第一夜(二)
物語、本格始動です!
発端
「お母さん! お母さん!」
幼子が必死に母親の元へ駆け寄ろうと手を伸ばしている。
「こっちにきちゃだめ!」
母親の手から小さな電撃が走った。その光は泥のような人形たちに向かって発せられている。
里は大勢の不気味な輩に包囲されていた。切っても突いても死にはしない――腐敗臭を漂わせた人体が、両手を前に伸ばしながら唸り声をあげ、逃げ惑う里の者を執拗に追っている。ところどころ肉が腐り、包帯が巻かれてある片方の目の隙間から、うじ虫が這って出てくるのを、人体は握りつぶしていた。黒光りしたハエがたかるように、周りを群がりながら飛んでいる。
ゾッと背筋が凍るような光景。
人々は生きる屍に顔を歪め、そしてだれもが現実として認めたくなかったのだった。
意思のない人形のようにずるずると足を引きずりながら歩み寄ってくる――数百人の何者か。薄黒く変色した皮膚からは、真っ赤にただれた皮下組織と、臓器が見え隠れしている。ぼたぼたと滴り落ちる紫色の血。
里中のいたるところで、雷が空中を走る音が錯綜していた。
「お母さ――」
幼子の真後ろの土が盛りあがった。
母親の顔が引きつる。
『宮……宮……どこ、だ』
人体はなんのためらいもなく、拳を幼子の頭上に振りかざした。
まるでそこだけ時間が止まったように、母親の絶叫が里に響く。
雷の音と悲鳴が混じり、黄色い世界が広がった。
「……ふー。危機一髪」
糸が切れた人形のように、ぐにゃりと人体はその場に崩れ落ちた。
「おい。大丈夫か?」
「あ、あんた……」
母親は、人体と自分の子どもとの間に割りこみ殴り飛ばした雷童を、震える瞳で見た。
「う……うえっ……」
「だー! 泣くなっつーの!」
ぐずりはじめた幼子をひょいと担ぎあげると、雷童はすたすたと母親の元へ歩いていく。
「ほらよ。自分のガキくらい、自分で面倒見ろよな」
半ば奪うようにして雷童から幼子を受け取ると、無言のまま決まり悪そうににらみつけた。
「大丈夫ですか!」
重たい空気のなかに、風林児が走ってくる。
「え、はい。おかげさまで」
母親は雷童の方をちらっと見ながら、風林児に礼を述べた。その様子に、雷童はこれ見よがしに深々とため息を落とした。
「けっ……やってらんねーや」
「ちょ――雷童! 先に言っておくけど、まさかおまえ――」
風林児の口を、雷童が片手で塞ぎこんだ。そしてにんまりとしながら声をひそめる。
「そのとおり。よくわかりましたねー、風林児にしちゃ」
「ばっ、ばかなことするなよ! そんなことしたら――」
「そんなことしたら、なんだよ」
雷童のからかうような口調が、一変して低い声音になった。
「まー、親父が死んだのが俺のせいだとして、兄貴が行方不明になったのも俺のせいだとしても、だ。みすみす里ごと全滅するの見てらんねーわけよ。それじゃ、兄貴が見つかったとき帰る場所なくて困るじゃん?」
「だからって、おまえ」
「よお! わけわかんねー死体さんたちさぁ!」
風林児の言葉にかぶさるように、雷童は声を張りあげた。
「あんたら、轟宮、探してんだろー?」
「ばかっ! やめろって――」
「轟宮は、俺だーっ!」
その瞬間、人体の足がピタリと止まった。不気味なほどの静寂が流れる。
そんななか、里の者たちは唖然とした顔で雷童を見つめていた。
風林児は苦虫を噛みつぶしたような表情を浮かべ、雷童はしたり顔でばきっと指を鳴らした。
刹那、オオオーッ、という雄叫びが里のあちこちで爆発した。それだけで地面が揺れるほどの勢いだ。
『宮! 宮! 捕まえろ!』
同じ台詞を吐きながら、足は雷童に向けて走り出していた。
「へへへっ! 引っかかった」
「雷童! おまえな! どうするんだよ!」
すると雷童は里の表門に向かって疾走しはじめた。そのあとを慌てたように風林児が追う。
「逃げるんだよ!」
雷童は、何百人の死体が後ろから追ってくるのを右目で確認しながら叫んだ。
「逃げるってどこまで!」
「知るか!」
「そこまで考えてなかったのか!」
「俺が考えてると思う?」
その返答を聞いた風林児は、納得とあきらめの混ざったため息をこぼしていた。
『宮……宮!』
二人の少年の荒い息だけが、森のなかで落とされる。
横たわる苔むした幹。異変を感じ取って羽ばたいていく鳥たち。
風景が高速で横に流れていく。
(なんだって、宮を狙うんだ?)
