第三章②
ナオミコの様子がどうもおかしい。
船場ナオズミは手付かずのままの宿題を前に、シャーペンを耳の上に乗せ一人悩んでいた。
二週間前のパジャマ・パーティは様々な不運が重なり、失敗に終わった。船場が意識を失った後、ナオミコはヒロミと同じ布団で眠ることに成功したらしい。その時点で船場がヒロミに変態しようとしたという疑いは晴れたらしいのだが、しかしナオミコはその夜、告白することもなく、そのままヒロミと眠ったのだという。勇気が出なかったのだという。船場はそんなヘタレなナオミコにお説教しようとした。すると例によって蹴られた。それでも船場はナオミコのために様々なプランを提案し続けていた。夏休みである。プールに行くなり、祭りに行くなり、キネマを見に行くなり、告白を喚起するシチュエーションは沢山転がっていた。
しかし、その提案にナオミコは乗らなかった。
パジャマ・パーティから三日くらいはダーティだった表情も、いつの間にか夏の太陽のように晴れやかに変化していた。部屋の掃除もするようになった。船場に料理のレクチャを頼んだりもした。ナオミコは演劇部の稽古をサボりがちだったのだが、その稽古にも熱心に参加しているようだった。シャンプも変わった。一日中パジャマでいることもなくなった。着る服も大人っぽいものを好むようになっていた。そしてあまり船場に鋭い言葉を言わなくなっていた。
これらの変化はなんというか、ナオミコらしくない。
いや。
面倒くさがり屋のナオミコがきちんとなるのはいいことなのだが。
夏休みを機会に考え方を変えたのかもしれないが。
でも。
あまりにも変化は急で。
徹底されている。
だから、俺は。
「兄さん?」部屋の扉がノックされる。ナオミコだ。ナオミコはいつの間にか船場のことを兄さんと呼ぶようになっていた。自ら、こうしてアドバイスを求めにノックしたりする。これは今までになかった変化だ。「今、いい?」
ふと、時計を見ると、午前十一時五十二分。「ああ、どうした?」
扉が開く。
ナオミコが入ってきた。優しい微笑みを船場に見せている。「どうかな?」
「どうかなって、」船場はラジオのボリュームを小さくする。「……何が?」
「似合う?」ナオミコの声は弾んでいた。その場でクルッと一回転した。スカートが踊る。
「うん、」船場は頷く。ナオミコはおめかししていた。やはり今日も大人っぽい感じだ。セレモニィに出席できそうな気品のある服装だ。「似合うよ、ナオミコに似合わない服はないけど、今日も一段と似合ってる、」と言いつつも、船場はもっと幼い感じの、ピンクの量が多い服装が好きだった。「買って来たの?」
「ママの服を借りたの、」ナオミコは微笑みながら言う。船場の過度な評価に気を良くしたのだと思う。「十年前のだって、でも、凄くセンスがいいよね」
「あれ、母さん、帰ってるの?」
「うん、さっきね、」ナオミコは体を僅かに斜めにして言う。「じゃあ、兄さん、これから用事があるから」
「ああ、気を付けて、……ナオミコ?」船場はナオミコを呼び止めた。
「なぁに?」ナオミコは体を向こうに向けたまま顔だけ振り返る。
「……その、」船場は椅子を半回転させてナオミコの方に体を向ける。「ヒロミとは、最近どうなんだ?」
「変らないよ、」ナオミコは笑顔を大きくして返答する。「親友のまま、二人は友達」
ナオミコのその笑顔は、少し寂しそうな、戸惑っているような、作ったようにも見える。
いや、勘違いかもしれないけれど。
船場を大いに悩ませる笑顔であることは確かだ。「……ヒロミの彼女になれなくていいの?」
「……うん、もう、いいの、」ナオミコは目を逸らしながら頷いた。「ヒロミのことはもういいんだ、兄さんには、なんだか、申し訳ないんだけど、……その、気持ち、変わっちゃったんだ、だからヒロミのことはもう」
「そうか」
「うん」
ナオミコは船場の部屋を出て行く。船場はそれ以上のことを聞きたかった。でも、ナオミコの背中が聞かないでと言っているような気がして細かい質問は躊躇われた。
本当に。
もう。
ナオミコはヒロミとの恋を諦めてしまったということなのだろうか?
いや。
でも。
ナオミコの笑顔は、まだヒロミのことを考えているようなそんな。
憂いを感じる。
船場は窓の外を見る。
ナオミコは自転車に乗り、静かな道路を走って行く。
それにしても。
ナオミコは大人びた服を着て。
一体どこに行くのだろう?
