プロローグ
季節は夏。
夏休み。
太陽が天高く上る時刻。
場所はG県立中央高校のグラウンドの東側に建つ、六階建ての部室塔。その六階の部室には文化部が集合している。工学部、コンピュータ研究会、プラモデル同好会など、比較的マイナな趣向の彼らたちは冷房の効いた狭いながらも不便のない部屋で、それぞれの青春を謳歌しているのだった。
二年の船場ナオズミも、その一人に数えることが出来るだろう。船場が所属するのはエコロジーと銘打ったボランティア同好会だった。エコロジーの部室は温泉大好き倶楽部の部室の隣の角部屋である。温泉大好き倶楽部の部室から年中卵が腐ったような匂いがするためエコロジーの部室では一年中空気清浄機が稼働している。先代の会長が置いていってくれた素晴らしい遺産である。船場は、それを心地の良いノイズだと評価している。冷房も一緒になって心地の良いノイズを奏でている。科学の進化は凄い。窓際に供えられた薄型テレビに映し出されている北極の氷が解けて海に落ちて水飛沫を上げている解像度の高い映像を見ながら、船場はしぶしぶと思うのだった。そして優雅に、アイスココアの入ったカップに手を伸ばす。エコロジーの唯一の一年生、沙汽江ミナミが入れてくれたアイスココアである。とても上手い。
船場は部室の入り口に近いところに座る沙汽江をチラリと見た。彼女は熱心にイラストを描いていた。その真面目な表情に僅かに笑みが浮かんでいた。船場はまたかと首を小さく振る。沙汽江は一見すると優等生である。髪は黒く、しっとりとしている。ふんわりとした、柔軟剤のような空気の持ち主である。事実、沙汽江は頭がいい。コツコツと努力をするタイプなので成績は常に最上位。全国模試でも常に上位に名前が載るというのだから優等生なのには違いないだろう。しかし、その優等生な顔に時折現れる微笑が、沙汽江の本性である。沙汽江は船場の視線に気付いたのか、顔を上げた。目が合う。するとニンマリと、ニコッというさわやかなものでは決してないのだ、沙汽江はニンマリと微笑んで、熱心に描いていた、そのイラストを船場に向かって見せた。
そのイラストを凝視し続けるのは船場にとって、とても不愉快なことであり、とても気持ち悪いものだった。
「沙汽江、」船場はすぐに目を逸らした。「……てめぇ、それ、すぐに捨てろ!」
「えー、」沙汽江は楽しそうに不服の主張をする。「えへへへっ、結構いい出来なんですよねぇ、保存しないともったいないですよ、スキャナして、デジタル化して、色を付けて、ネットに公開して、仲間たちからの反応を楽しんでから、それから、むふう」
「……捨てるのか?」
「ラミネート加工します!」
「ふざけるな!」船場は思わずテーブルを叩いて怒鳴ってしまった。
しかし、沙汽江がきゃっきゃと楽しそうなのは変わらない。船場の迫力が足りないのだ。船場は隣で雑誌を広げている同学年でクラスメイトの天野ミツルに目をやる。天野も船場と同じ気持ちになるべき立場だからだ。「あ、おい、天野もなんか言ってやれよ」
「……んあ?」天野は遅れて反応した。反応が鈍かったのは、天野がヘッドホンをして、サイケなメロディを聞いていたからだ。米軍のヘリのパイロットが装着するようなヘッドホンである。天野の髪は夏休みだけ自然なゴールドに変化していた。だからといって後ろから見てアメリカ人には見えない。背が低くはないが、高くはないのだ。「……なんだよ、なぁに?」
「沙汽江がまた、悪いことをしてんだよ」船場は沙汽江の方を指差し言った。
天野はかったるそうに沙汽江の方に視線をやってすぐに目を逸らす。「……あー、嫌なもの見た」
「嫌なものって、そんなぁ、」沙汽江は不敵に微笑んでイラストを中空で躍らせる。とても楽しそうだ。「素敵じゃないですかぁ、ねぇー、内海先輩」