雷童は後ろをさっと振り返った。
木々をなぎ倒し、突進してくる不可思議な人体の姿がそこにある。四足でべたべたと地を這い回る者、そして大きく口を開けたままだらりと舌をのぞかせている者もいた。
雷童は少なからず冷たいものが背筋に走っていったのを感じた。
「あいつら、なんなんだ?」
雷童が訊くと、風林児も一度背後に目を向けてから首をひねった。
「あんなの、俺初めて見た」
「そりゃそうだろうよ。あんなもん見慣れてるやつがいたら、一度会ってみたいね」
皮肉っぽく笑うと、雷童は右目を覆う眼帯に手を伸ばした。
「雷童、なにする気だよ」
「このままじゃらちが明かねぇからな」
「でも、それはずしていいのか?」
すると雷童はにやりと楽しそうに、
「いまはずさなくて、いつはずすんだよ」
と言うと、風林児が止める間もなく眼帯を取り去った。
雷童は隠されていた瞳をそっと開いていった。
金色の片眼。
久しぶりに光を感じたせいか、ことさら眩しく感じる。
「絶対、俺と目を合わせるなよ」
「うん、わかってる」
二人は集団から木を数十本程度の距離を隔てると、そろって向き直った。
雷童は金色の視線を一人の人体の肩口に投げかけた。
焦点が合う。
左目の瞳孔がそこだけに集中する。
「……燃えろ!」
瞬間、ジュッと肩から煙が立ちはじめた。はじめは白い煙だったが、火の気のない場所からろうそく大の炎が点火した。すると見る見るうちに、一人の体が火だるまに包まれていく。
断末魔が響き渡ると同時に、燃え上がる人体は姿勢を崩し、そのまま隣の人体に倒れこんだ。瞬く間に火が移っていく。
「よっしゃあ! あとはよろしくな」
「え、俺もやるのか」
「あったり前だろ。なんたって鳴宮さまなんだからな。頑張ってー!」
雷童が意気揚々と声をかけると、
「ほんと、調子いいやつ」
風林児はやれやれと肩をすくめ、片手を前に突き出した。
途端に風の流れが変わる。
そして風林児の手のひらにつむじ風が起こりはじめる。
泣き声のような音とともに、風がまるで毛玉のように踊る。
「風の糸」
風林児がそう呟いた瞬間、突風が腐った人体たちに襲いかかった。火は風であおられ木々に燃え広がり、そしてあとから追ってくる者たちを巻きこんで火柱をあげていく。
「それがさんざん苦労して扱えるようになったっていう技?」
「ううん、これは違う。こんなの技ってほどでもないし。それより……」
風林児は少し困惑した顔をして言った。
「それより?」
「この火、どうやって止めるんだよ?」
業火が二人の目の前にある。
ごうごうと唸り声をあげながら、それは確実に広がっていた。赤橙色の炎が風に巻かれ、とぐろを巻く蛇のように空中へと伸びている。
「まさか、考えてなかったってことは――ないよな?」
確認するような風林児の口調に、雷童はあさっての方角を向きながら、
「んー、まぁそういうことも――」
「ない!」
ぴしゃりと言い切られ、雷童は深々とため息をついた。
「あのさぁ、俺たち長いつき合いだろ? そういう事後対策ってのは、俺の分野じゃないことぐらいわかってると思ってたんだけどなぁ」
「知ってるけど、わかりたくもないよ。本当にどうするんだよ、これ」
雷童は苦い顔をしながら頭を抱えていた。実のところ、なにも考えていなかったのである。
(どうすっか……)
風林児の背中がせっついてくるのを感じながら、雷童は空を見上げて考える素振りをした。もうもうとあがる白い煙が視界の隅に入りこむ。
内心では焦りを覚えながら、大きく伸びをしていると、
「真面目にちゃんと考えてる?」
風林児が不機嫌そうに声をかけた。
「……思いつかねえ」
眼帯をはめながら雷童がぼやくと、風林児はがくりとうながれたようだった。
「……そっち向いて、いい?」
「あ? いいけど……」
そう返事をした瞬間、風林児は眉根をひそめた顔を雷童に向けた。
雷童は思わず体を強張らせた。
「思いつかねえ、じゃないだろ。なんでいつもあと先考えないで行動するんだよ!」
「あのなぁ、おまえは考えすぎなんだって。だいいち、切っても突いても無駄だってんなら、灰にするほかないだろ!」
「俺が言いたいのは、そのあとのことだよ! これで山火事にでもなったらどうするんだって聞いてるんだよ!」
「だから、そう大げさに考えるなってば!」
「大げさもなにも、ありうること――」
次の瞬間、二人の少年の視線は、弾かれたように上空に釘づけとなった。
