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校舎裏と二枚のプリントととある命題

作者: 中谷 仁

 

 恋愛感情と友情の境目って、どこだ。僕は必死に頭を働かせてさっき投げかけられた命題を考えていた。教室で先生の言うことを聞き流して五十分座っているだけのことを避けているというのに、こんなところでなんの役にも立たないことを本気で考えているんだから我ながらよくわからない。こんなところ、というのは校舎裏のフェンスと壁に挟まれた数メートルの空間の、名前も知らない樹の下のことだ。日の当たらないせいで地面はいつでも湿っぽくて黒い。制服のズボンが汚れないように、ここへ来るときにはいつも社会のプリントを二枚、折りたたんでポケットに忍ばせてこなければいけなかった。本当にこんなところ、自分の意思で場所を選ぶのなら絶対に来たりしない。それなのに僕がここをそれなりに頻繁に訪れているのは、ひとえに相川さんがここにいるからだった。一度くらいは晴れた日の屋上でサボってみたいと思うのだけれど、漫画の中の私立高じゃあるまいし屋上は閉鎖されていて行ったことさえない。

 文芸部の先輩である相川さんとは、なぜか一緒に過ごすことが多かった。入部当初から何かと構ってもらって、いまはなんとなくどちらかが相手のいる場所にやってきてはぼんやりするという感じだ。部内でもセットで扱われることが多い。部長曰く僕がいると相川さんが捕まりやすいから便利、なのだそうだ。(相川さんは自由な人で活動にもめったに顔を出さない。)

 一応先輩なはずなのだけれど相川さんと過ごす時間を一言で表すなら「楽」で、それは一般的な先輩と後輩の関係とは少し違っていた。かといって友達というわけでも当然なく、なんだか言葉にならない微妙な関係性だというのがどちらかといえば正しい。

 相川さんと過ごす時間はたいてい、二人とも黙っていてそれぞれが別々のことをしているということが多かった。それで何か収穫があるのかと言われればないのだけれど、僕自身はそれが居心地が好いし、たぶん相川さんもそうなんだろう。

 もちろん、ずっと黙っているわけではなく、言葉を交わすこともある。それから、相川さんが変な議論の種をどこからともなく持ち出してきて、それをふたりで考えることも。だいたいがとりとめのない会話といってしまえばそれ以上のことではないような内容なのだけれど、妙に理屈っぽいそのやり取りが僕は嫌いじゃなかった。そして今日相川さんが持ち出してきたのが、「恋愛感情と友情の境目とはどこか」だったわけだ。

 この世の中には同性に恋愛感情を抱く人もいるし、異性間の友情というものも僕は信じているから「相手が異性かどうか」というのは相応しくないし、だとしたら分かり易いのは性欲の有無とかだろうか。そう言ってみると「恋愛感情に性的欲求が伴わない人もいる」とすげない答えが返ってきた。ちなみに恋愛感情自体を持っていない人もこの世の中にはいるらしい。僕の知らない世界というのはいくらでもあるものだ。というか、そんなことを知っている相川さんが凄い。

 僕の思考は出発点に戻ってきてしまった。

 しかたがないので、自分の経験に照らし合わせて考えることにする。残念ながら恋をしたことがあるか、と問われれば頷くのに多少躊躇ってしまうくらいの経験だけれど。恋愛感情(だと自分が思っているもの)と、友情に違いはあるか。まずは根本的なところから考えてみる。答えはイエスだ。どきどきしたり、きゅんとしたり、する。(われながらぞっとしない表現だけれどそこは大目に見てもらいたい。)

 じゃあそれが友情とどう違うか、恋愛感情の定義とは何か、と問われると、途端に答えはあいまいになった。というか、どきどきしたりきゅんとしたりする事実こそが恋愛感情で、友情との違いなんじゃないのか、と僕は思う。それくらいの答えしか出せなかった。

 そんなことを言っても相川さんに突っ込まれるのは目に見えているし、何より恥ずかしいのでほかにもっと相応しい答えはないのかと考える。かれこれ十分弱、僕たちは黙り込んでいた。

「……じゃあ、相川さんはどう思うんですか。」

 どれだけ考えても答えが出る気がしなかったので、これだけ僕を悩ませている犯人に話を振ってみる。相川さんは黙って近くに生えていた雑草を二、三本引っこ抜いた後、ようやく口を開いた。

「……さあ?」

 この人は何を言っているんだろう。あまりのことに言葉が出なかった。これだけ長いこと人に悩ませておいて、その元凶が「さあ」だなんて。ひどいこともあったものだ。

 今までこういう議論をするような時、相川さんは必ず自分なりの答えを用意していた。しかもそれは僕が出す答えよりもずっと冴えていて説得力があって、だから僕は相川さんがほかのところでどんなに適当でも信用していたのだと思う。それなのに。今回は、人に考えるだけ考えさせておいて、自分はなんの答えも出していないだなんて。自分が出した答えを口にしていないのを棚に上げて、僕は怒っていた。それに、少なからず戸惑っても。こんなことは初めてだったからだ。議論をする気がないのなら、相川さんが何をしたいのかよくわからない。

「なんですか、それは。」

 呆れた僕に、相川さんはのんびりと肩を竦めてみせた。

「考えたけど、わからん。」

「……はあ。」

 何かと頭をひねったり言葉をこねまわしたりしたがる文芸部の中でも一番の哲学者である相川さんの頭を以ってしても、恋愛感情と友情の線引き、定義づけというのは難しいらしい。簡単そうに思えて難しいことというのはあるものだ。

 隣で何やら相川さんがぶつぶつ呟いている。哲学者の名前が聞こえてくるから、どうやら有名な哲学者たちが恋愛感情をどのように捉えていたかについて考え直しているらしい。真面目なんだか不真面目なんだか、本当によくわからない人だ。

 今日は天気がいい。少しはここの土も乾いたらいいのに。僕がプリントを持ってこないと相川さんのズボンは泥だらけになってしまう。まあ今のところ、それで困ってはないんだけど。

 手持無沙汰になって手近なところにある雑草を抜きつつ、僕は相川さんの呟きに耳を傾けることにした。やれやれ、今日も平和だ。



 

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