第一夜(六)
作戦は成功! しかし――
四人目
「ばかっ!」
雷童は二人から一斉に怒られていた。
空は夜の顔に化け、朱里のいたるところで灯りがつけられていた。ぼんやりと浮かぶ月に雲が淡く照らされている。その夜空を分断するように大きな影がそびえ立っていた。
それは不死鳥の大樹。こんな間近で見ると、厳かな神聖さを感じる。
そんな大樹の下で、雷童は決まり悪そうに頭をかいていた。
「ちゃんと聞いてんの! なにが『いいこと』よ。一歩でも間違ってたら火事になってたじゃない!」
「っとに、どこが『慎重』なんだよ! ちゃんと考えてから行動しろっていつも言ってるだろ!」
その二人の言葉に異議を唱えることはできない。雷童は黙って耳だけを傾けていた。
「とにかく、あんたのその変な力のことはあとで聞かせてもらうことにして」
氷雨が腰に手をあてながら、辺りを見渡した。その様子を見て、雷童はようやく話が終わったと思い、小さく息を吐いた。
「あのな、ため息をつきたいのはこっちだよ」
風林児が腕を組んだまま大きくため息をついた。
「はー、悪ぃ悪ぃ。今度から気をつけます」
「全然誠意ってもんが伝わってこないんだけど」
「ま、とりあえず飯食おうぜ。腹が減っては――とか言うしさ」
「おまえが言うな!」
「少しは反省してよね!」
そう言うと、風林児と氷雨は先に歩き出した。
大衆食堂が軒を連ねているのか、いろいろな匂いが混ざり合って辺りを漂っていた。鼻から入るどの香りも、食欲をかき立てるには充分だった。歩いているだけで料理を食べている気分になる。
店の入り口には、自分の店を宣伝するように行灯が置かれていた。影絵が回るように趣向を凝らしたものまである。
「んー、なに食べよっかなぁ。なにがいい?」
氷雨が嬉しそうに迷いながら、雷童と風林児に訊いた。
「俺はなんでも。食えりゃそれでいい」
「氷雨の好きなものでいいよ」
そうして三人が小道を歩いていると、氷雨がだれかとぶつかった。
「あ、ごめんなさ――」
氷雨が謝ろうと振り向いた瞬間、その人がふらりと地面に倒れていった。そしてうつ伏せになったまま、ぴくりとも動かない。
「だ、大丈夫ですか!」
氷雨が血相を変えて駆け寄った。その人物は体を大判の布で覆っていて、はたから見れば、なにかの荷物のようだった。
「死んでたり、してないよな?」
「そんなことあるわけないでしょ!」
うろたえている氷雨の横で、風林児がゆさゆさとその人物をゆすっていた。
「すいません。意識はありますか?」
「医者とか呼ばなくていいのか?」
雷童がしゃがみこんで、布を頭からはずそうとしたとき、
「うわっ!」
その人物が突然雷童の足首をつかんだ。
するとよろりと頭だけ持ち上げた。そして震えるくちびるで、必死で言葉を口にしようとしている。
雷童はばくばくしている心臓を落ち着かせながら、じっとその人物の顔を見つめていると、
「お……」
絞り出したようにその人物は言った。
雷童はごくりとつばを飲みこむ。まるで遺言を預かるようだと感じていた。
雷童は真剣に、そして一言も聞き逃すまいと覚悟を決めた。するとその意思を汲み取ったのか、その人物は安心したような顔になった。
そして続きの言葉を口にした。
「お……す……た」
「え、悪ぃ。もう一回言ってくれ」
雷童は申し訳ない気持ちになりながら、懸命に耳を傾けた。今度こそはすべての単語を耳に残そうという決心からくるものだった。
するとその人物の手に力が入った。そして全力をかけて声を出したようだった。
「お、なか……すいた」
そう言い残して、がくりと目の前の人物は地面にうずくまった。
雷童はしばらく茫然としていた。言われた言葉をずっと反芻して、ようやくその真意がつかめたのだった。
「――は? なんだって? お腹すいた?」
そう言うと雷童は、聞き取れずなにが起こったか分からない顔をしている風林児と氷雨に、呆れたように言った。
「腹減って、動けないんだってよ」
「……なにそれ」
肩から力が抜けたように、氷雨はぽつんとつぶやく。
「本当にそう言ったのか?」
「嘘じゃねぇって。な、おまえ」
雷童は倒れこんでいる人物を、地面から持ち上げた。その拍子で被っていた布がはらりと落ちていく。
