えてしまったらしい。「もぉ、ヒロミが寝坊するから」

「ごめん、ごめんね」ヒロミは謝るが、全然反省してない様子。沙汽江との会話に戻る。

 そんなヒロミの背中をピンクの彼女は睨んでいた。近くもなく、遠くもない、妙な位置に立ってヒロミのことを睨んでいる。ヒロミと沙汽江の会話に加わることもない。彼女はBLの側の人間ではないようだ。

 ふと。

 彼女は内海の本に目を止めた。

 二秒。

 彼女は僅かに内海の本に接近して、手を伸ばした。「……見てもいいですか?」

「……ああ、ええ、」内海の反応は少し遅れた。「どうぞ」

 彼女は本を手に取り、ページを捲り始めた。

 なんとなく、内海の心臓の鼓動が早くなる。

 内海は彼女の可愛らしい顔を見ながら。

「……え?」と思う。

 ……え?

 いや、まさか。

 こんな偶然。

 あるわけがない。

 何も考えられない状態が持続した。

 ……あまりに唐突。

 でも。

 ああ。

 いろんなことが思い出される。

 封印していたこと。

 思い出すと心臓が痛くなるから。

無理矢理、奥に隠した記憶。

消したい記憶。

記憶は消えないから、だから。

思い出す。

 君の名前と。

 髪の色。

「……先輩?」ピンクの髪の彼女は言う。彼女は本の最後のページを見ている。そこには内海のもう一つの名前がある。ルッカが内海のペンネームだった。

頬がピンクなのはそのせい?

それとも。

本のせい?

彼女は顔を近づけてくる。

内海は咄嗟に身を引いた。

彼女は内海の眼鏡を奪う。

眼鏡を取られたら、もう何も見えない。

だから彼女がどんな顔をしているかなんて。

分からない。



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