轟音とともに灰色の雲に白煙が吸いこまれていくのだ。木々がまるで稲穂のようにたなびき、空気全体が上に引っぱられるような錯覚を覚える。それは炎をものともせずに、火の粉ひとつ残すまいと雲が食い尽くしているようだった。
火も風も、その雲には逆らえないように胃袋のなかに収まっていく。
「な、なんだあれ」
雷童はようやく声というものを思い出した。乾いた喉が鳴る。ごくりと唾を飲むと、目を空に貼りつけたまま、もう一度風林児に訊いた。
「おまえ、あれなにかわかる?」
「知らない……」
風林児は呆けたように口を開いた。
「だよなぁ」
雲は渦を巻きながら、地上から煙と炎の熱気までも吸い取っていた。
少年たちは再び黙りこみ、目に映る光景にとらわれていた。
次第に冷ややかな空気が森に戻ってくるのを肌で感じていると、雲が大きくなっていることに雷童は気がついた。
「雲、成長した?」
「そう?」
風林児が半信半疑のような声を出すと、その返答に反発するようにぐん、と広がった。
「ほら、やっぱり――」
「なあ、雷童」
どこかひきつったような声音だった。
「ん? どうした?」
その間にも雲は巨大になっていく。
「あれ、成長してるんじゃないと思う」
「ふぅん、じゃあなに?」
じっと見上げながら訊くと、急に風林児は雷童の腕をとって駆け出した。
「な、なんだよっ!」
風林児は切羽詰った顔を雷童に向けると、
「こっちに落ちてきてるんだよ!」
と、声を荒げた。
陰が顔にかかる。
視界いっぱいに広がる灰色の雲――雷童は風林児の言葉の意味を咀嚼した。
「落ちるって――ここに?」
ほとんど風林児に引きずられるように、雷童は走っていた。
「そうだよ!」
それを聞いて雷童は風林児を引っぱり返した。
「なんだよ!」
「面白そうじゃん!」
キッと振り向いた風林児は輝く雷童を見て、へなへなと脱力したように眉をへの字に曲げた。
「雷童……あのさ」
「だってよ、雲がここにくるってことは――触れるかもしれないだろ。こんな機会逃したら損するって!」
「損って……なに考えてるんだよ! あれは煙と火を吸いこんだ雲だぞ。なにがあるかわからないんだ。ひとまず逃げ――」
「おお! すっげぇ!」
雷童が歓喜に満ちた声をあげると、風林児は固まったように頭上に迫る物体に目を奪われていた。
雲が落ちる。
どこか湿っぽい匂いと、細かい水蒸気の冷たさがほおにあたっていく。湿度をたっぷりと含んだ空気が肺に心地よい。
「ほれほれ目をしゃんと開けなさい」
しわがれているはずなのに、なぜか透きとおるような声が近くでした。
雷童は知らず知らずのうちに閉じていた左目を開けた。すぐ隣にはおなじようにまぶたを持ちあげたばかりの風林児が立っていた。
目が届く範囲いっぱいに広がる白い霧の世界。その真ん中に大きな岩が鎮座していた。
「ここは?」
風林児はきょろきょろとあたりを見渡している横で、雷童は盛んに跳んでいた。
「見ろよ! 俺たち雲に乗ってるんだぜ!」
「そりゃそうじゃろう。これはただの雲ではないのでな」
二人はぎょっとしたように顔を見合わせると、声のする岩に目を向けた。
もそりと岩が動いた。
その動きに合わせ、自然と足は後ろに下がる。
「なんで逃げるんじゃ?」
「い、岩がしゃべった」
二重の声が同時に引っくり返った。
「そう驚かんでもええじゃろう。せっかく迎えにきたのじゃから」
雷童は岩に向かっておそるおそる呼びかけた。
「迎えって……あの世の?」
すると穏やかな笑い声がこだまするようにのびていった。
「面白いやつよのう。どれ、ちょっとそこで待っとれよ」
しゃがれ声の主がそう言うと、岩がどんどん小さくなっていく。
雷童と風林児がぽかんとして見ているなか、岩があった場所に人影が映りこんだ。そしてひたひたと歩み寄ってくる。
「こうして人と面と向かって話すのは、まこと久しぶりじゃて」
にこやかな笑顔で現れたのは、青い羽衣をまとった老人だった。眉とひげは雪のように白く、あごの辺りで二つは混ざり合っていて、額に深く刻まれたしわが、年の功を物語っているように思えた。
「じいさん?」
拍子抜けしたように雷童が言うと、再び老人は高らかに笑った。
「はじめまして――といったところかの、雷童に風林児。わしは満年歳というじじいじゃ」
とたんに雷童と風林児は顔を見合わせた。
「なん――」
「おっと、まあ焦りなさるな。おまえさんたちの頭はいま疑問でいっぱいじゃな? ん?」
風林児は口元に人差し指を突きつけられたまま、こくっと首を縦に動かした。