その瞬間、思わず雷童は手を離しそうだった。
「げっ――……お、女!」
黒髪を二つのお団子に結いあげ、ぼんやりと遠くを見つめている漆黒の瞳が、そばにあった行灯の光で浮きあがった。
「お腹すいてるんですか?」
氷雨がうかがうようにして訊くと、少女は力なくうなずいた。
「じゃあ、雷童。そのまま立たせてあげて。氷雨、一番近い店に入ろうか」
「そうね。このままじゃかわいそうだし」
「お、おい。ちょっと……」
雷童がぎくしゃくしながら少女に肩を貸し、二人に声をかけた。けれどそんな雷童にはお構いなしに、氷雨は店ののれんをくぐり、風林児は入り口の戸を開けたまま待っていた。
少女はよほど空腹なのか、足もとがおぼつかない。手を離せばすぐにでも突っ伏しそうな勢いだ。雷童は困惑しながらも、ゆっくりと歩幅を合わせる。
(……今日は厄日だ……)
雷童は特大のため息を落とした。
店内は油の匂いと、炒めものの匂いとが充満していた。ちょうど真ん中が厨房らしく、そこからは数人の料理人が額に汗を浮かべながら、客から次々に出される注文に答えていた。なにかを揚げる音と白い湯気が絶えずたっている。
「これ、ほんまにおいしいわ」
さっきまでふらふらしていた少女と同一人物だとは思えない――三人はそろって少女にそんな気持ちを抱いていた。
少女の周囲にはところ狭しと食器が並べられていた。大人が二人食べ終わったような、そんな印象を受ける。だが、それは少女が一人で食べきった量であり、さらに少女は寒天を黒蜜で固めたような、この店自慢の菓子を食べていた。
「よく、食べるわね」
氷雨が半ば感心しながら言った。
「だって、おいしいもんばっかなんやもん」
屈託のない笑顔を向けながら、少女が箸を休めることはない。
「よっぽど腹がすいてたんだな」
雷童が果物を口に放りこみながら感想を述べると、
「せやねぇ……ずっと歩いてたからなぁ」
「歩いてたってどこを?」
考えこむような口調に、風林児が訊いた。
「うんとな、朱里に行かな――って思って地図どおりに歩いてきたはずなんやけど、いつの間にか迷子になってしもうたみたいでな。丸二日、なんも食べてないねん」
「そりゃまた……」
雷童と風林児は顔を見合わせると、お互いの瞳に納得の色を読み取った。ぼろぼろの布に身を包んだまま、少女は満足そうに口を拭いた。
「そやそや。お礼言わなあかんな。うち、蓮華って言うねん。危ないところを助けてもろうて、ほんまに感謝しとるわ。それからな」
急に蓮華は雷童に顔を向けて、にっこり笑った。
「運んでくれてありがとな」
かーっと顔が赤くなるのがわかり、雷童はたまらずうつむいた。どくどくと早鐘を打つように、心臓が鳴る。
雷童のその対応に、蓮華は疑問符を浮かべたような顔をした。
氷雨と風林児はそろって噴き出すと、にやにや笑いながら氷雨が紹介をはじめた。
「あたしは氷雨。それでこっちが風林児で、髪と同じくらい赤面してるのが雷童よ。ま、あたしはこの二人と今日会ったばかりなんだけどね」
蓮華は三人の顔に目を移していった。
「ふぅん。氷雨に、風林児に、雷童……かぁ。これもなにかの縁や。うちのことは蓮華でいいねん」
そう言って蓮華は氷雨に手を差し出した。
「よろしくな、ひーちゃん」
「はい? ひーちゃん?」
戸惑ったような氷雨に対し、蓮華は得意そうに説明をはじめた。
「そや。だって氷雨やろ? だからひーちゃんや。それからふっくんもよろしくな」
風林児も目を輝かせている蓮華になにも言えず、氷雨と同じように握手した。
すると蓮華は立ちあがった。そしてずっと下を見つめている雷童の隣に立った。
「な、なんだよ……」
蓮華は嬉しそうに手を差し出した。
「お、俺はいいよ。氷雨と風林児とはしたんだから、それで――」
「なに言うとるん。うちがこうして生きてるんは、雷ちゃんのおかげなんやで! 命の恩人をないがしろになんてできへん!」
「ら、雷ちゃんって……」
雷童はいますぐここから逃げ出したかった。けれど目の前の蓮華がそうさせてくれるはずがない。そろそろと差し出された手をとると、蓮華は力いっぱい握手をした。
「よろしくな!」