沙汽江は隣で同じサイズのスケッチブックに向かってイラストを描いていた、三年の内海イオリに向かって体を傾けた。彼女の特徴はなんといっても毒キノコのような髪型と古い時代の漫画でよく見る巨大な瓶底眼鏡である。その二つに素顔は隠されている。船場は一度も彼女の素顔を一度も確認したことはなかった。この学校で最もダーティな雰囲気の持ち主はUFO倶楽部の加藤でも、心霊研究会の埴谷でも、文芸部の斎宮でもなかった。エコロジーの内海がそうである。船場は彼女が苦手だ。素顔を見たいだなんて思ったのは一度もなかった。
「内海先輩、見てくださいよぉ」沙汽江は内海の瓶底眼鏡にラミネート加工が予定されているイラスト近づけた。
「ひっ、……すぐにしまいなさい、ミナミ、」内海は小さく悲鳴を上げて素早く身を引いた。それから額を手で押さえ始めた。必死に頭痛に耐えているポーズだ。「お願い、ミナミ、私にそんなもの見せないで、船場と天野が裸で、気持ち悪いことをしている、変なものを見せないで、お願いだから、ただでさえ、……何もしてなくても、二人は気持ち悪いのに」
内海が苦しみを堪えながら漏らすように、沙汽江のイラストはとても気持ちの悪いものだった。沙汽江はその筋では将来有望な作家さんなのである。彼女の中身はドロドロに腐っているのだ。
「ああ、気持ち悪い!」内海は沙汽江のイラストから逃げながら叫んだ。
『え、ちょっとぉ!』その叫びに船場と天野は反応した。『そこまで気持ち悪くないですよぉ!』
内海はそれを完全に無視した。
「今回の二人は十二歳です」沙汽江は偉そうに胸を張った。沙汽江に胸はない。
「……だから、」内海の声音はひくひくしている。「……なに?」
「……え、いや、」遅ればせながら沙汽江は内海のダークなオーラに気付いたようだった。しかし気圧されながらも、楽しさのために最後まで頑張ってしまうのが沙汽江のいいところでも悪いところでもある。「……その、内海先輩はロリコンなんですよね、だったら、普通のは、駄目でも、ショタだったら、大丈夫かなって、私、内海先輩にもBLの良さを分かって欲しいから、絶対に分かってくれると思うんですよね、天野先輩の誘い受けなんて最高じゃないですか、仲間たちは、すげぇ、分かってくれましたよ、だから、内海先輩だって、きっ……………………あ、やっぱり駄目、……でした?」
「ろ、ろ、ろ、」
「……ろ?」
「ロリとショタを一緒にしないで!」
内海は立ち上がりヒステリックに声を上げた。部室塔全体が揺れたのではないかと錯覚するほどだった。沙汽江は涙目になった。船場と天野は助けが必要な一年生を見捨てて部屋の隅に移動した。
「小さくなったからって、男は男じゃない、男はね、小さい時から欲望をむき出しにして女の子に襲い掛かろうとしているのよ、そう、襲い掛かろうとしているのよ、男は女の敵よ、背が小さくたって、顔が女の子みたいに可愛くても一緒よ、ショタだって女の敵なのよ!」
内海は一気に言ってから、深呼吸をして呼吸を整えた。船場と天野はポカンと口を開けたままの姿勢で固まっている。沙汽江は涙目だけれども、でも、大好きなものを完全に否定されて、反抗的な目になっている。「……そ、そこまで言わなくたっていいじゃないですかぁ、私は内海先輩にも好きになって欲しいから!」
「余計なお世話よ、」内海は沙汽江をキャスタ付の椅子に座らせたまま壁際に追い詰めた。壁一面には先代の会長と内海がコレクションした、百合に関する本が敷き詰められていた。無論、植物の方ではない。沙汽江は目を見開いて震えている。「ねぇ、ミナミ、前からミナミに言おうと思ってたんだ、でも、可哀そうかなって思って言わないでいたのよ、気付くのを待っていたのかも、でも、もう待てない、その気持ち悪い絵を見て、ああ、コレは止めなきゃいけないって思った、ミナミは最高速度で悪い方角に進んでいるのよ、分かる? 私はそんな気持ち悪いものを描くミナミを放っておくなんて出来ない、きっと後悔する、だから、」
「……だ、だから?」声はか細く震えていた。船場はエロいと思った。