「それでは順に答えていこうかの。まず、なぜ名を知っとるかじゃが、これは簡単。わしが何百年と生きとるからじゃ。ほとんどの人間の顔と名は一致する。それと、おまえさんたちが山だと思ったのは、この亀じゃ」
そう言うと、満年斎は片手にのった茶色い亀を頭の上に映した。
「じいさん、俺たちが見たのはすっげえでっかい山みたいなやつだぜ? どう見たって手のひらぐらいしかねえじゃんよ」
雷童がすかさず反論すると、満年斎はにやりとひげを動かした。
「どこかのだれかが、無茶をやらかして一山丸ごと火事にするところだったのを、救うたせいで疲れたみたいでな、だいぶ火と煙を吸いこんだからのう。腹が膨れて眠うなったんじゃろ。のう?」
確認するように満年斎が言うと、雷童は決まり悪そうに視線を反らした。
「あの……」
風林児はうかがうように尋ねた。
「何百年生きているっておっしゃられてましたけど、もしかして仙翁なんですか?」
「なんだよその『仙翁』って」
すると満年斎はひげをなでた。
「さよう。わしは永遠の実を口にした。ちなみにこの亀もな。もうすぐ生きて一万年になる仙亀じゃ」
納得した顔の風林児の横で、雷童は腕を組んだまま首をかしげている。
その様子で、雷童がまったく理解していないことに風林児は気がついたらしい。
「ほら、不死鳥の巣ってあるだろ?」
見かねたように風林児が雷童に言った。雷童は鼻で返事をした。
「その巣がある不死鳥の樹――どんな山よりも高くて、葉が散らない大樹――だったかな、その樹には永遠の実がなるんだ。だけどその実を食べられるのは、不死鳥に魅入られた、選ばれた人間だけで、勝手に食べると命を落とすんだって父上が言ってた。それでその実を食べた人には尊称として『仙』という字がつけられるんだ。もちろん亀にも」
風林児はちらっと満年斎の頭上を見やった。亀は微動だにせず、眼を閉じている。
「ってことは」
雷童は複雑になった頭を整理するために、満年斎と風林児の顔を交互に見比べた。
「このじいさん、めちゃくちゃすげえの?」
風林児がうなずくと、雷童は信じられない顔をしてじっくりと満年斎を見つめた。
(どこにでもいそうなじいさん、みたいだけどな)
すると満年斎は雷童が考えているのを見透かしたように、コホンと咳払いをした。
ぎくりとして満年斎と視線を交わすと、老人はしわだらけのまぶたをかすかに持ち上げていた。きれいな緑色の瞳がのぞいている。
そのとき、雷童は奇妙な目まいを覚えた。じっとこちらに投げかける視線の奥に、不思議な好奇心に満ちた光が見えたような気がした。目と目を合わせていたのは一瞬のことなのに、長い間見つめあっていたような錯覚に陥る。
(なんだ? なんか嫌な……なんで目を反らせないんだ?)
雷童がかすかに緊張しているのに気づいたのか、次の瞬間には満年斎は優しくほほ笑んでいた。
そして満年斎は通り過ぎざまにポン、と雷童の肩を叩いていった。
「わしのところにいれば、もう安心じゃ」
雷童はハッとして年老いた背中を見た。
(安心? なにが? どういう意味なんだ?)
風林児にはその声が聞こえなかったのか、隣であくびをしていた。
聞こえたのは自分だけなのだろうか。こんな至近距離にいて聞こえなかったはずがない。それなら、満年斎は言葉を発してなかったのか――わからない。けれど、確かに聞こえたのだ。そしてなぜか嬉しそうだった響きを帯びていたことも、耳が覚えている。
「さて、おまえさんたちを無事に拾えたことじゃし、あんまり待たせると悪いからの」
そう言うと、満年斎は亀の背中を軽くこすった。
「もう一働きじゃ、仙亀」
甲羅が徐々に広がっていく。
満年斎は雲の上に亀をそっと置いた。
「さ、乗っとくれ」
まるで乾いた砂地に染みこむ水のように、甲羅はその面積を広げ瞬く間に家並みの大きさになっていく。
首のつけ根の部分に赤い座布団が敷かれ、そこに満年斎は腰を下ろした。
「さて、しっかりつかまっとれよ」
ふわりと浮きあがったのを感じた。
雲は亀の足にピッタリと張りつき、そのまま上昇していく。
「珍しく、はしゃいでないね」
「あ、ああ。たまには、な」
少し驚いたような表情の風林児に、雷童は生返事をした。
さっきの言葉が頭のなかで渦を巻いている。
どんな意味なのだろう? どうして安心なのだろう? それにさっきの瞳は一体なんだったのだろう?
雷童は亀の背に乗りながら、ぼんやりと物思いにふけっていた。
次回も楽しんでいただけましたら、嬉しいです。