満面の笑みが向けられたのと同時に、雷童の顔がぼっと朱に染まる。全神経が手だけに集まったみたいだ。そこに心臓が移動したように、どくどくと脈を打っていた。
「ところでさ、ちょっとこれからのことについて話し合いたいんだけど」
風林児が話を切り出すと、
「そうね。今日どこに泊まるか――ってことも決めなくちゃならないし」
氷雨も賛同するようにうなずいた。
「とにかく、朱里にはいられない。まあ、今夜は仕方ないとして、明日にでもここを発たないと……俺たちを追ってあの変なやつらが朱里に攻めこんでくるかもしれない」
「変なやつら――ってなんやの?」
蓮華がきょとんとした顔で訊くと、途端に氷雨と風林児はぎくっと顔を強張らせた。
説明するには、自分たちが宮であることを言わなくてはならない。そうなれば、関係のない蓮華までも巻きこんでしまうかもしれないのだ。
雷童は素知らぬ顔で茶をすすりながら、そんな二人の緊張を間近で感じていた。
「そ、それは……」
風林児と氷雨が言いよどんでいる横で、雷童はゴトリ、と茶器を置いた。
「それより、蓮華はなんで朱里にきたんだよ」
雷童の問いに、蓮華はしばらくぼーっとしていたが、ぼそりとつぶやいた。
「うち、人探してんねん」
「人?」
雷童が訊き返すと、蓮華はこくっとうなずいた。
「確かな、『呉羽』って言うん。せやけど、朱里って広いしぐちゃくちゃしとるし――お腹空いてしもうて……もう死ぬかと思ったんや」
「名前しか分かんねえの?」
「そうなんや……ちっとも見つからへんし、お金落とすし散々や」
がっくりとうなだれている蓮華を前に、三人は顔を見合わせた。
そして氷雨が恐ろしいことでも聞くかのように、おそるおそる言った。
「ね、ねえ……お金、持ってないの?」
すると蓮華はごまかすように笑ったあと、なにかを胸元から引っ張り出した。紐にとおされたメノウの首飾りだ。深みのある赤に白が縞模様を描いている。
「せやけど、これ売ればお金になると思うねん」
「だめよ。そんな大事そうに持ってるもの売るなんて」
「んー、そう言われてもなぁ……うち、これをどうしたらいいかわからへんし。迷惑かけるんやったら、これ売ってもろうた方が――」
「絶対だめ!」
氷雨に強く反対された蓮華は、困り切ったようにメノウを見つめていた。
「で、どうする? 俺たちが持ってるお金全部足しても……」
風林児が円卓の上に小銭を出すと、雷童と氷雨もならうようにして所持金を出した。どう見ても、四人の食費と四人分の宿泊代をまかなうには、明らかに足りない。そもそも食事代でさえ払いきれない状態だ。
重い沈黙が四人の間に漂っていると、
「どうやら、お困りのようだねえ」
艶っぽい声が頭上から降ってきた。
ふと四人が見あげると、そばに女が一人立っていた。うしろで高く持ちあげたこげ茶色の髪を前に垂らし、薄絹でできた白く長い着物をまとっている。その長さは、床にすれるほどだった。どこか妖艶な容姿に、くちびるにさした紅が磨きをかけていて、だれもが見惚れるような美しさだ。
四人が目を奪われたように見つめていると、女はフッと軽くあしらうように笑った。
「どうしたんだい? 困ってるんじゃないのかい?」
「あ、いや……その」
風林児が慌ててなにかを言いかけようとするのを、女は楽しそうに見下ろした。
「その様子じゃ、金が足りないんだろ? それに、もっと重要なことを抱えてるみたいだけどねえ。特に」
女は背をかがめ、急に小声で囁いた。
「そこのお二人さんは」
女は風林児と氷雨の両方の顔をじっと見た。目を見開いたまま固まっている二人に、女はフフッと楽しそうな笑みをもらした。
「おい、おばさん!」
雷童がムッとした顔で立ち上がると、
「それにねえ、ちょうど立ち寄った店で自分の名前が聞こえりゃ、だれだって興味を抱くに決まってると思うけどねえ」
腕を組んだまま、女は好奇に満ちた瞳を雷童とかち合わせた。
「……ってことは」
雷童は女の顔と蓮華の顔を交互に見比べたあと、
「おばさんが『呉羽』?」
雷童が確認するようにつぶやくと、女はそうだ、と言わんばかりに顔全体で笑った。
「ほんまに! うわぁ、ようやく見つかったわ! うち、蓮華いいます!」