「だから、」内海は書棚から一冊の百合色の本を抜いた。『愛し愛され恋をする』という、ピンとこない題名の本だ。しかし、表紙は分かりやすい。女の子同士が互いに噛みつくような激しいキスをしているイラストだった。内海はそれを沙汽江にかざした。沙汽江は「いやっ」と悲鳴を上げた。内海は沙汽江が逃げられないように細い足を上手いこと使ってホールドしていた。「だから、南、こっち側にいらっしゃい、男同士なんて野蛮よ、前近代的よ、女同士、女同士がいいのよ」
そう囁きながら、内海は沙汽江の顎を親指と人差し指で固定した。そして唇を沙汽江に近づけていく。
「き、キスはらめぇ!」沙汽江は必死に抵抗する。「た、助けて、船場先輩、天野先輩!」
「よ、よし!」船場と天野は顔を見合わせてワイシャツの袖を捲った。
しかし、二人は動けなかった。内海のプレッシャーを感じたのだ。内海は顔だけこちらを向けている。表情は毒キノコヘアと瓶底眼鏡によって分からない。しかし、確実に、抵抗したら、何か悪いことが起こる気がした。二人は汗を搔いて、そして、顔を見合わせ、事態をただ見守ることを選択した。沙汽江のファーストキスで終わるのなら、それがベストだと判断したのだった。船場は引き下がって、コクッと沙汽江に向かって頷いた。
「……て、おい、助けろよ、男だろ、こらぁ!」
沙汽江は狂ったように暴れた。船場と天野は椅子に座って争いに巻き込まれないように雑誌に目を落とした。来季から始まる魔法少女の特集記事である。主人公のテスコがとても小さくて可愛い。船場と天野はロリコンである。
「ちょっと、静かになさい」内海は姉が妹にそうするように沙汽江を叱る。
「いいいいいいいいいいいいいいいやあああああああああああああ!」沙汽江はまだ叫ぶ。
「気持ちのいいことだから」
「そんなわけないよぉ!」
「手のかかる子も、嫌いじゃないわ」
「私は嫌ですぅ!」
「少し黙ってて、その間に世界が変わるから」
「世界はこのままで素晴らしいですぅ!」
「可愛そうな南、暗く汚れた灰色の世界しか知らないのね、大丈夫よ、私が洗濯してあげる、その灰色の世界を」
「洗わなくたっていいですぅ!」
「いい子だから!」
内海は語気強く言って、沙汽江を黙らせた。そして両頬を両手で挟んで唇を近づける。
真っ赤な二人の唇が。
スローモーションで。
徐々に。
近づく。
船場と天野はドキドキしながら。
食い入るように見つめていた。
しかし。
「……何やってんの」
部室の扉が開いた。会長の芹沢ホヅミの登場である。彼は黒縁のオシャレな眼鏡が似合うイケメンである。彼は内海の暗黒なオーラに屈することなく、手に持っていた膨らんだクリアファイルで内海の頭を叩いた。芹沢は夏期講習に出席していたのだ。
「あうっ」
内海の口から濁った声が漏れた。内海は頭を触りながら、芹沢を見た。隙が出来た。沙汽江は上手く逃げ出した。そして芹沢の後ろに隠れて、内海に向かって赤目と舌を出して言う。「べぇえ!」
「全く何やってんの、沙汽江嫌がってるよ、……っていうか、内海はロリコンじゃなかったっけ?」
そこで沈黙があった。
ダーティなすでに雰囲気はなくなっていたが。
船場が感じたのは、変な空気。
内海は大きく溜息を吐いてから伸びをした。「……冗談だって、本気にしないでよ、全く」
船場は嘘だと思った。内海は本気で沙汽江を狩ろうとしていたのだ。
「……え? 会長、私、よく幼い顔立ちだって言われるんですけど」沙汽江は芹沢に向かって発言した。その発言の意図は船場にはよく分からない。
「え、そう?」芹沢は顎に手を当てて沙汽江を見て考えている。「……うーん、どうかな? 僕の基準はほら、結局、声だから、声、何か言ってみて」
沙汽江は照れながらも幼い声を作って可愛い子ぶった。なんとなく必死だった。「……私、か、会長のことが、だ、大好き!」
船場はいきなり何を言うんだと思った。思わず転倒しそうだった。
「うーん、違うね」突然の愛の告白に照れることもなく、芹沢は即座に首を横に振った。
「え、そんなぁ、うふふぅ」沙汽江は芹沢の二の腕に触ったりしている。そして楽しそうだった。
そんな二人の様子を内海はつまらなそうに一瞥してから内海はテーブルの上のマーブルチョコレートを口に入れて発言する。「芹沢ぁ、夏期講習、どうだった?」