「一時に錦景市駅の恐竜前よ」
「わっ!」声に振り返るとスーツ姿の母親のマナミが、焼き飯が盛られた皿を片手にベッドの上に座っていた。「もぉ、驚かせるんじゃないよ、心臓に悪いよ」
「腕を上げたわね、」マナミは焼き飯を頬張りながら言う。「いつでも王将のシェフになれるわね」
「うん、最近、いい調味料を見つけて、鍋も変えたんだ」
「そうじゃないでしょ、ナオズミ」
「いや、焼き飯の話をしてるんだろ?」
「ナオミコは誰かと一時に錦景市駅の恐竜前で待ち合わせしているのよ、その話よ」
船場はマナミを睨むように見る。「……なんで知っているの?」
「盗み聞きしたからに決まってるでしょ?」
「……それで、何?」
「絶対彼女だわ、」マナミは皿に盛られた焼き飯を平らげた。「心当たりある?」
「いや、それはないと思うよ、クラスの友達とか、演劇部の仲間とかじゃないか?」
「いいえ、あの、しゃべり方は彼女以外に有り得ない」
「そんな、」そこで船場はある重大なことに気付く。「……母さん、ナオミコがその、なんていうか、その、アレだって知ってたの?」
「アレ?」マナミは一度眉を潜めたがすぐに気付いたようだった。「ああ、ナオミコがアブだってこと? ああ、知ってた、知ってた、だってもう、中学生くらいの頃からヒロミちゃんを見る目がモンスタみたいだったじゃないの」
「……ああ、そうなんだ、」さすが母親は違う、と船場は感心した。同時に自分の鈍感さに、呆れた。「そんな前から、へぇ」
「相手はヒロミちゃんじゃないみたいね」
「だからデートだって決まったわけじゃ」
「あんなに気合入ってるのに? マクドナルドでポテトを食べながら友達同士でおしゃべりするだけなら女の子はあんなに頑張らないわ、でも、彼女のためならあんなに頑張るの、彼女のためならなんだって出来るの、ナオズミ、これは記憶する価値のある真実よ」
船場は額に手をやり、息を吐く。「……俺には分かんないよ」
「これは母親としての見解なんだけど、」マナミは船場の目をじっと見つめ、人差し指を立てた。「ナオミコはきっと気持ちを隠してる、本当はヒロミちゃんのことが好きなんだけど、その気持ちを隠して他の誰かと付き合っている、その可能性が考えられる、シスコンでナオミコが大好きなナオズミも、そう思うでしょ?」
「シスコンじゃないって」
「ママに隠すな、全部分かってるんだから、あんたたちを産み、乳を与え育てたのは紛れもなくこの私なんだから」
「……別にいいんじゃないか?」船場は椅子の上であぐらを掻く。「彼女と待ち合わせしているとして、ナオミコが好きで、その人のことが好きで、付き合っているんなら、それで、何か問題あるの?」
「逃げるの?」
「なんだよ、いきなり? いいじゃん、ナオミコ、毎日楽しそうだし、ああ、俺も確かにそうな気してたよ、ヒロミ以外に誰か、好きな娘が出来たんだって思ってたよ、それで彼女になれたかもしれない、いいじゃん、それで、俺たちがあーだこーだ言うことじゃないっしょ?」
マナミはじっと船場を睨んでいた。
そして。
俯いて。
急に。
笑い出す。「あははっ、あははははっ」
「……なんだよ?」
「大きくなったな、」マナミは急に船場の頭を撫でた。「ナオズミ」
「なんだよ、きめぇよ!」船場は立ち上がり、マナミから距離を置く。「……これ以上近づくんじゃねぇぞ」
「あはははっ、」またマナミは高い声で笑う。「ママに優しくされるのは嫌? もう四十だけど、女の子には綺麗ですね、綺麗ですねって言われるんだけどなぁ、ママ、ショックだなぁ」
「いや、綺麗とかそういう問題じゃなくて、」船場は嫌な汗を搔いていた。「……徹夜でお疲れなんですか?」
「うん、連日徹夜で、でも、今日でプロジェクトは一区切りの予定、いや、まだ全ては始まったばかりなんだけど、うん、ナオズミ、今ね、ママ、結構すげぇことしてんだよ、」マナミは両腕を軽く広げた。「世界の未来と平和を守る、凄いことしてるんだぁ」
「化粧品会社じゃなかったでしたっけ?」
「化粧品会社でも、世界の未来と平和を守るために出来ることがあるの」
「……はぁ、」船場は意味不明だったが頷く。「なるほど」
「だからアンタも、自分の限界を考えちゃいけない、ロリコンで、実の妹を愛しているシスコンで、オタクでも、出来ることがある、限界を考えるな、ナオズミ」
「……うん、分かった、分かったから、」船場は無理に首を縦に振った。実際は何も分かっていなかったが、とにかく頷いた。「少し離れてもらえませんか?」
マナミは船場にキス出来るくらい顔を近づけていた。ナオミコには遺伝されなかった巨大なものが船場の体に当たっている。変な気分にはならないが、とてつもなく嫌な気分だった。
「本当に分かった?」マナミは距離をそのままに優しく同意を求めてくる。
「う、うん」船場は頷く。
「そう、分かったんなら、」マナミは船場から体を離す。そして大きく息を吸って言う。「さっさとナオミコのところに行って来い!」
「……え?」
「あなたはナオミコのお兄ちゃんでしょ! ナオミコを正面から見つめなさい! 見つめて、見つめて、殴られるまで見つめて続けて、ナオミコを正しい方に導きなさい! それは無理なことじゃない、不可能なことじゃない、限界を考えるな、ナオズミ、ナオズミなら出来る! なんてたって、」マナミは腕を組み仁王立ちで一気に吐き出した。「ナオズミはナオミコのお兄ちゃんなんだからっ!」
そして尻を叩かれた。
息子の尻を叩いてマナミは豪快に笑っている。
船場の気持ちは、変わった。「……母さん、なんか、……ありがとな」
「よし!」マナミは満足げに頷く。
船場は魔法で部屋の家電の電源を全て切った。
そして階段を駆け下り。
リビングで寝息を立てていたナオトを抱き上げ。
外に出る。
とても暑い。
汗が瞬間的に吹き出る。
船場は自転車の籠にナオトを放り込むとペダルを力強く踏み込んだ。