探し人に会えた喜びからか、蓮華は飛び上がるほど興奮していた。
「どうだい? この際だ。どうせ今晩泊まる金もないんだろ? 四人まとめて家にきな」
「お! おばさん気が利く――」
「そんなことできません」
雷童が喜ぶ前に、風林児が静かにそしてきっぱりと断った。そんな風林児を少し驚いた顔で呉羽が見下ろした。
「いましがた出会ったばかりの人に、そんなご迷惑をかけるわけにはいきません。お金も宿も自分たちでなんとかします。だから、あなたは蓮華だけを家に泊めてあげてください」
「なんだよ風林児。せっかくの誘いを――」
「雷童」
風林児の低い声に、雷童はため息混じりに椅子に腰を下ろした。すると氷雨が、雷童に心配そうな視線を送ってきた。たぶん、風林児の横顔が鋭さを帯びていたからだろう。幼なじみの雷童でさえ、口を出す気にはなれない。蓮華も呉羽の隣でおろおろしていた。
一歩も引かない風林児に、呉羽はその場にふさわしくないくだけた笑いをこぼした。
思わずぎょっとして四人が見つめるなか、呉羽が艶然としたほほ笑みだけを残して、風林児の顔をまじまじと見た。
「そういうとこは、父親そっくりなんだねえ。堅物というか、融通が利かないというか――ま、いずれにせよ、むかしが思い出されるねえ」
「父上を知ってるんですか……?」
風林児が驚いたように訊くと、呉羽は懐かしそうに目を細めた。
「まあ、その話はあとにして……ところで、本当にどこかの宿に泊まるつもりなのかい?」
「はい。これから探してみようと――」
「いま、この国のあちこちで、宮を探してる頃らしいけどねえ」
その言葉に、風林児はまず氷雨と目を合わせ、そして振り返ると雷童を見た。
雷童はひょいと肩をすくめ、
「なんで探してんだ?」
と、ぶっきらぼうに訊いた。
「さてねえ……聞いた話によると、ついさっき門が燃えてすぐに火が消えた――っていう騒動があったらしくてねえ、そんなことできるのは宮しかいないって、宮司が門の前で叫んでいたらしいから――まず宿には真っ先に手を回すと思わないかい?」
だれもその問いかけに反論することはできなかった。
的を得ていたからである。
身を隠す場所をなくしてしまうということは、だれでも思いつきそうなことだった。
そんななか、蓮華だけが一人事情を飲みこめない様子で、首をかしげながらその話を聞いていた。
「ね、ねえ……今夜はお言葉に甘えて泊めてもらおうよ」
氷雨が懇願するように風林児に言った。
「俺も氷雨に賛成。だってよ、考えてもみろ。このまま俺たちがどっか泊まったって、結局その宿に迷惑かけるだけだろ? そんなら呉羽のおばさんとこに泊めてもらった方が、いい気がする」
「……う、うん。それはそうだけど」
雷童にも押され、風林児はようやくうなずきはじめた。
その様子を呉羽は満足そうに傍観していたが、やがて円卓に歩み寄り、散らばっていた小銭を回収した。
「どうやら話はまとまったようだね。それじゃ行こうか。あんたたちが足りない分は、私が出しとくから。小銭預かっとくよ」
「え、でもいつ返せるか」
風林児が焦ったように言うと、呉羽は意味深な笑みを浮かべた。
「いいんだよ。どうせあんたたちが返す必要はなくなるんだからねえ」
呉羽はすたすたと店の入り口の方に歩いていった。
人形の館
まるでどこか秘密の場所へと案内されているようだった。
暗闇に響く人の声。点々とゆらめくたいまつの光。夜の帳に包まれた小道を、何人もの人影が闊歩していく音が、静寂を崩していく。どうやら宮を探しているようだった。少数で構成された集団が、手分けして朱里中に目を光らせているのだ。
物陰から、雷童は顔を出した。すばやく左右に目を走らせ、人の気配がないか確認する。
「……よし。だれもいない」
「なら、そこのつきあたりを右に曲がってくれるかい?」
忍び足で塀伝いに移動すると、大きな門が黒い壁のように立ちはだかった。重厚そうな木の手触りが、いかに古いものであるかを物語っていた。
「おばさん、もしかしてここ?」
雷童がかすれるほどの小声で訊くと、呉羽は返事の代わりにすぐ隣の塀に手をついた。
「え、こっちが門じゃ――」