「ほれ、内海の分の課題も、ちゃんと頂いてきたぞ、」芹沢は内海の対面に座ってクリアファイルから数枚のプリントを差出し、船場と天野の方を見た。「……そういえば、二人とも、さっきから壁際で寄り添って何してるんだ?」
「いちゃいちゃしてましたよ、ずっと、」すっかり元気を取り戻した沙汽江が発言する。彼女は芹沢の秘書のように隣にちょこんと座った。「私の妄想よりも、この夏よりも、熱く激しく、美しく」
「へぇ、そうなのか」芹沢は涼しく笑った。
『してねぇよ!』声が重なって、船場は少し恥ずかしくなった。そんなことは微塵もないのに可能性を考えてしまう、なんてことはない。げんなりと溜息を吐いて二人はテーブルに付く。
西側に内海と天野と船場、東側に沙汽江と芹沢。
いつものポジションに落ち着いた。この五人が環境保全団体エコロジーの現メンバである。
「ありがとう、芹沢、さすが、」内海は芹沢からもらったプリントを確認しながら本日一番のテンションの高い声を出した。テンションが高いといってもきっとそれが普通の女の子の普通のトーンである。「提出はいつまで?」
「来週の金曜」
「了解、」内海は舌で唇を舐めて、それを黒光りする鞄に仕舞った。そして壁に掛けられたアナログ時計を確認して席を立った。「じゃあ、私たちは、これで」
「……え、もう行くんですか?」沙汽江が聞く。
「行くってどこに?」天野が内海に聞く。
「イベントがあるの、」内海はすでに扉の前に立っている。「会長が迎えに来てくれるって行ったでしょ、さっきメールが来て、もうすぐ着くって」
会長というのは芹沢でなく、先代の会長を指している。
「ああ、急がなきゃ」沙汽江はスケッチブックと筆箱を大きなリュックに慌てて押し込んでいる。
「なんのイベントなんですか?」船場は聞いた。
「船場、てめぇは黙ってろ」内海は船場のことが嫌いなのである。船場はいつも理不尽だ。もう慣れてしまったが。
「行きましょう」
沙汽江はリュックを担いで言った。部室から二人の女子が出て行った。残されたのは男子三人。
「一体、何なんでしょうね、」天野が言う。「GL厨とBL厨の二人が一緒に楽しめるイベントって」
「うーん、」芹沢は少し悩んでから言う。「同性愛イベントとか?」
「いやあ、そんな露骨なイベントないでしょう、」天野は笑う。が、しかし考えてしまったようだ。「……ないでしょう、あったらもう、なんていうか、複雑ですよ、複雑」
「そうだよなぁ、ないよなぁ、」芹沢は遠い目をしている。「……あっ、そんなことより、アニメを見ようよ、せっかく女子がいないんだ、女子がいないんだから、エロいのを見ようよ」
芹沢は夏期講習の疲れか興奮している。本能がアニメを欲しているのだ。涼しい顔をして欲望に忠実なところが芹沢の魅力である。
「何がいいですか?」
船場は立ち上がってDVDプレイヤの前に立つ。その下の引き出しを開けるときちんと整理されたディスクが敷き詰められている。全て萌えアニメである。ロボット、シリアス、サスペンス系はこの下の棚にある。
「ロリコンの船場に任せるよ」
「俺はロリコンじゃねぇっすよ!」必死で嘘を言いながら、ディスクを選ぶ。そしてピンときたものを抜き取る。「会長、コレなんて、どうですか?」
会長は神妙に頷いた。「いいね、悪くない」
天野は部屋の照明を落とした。「そろそろもっと大画面のテレビに買い替えたいっすよねぇ」
船場はリモコンを操作した。
北極の氷が解けだしている映像は民放で放送されているドキュメンタリだった。船場はしばらくその映像を見ていたが、よく分からなかった。危機感を煽っているようだが、しかし、何が危ないのかが分からない。
その映像はアニメに変わった。
アニメはとても分かりやすい。
縦横無尽に動き回る小さな女の子たちはとても真っ直ぐで分かりやすい。
魅力的だ。
そしてそのアニメのヒロインは。
船場の妹にどことなく似ている。
魅了されないわけがない。
船場と天野と芹沢の三人は激しいディスカッションをしながら、男子だけの空間を楽しんだ。




