第三章①
夏は通り過ぎて、八月三十日。
まだあと一日残っているけれど、十六年の短い人生の中で一番、短い夏休みだったと思う。様々なことがあった。様々なことが刺激的だった。刺激的な日々だった。日本はアプリコット・ゼプテンバにとって刺激的だった。好きなアニメを見て、メイド服を着てロックンロールを奏でる。周囲は目まぐるしい速度で回転していった。
そして今日は、金曜日。
金曜日のゼプテンバはいつもよりも浮かれている。
それは金曜日の夜の九時のメイド喫茶ドラゴン・ベイビーズに、彼がいるからだ。
この気持ちは恋なのだろうか?
よく分からない。
好きだと思う。
それ以上でもそれ以下でもない。
好きだから。
ただ好きだから。
話したこともないし、手を握ったこともないし、キスしたこともないけれど。
彼は私の歌を聞きに来てくれる。
そんな彼が好きだから。
好きなものは好き、それだけ。
ゼプテンバは彼に向けての想いを込めた、歌をずっと考えている。
今日は夏休みの最後の金曜日の九時のステージ。
だから。
歌をあの人に聞かせたい。
ゼプテンバは企んでいた。
「彼女は発電機」を歌い終わったら。
彼のためだけに歌おう。
ああ、でも、ピッタリな歌詞がなかなか、浮かばない。
ゼプテンバは浴槽に浮かんだ泡を両手で掬って。
それに息を吹きかけた。
綺麗なシャボンが浴室を舞う。
まるで自分の気持ちのように、煌めいて弾ける。
「ちょ、ゼプテンバ、」久納ユリカのハスキィ・ボイスが浴室に反響する。「ロマンチックに泡を飛ばしてないで、ちゃんと掃除してよ! ロンドン出身だからって、素敵な金髪だからって、お人形みたいに可愛いからって、サボっちゃ駄目だよ!」
今日は一年E組のメンバ、総勢三十人で寮のお風呂場の清掃をする日だった。皆、Tシャツ、短パン姿で、おのおの掃除用具を持ち、どこかを擦っている。
ゼプテンバは掃除が苦手だ。ゼプテンバはその容姿通り貴族階級出身。だから掃除をするという経験は皆無だった。箒とデッキブラシは飛ぶ道具という認識程度しかない。「……やってらんねぇぜ」
ゼプテンバの麗らかな音質の悪い言葉が浴室に響く。
「ちょ、わがままは駄目だよ、」久納は慌てている。なぜなら久納はクラスではゼプテンバのお目付け役だから。ゼプテンバが悪いことをしたら、即ち久納のせいなのだ。部屋が文明崩壊している久納が今日は掃除熱心なのは、つまり、そういうことなのだ。「ゼプテンバ、わがままは駄目、自己主張は確かに大事だけど、今のゼプテンバはわがままだよっ、だから、早く皆に謝って」
「どうして私が、」ゼプテンバは両手を広げ、片言の日本語で声を張る。「貴族階級出身の私が、なぜ、掃除をせねばいけない?」
その声に、一年E組を指揮する委員長、ポニーテールの野宮マキが反応する。「ゼプテンバさん、それは聞き捨てなりませんね、今、なんとおっしゃいました、掃除なんてやってられんとおっしゃったんですか?」
野宮は腕を組んでタイルの上を歩いてゼプテンバに近づいてくる。
ゼプテンバは野宮の方を睨み、歩み寄った。
浴槽の中央で、野宮とゼプテンバは睨み合う。
「掃除はせん」ゼプテンバは江戸の武士を意識した。
「それは認可できませんね、皆、真面目に掃除をしているんです、あなただけ掃除をしないことは許しません、私が許しても神様が許しませんわ」
「どこの神様だ?」
「お風呂の神様です」野宮は生真面目に答える。
その返答に周囲がクスクスと笑いを漏らしている。
久納も口元を押さえている。
ゼプテンバも必死で笑いを噛み殺しながら、表情の真剣さを維持。「・・・・・・野宮がじゃんけんで負けねば、皆、掃除をせずに済んだのだ、この中には私のように寮住まいでないものも何人かいる、どうして利用しない施設の清掃などやらねばならんのだ?」
「わ、私がじゃんけんで負けたから、」野宮は罰の悪そうな顔で言う。「い、いや、でも、それはルールだから」
「そうだ、すべては野宮のせいだ、野宮がじゃんけんで勝っていれば、皆今頃、このまたとない時間にしか出来ないことが出来たのではないか? この掃除に価値がないとは言わないけれどもっと価値があることが皆にはあったかもしれないのだ、野宮はその可能性を奪った、それなのに野宮は皆に一切の謝罪もしない、謝罪もしなければ少し高いところからあそこが汚い、整理が甘いとデッキブラシを振り回し指示を飛ばすばかり、一度もスポンジを握ってさえいないじゃないか、泡に触っていないじゃないか、硬い場所を擦っていないじゃないか」
「そ、それは、それは、」野宮は口ごもる。顔がピンク色だ。「・・・・・・だ、だって謝る機会がなかった、だけ、だもん」
口をすぼめる野宮は少し可愛かった。
「とにかく、掃除なんてやってられん」
ゼプテンバは横柄な態度で野宮の横を通り過ぎて、浴室の出入り口に向かおうとする。
「あ、だから駄目ですってば!」
野宮はゼプテンバの腕を掴んだ。
ゼプテンバはその引き寄せられる力に抵抗せず。
くるっと回って野宮に急接近した。
野宮はゼプテンバの顔が近づいて、面食らったような顔をする。「な、なに?」
ゼプテンバは微笑んで。
「♪チャッチャラッチャッチャチャッチャ♪」
イントロを口ずさむ。
「♪チャッチャラッチャッチャチャッチャ♪」
久納もイントロを口ずさむ。
鏑屋リホも洗面器の裏をドラムにして手の平で叩いてリズムを刻み始める。
ゼプテンバは野宮のデッキブラシを奪って、それをギターに見立て歌い始めた。
踊れるダンス・ナンバ。コレクチブ・ロウテイション、「洗濯工場」。
クラスメイトは掃除用具を振り回し、歌い始める。
泡が飛ぶ。
弾け飛ぶ。
浴槽はシャボンの海。
最初は顔を真っ赤にして叫んでいた野宮も。
最終的に、透き通るボイスで歌っていた。
そしてフィニッシュ。
野宮はゼプテンバの腕の中で踊らされていた。
「楽しかった?」ゼプテンバは聞く。
「……バカ、」野宮の顔はまだ真っ赤だ。「……楽しくないことはなかった、けど、」
そこで。
「こらぁ!」体育教師の日高が怒鳴り込んできた。「ここは洗濯工場か!?」