困惑を含んだ雷童の声は、塀の音にかき消された。石と石がこすれ合う重い音が、ひっそりとした夜半に、爪あとを残していくようだ。
「さ、入って」
呉羽は急かすように言った。無言で四人はうなずく。
背後で再び塀が壁と化すまで、だれも口をきかなかった。
張りつめた空気が、息をすることさえ許さない。
シュボッと摩擦音がすると、そこにぼんやりと呉羽の顔が炎に照らされた。
「なかなか緊張感があって、おもしろかったねえ」
笑いを含んだ言い方だった。呉羽はそばにあった油に火を灯すと、次々と灯篭に火を移していく。
広い庭らしい。型どおりに刈りこまれた木々が、その場に深い影を落としていた。どこかに池があるのか、水の流れる音がする。
「こっちだよ」
呉羽は、興味深げに周囲を見渡している四人に振り向いた。
踏みしめる砂利の音がやけに大きくこだましている。虫の音に歓迎されるように、四人は進んでいった。
二階建ての古い家だった。灯篭でぼんやりと照らされたしっくいの壁と、朱色の梁。圧倒的な存在感をかもし出していて、そこだけ世界が違うような――異質の空間。その真上には下弦の月が木々の隙間から見え隠れしていた。
「でっけぇ家だなー。おばさん一人で住んでんのか?」
石段をあがり履物を脱ぎながら、雷童が感心めいたように言った。
「そうだよ……まあ、前は妹と二人暮らしだったけどねえ。それもむかしの話だ」
歩くたびに床がきしむ。呉羽の手によって、廊下に灯りがつけられていった。
雷童が風林児を振り返ると、彼はなにかを考えこんでいるようだった。まだ、初対面の人に世話になってしまうことに躊躇しているのだろう。律儀な性格はむかしからだ、と雷童は大して気にもせず、そのまま歩いていく。
「ずいぶん人形が多いんやね」
あちこち目を移していた蓮華が鼻を鳴らした。
その視線の先には、着飾った人形たちが廊下に等間隔ずつ置かれている。長さはまちまちだが、切りそろえられた真っ黒な髪と、透きとおるような瞳。立っているものから座っているものまで、さらに大きさまでばらばらだった。
「ひーちゃん、大丈夫?」
蓮華にすがりつくようにして歩く氷雨は、声をかけられると取り繕うように笑った。
「え……あ、うん。平気平気。ちょっと、怖いだけで……」
けれどちらっと人形に目を向けても、視界に入るか入らないかの寸前で、氷雨はすぐに顔を背けていた。
「これ全部、あなたが集めたんですか?」
いままで口を開いていなかった風林児が、ぽつりと言った。
「いいや。これは集めたんじゃなくてねえ。作ったのさ――妹が」
「妹さんが……?」
「そうだよ。妹は手先が器用でね、人形を作るのが趣味だったのさ。最初はぬいぐるみのような布で作ってたんだけど、そのうち凝りだしてきて、ついにはそこいらの店より立派なものまで手がけるようになったんだよ」
「だからこんなに……」
誇らしげに呉羽が語る口調の横で、風林児はなかでも一番大きい人形に目を留めていた。磁器でできた肌に、赤い着物に身を包んだ少女のような人形。その唇には、かすかな笑みが浮かべられていた。
「さ、ここが居間だよ。お茶でも入れるから適当に座っていておくれ」
氷雨と蓮華は、呉羽に続いて部屋に入っていった。
「……さっきからどうしたんだよ、おまえ」
首をかしげて周りを見渡す風林児に、雷童がいぶかしんで声をかけた。
「いや……なんか」
「ん? どうしたよ」
風林児と同じように背後を見ても、なにもない。再び口を開こうとした瞬間、
「なんか――だれかに見られてる気がする」
と、風林児がつぶやいた。
思わず顔が引きつったのがわかった。むかしから、風林児の嫌な勘だけはあたるのだ。本人は自覚していなくとも、雷童はそれをよく知っていた。だから、このお世辞にも居心地がいいとは言えない場所で放たれた一言が、なにを意味するのか――そう考えただけでもゾッとするのだ。
「ま、まぁ……とっ、とにかく部屋に入ろうぜ」
「う、うん」
雷童は、風林児を半ば押しこむようにして部屋の戸を閉めた。
シン、と静まり返る薄暗い廊下。陳列された人形たち。
紅色の小さな口元が、かすかにほころんだ。
読んでくださり、ありがとうございます!