第三夜(十)
本当のこと
雨上がりの、湿った独特な匂いがする。
「用意はいいかい?」
呉羽の問いかけに、空雷は決意したようにうなずいた。呉羽は先に扉をくぐる。
ふわりと緑色の布を肩にかけ、空雷はそっと闇夜に踏み出した。じっと目を凝らし、灯りもつけずに曇り空の弱い月明かりだけで歩みを進めるのは、細心の注意が必要だった。じゃりじゃり、と砂を踏みしめる足音が、小さく闇を切り裂いていた。
春山の屋敷の裏口に、門番が一人立っていた。呉羽の顔を確認して敬礼しようとするのを、呉羽が静かに制する。
そして呉羽と空雷は春山の屋敷をあとにした。
暗い暗い黒の道。
民家の明かりが遠くにまばらに見えた。
「あの子たちには、なんて話してきたんだい?」
突然、呉羽が尋ねた。
「雷童がいないこと、ですか?」
「そうだよ」
空雷は前を行く呉羽の背中を見つめていた。
「あの三人には……俺と出かけている、そう言っておきました」
「そうかい」
その会話を最後に、二人は口を開かなかった。
なにも話すことがない――というよりも、これから起こることに腹をくくっているようだった。互いに思うところがあるのか、二人の表情は厳しかった。
静かな夜に虫の音が響き渡る。
街はずれへと向かう二人の足取りは、ずっと変わらない。
葉の擦れる音と足音と、獣の泣く声が夜半に浸透していく。
「……ところで呉羽さま、どうやって入るつもりなんですか?」
おもむろに、空雷が訊いた。
呉羽は無言だ。
「あそこは、なかから招かれないと開かないんですよね」
釘を刺すように空雷は言う。
「そうだよ」
「……なら、どうやって入るんですか?」
「こじ開けるのさ」
空雷は一瞬立ち止まり、いぶかしむように訊き返した。
「どうやって?」
すると呉羽はフッと微笑した。そしてなにやら懐から取り出すと、
「手、出しな」
言われるまま、空雷が手を差し出すと、その上になにか固いものが乗せられた。どこなくひんやりとしていて脇に四つ穴が開いている。
「これは?」
「亀だよ」
「亀?」
空雷は暗くてよくわからない自分の手元を見つめながら、もう一度うかがうように訊いた。
「これで、なにをするんですか?」
呉羽はちらり、と空雷を見た。
「それはね、つがいの亀なのさ」
二人の歩みが遅くなることはない。会話だけが、交わされていく。
「本当は二匹でひとつなんだよ。だからいつも片割れがいる方角へ、顔を向けてるんだ」
「それで、どうやって?」
「やってみなけりゃわからないけど、あっちの亀を呼び出そうって思ってね」
空雷はそこまで聞いて、まじまじと手のひらにある亀を見つめた。
そろそろ到着する頃だ。あの異空間へと通じる夢幻十字路に。
朱里のはずれに位置しているせいで、そこは不気味なほど静けさに包まれていた。
呉羽は空雷から亀を受け取ると、そっと瓦礫のそばに置く。亀はしっかりと壁に頭を向けていた。
「やっぱりここにいるんですね」
「そうみたいだねぇ」
その返答に、空雷はきゅっと緑の布を握りしめた。
すると呉羽はゆるやかに空雷に目を向けた。
「早く仇を打ちたいかい?」
「……それは」
「悪かったねぇ。あんたにこんなこと頼んじまって……父親を殺した相手のところにいるのは、辛かっただろう」
夜の風が、空雷のほおにあたる。金色の髪をゆらしていった。
空雷はただじっと、呉羽の横顔を見つめていた。
「妹だからって、気にしなくていいよ。あの子は……百年前に、死んだんだ」
「……呉羽さま」
「だから、あんたは自分のことと、弟のことだけを考えてておやり。わかったね?」
呉羽はにっこりとほほえむ。憂いを帯びた表情は艶然としていた。
「……はい。ありがとうございます、呉羽さま」
「礼なら、全部片づいてからにしとくれ」
そう言うと、呉羽は亀の甲羅に触れた。
「さて、覚えてるかい? あんたの片割れだよ」
その途端、ぐにゃり、と空間が歪んだ。
小石が小刻みにゆれている。
すると、いままで瓦礫の山だった場所にぽっかりと道が開いた。ちょうど十字路のような形になる。
空雷は一息ついてから、呉羽に尋ねた。
「成功したんですね」
「いや……」
だが、呉羽は険しい顔を崩さない。
「どうかしたんですか?」
「私はまだ、呼んじゃいないんだよ。なのに、勝手に道がつながった」
「ってことは――誘ってる?」
「そうとしか考えられないね。でも、行くだろ?」
「もちろんです」
空雷のしっかりした口調を聞いて、呉羽は満足気にうなずいた。
「じゃ、行くよ」
呉羽と空雷はできたばかりの道へと、歩みを進めた。
そこは相変わらずシン、としていた。
なんの音も聞こえない。虫の音も、動物が鳴く声も、なにもしない。
半円に湾曲した橋に差しかかってようやく、木のきしむ音がしたくらいだ。
「呉羽さま」
「なんだい?」
二人の声がやけに大きく響く。
「なぜ、わざわざ招き入れたんでしょう」
「さあ。やつらが考えてることは、よくわからないね」
「教えてやろうか?」
自分たちではない声に、二人はハッとして振り返った。
少しの距離を置いて、灯りを持った満年斎が立っていた。白いひげをなでながら、空いた手には亀を乗せている。
「おまえ……」
空雷が低く警戒するようにうめいた。
「ほお。やはりおまえさんが現轟宮だったんじゃな」
満年斎は、鼻で笑った。
「まんまとおぬしら二人にだまされてしまったのぉ。その眼帯も、よく似せて作ってある。本当に驚かされたわい。鳴宮のあとを追って『仙』を語り、一緒につかまえたというのに、轟宮ではないと言うではないか。本当に残念じゃった……。せっかく」
すると満年斎は冷たく言い放った。
「殺そうと思ったのにのう」
「――貴様!」
「待ちな」
いまにも飛びかかっていこうとする空雷を、呉羽がぴしゃりと押しとどめた。
「ふん……『仙』を語ったのは、風林児たちを油断させるため――そうなんだろ? 満年斎」
「そのとおりじゃ呉羽。すぐに信用してくれて、まこと助かったわい」
「それにしても……あんた、なんでまだ生きてるんだい? あんたは普通の人間だったはずだ。とっくに死んでなきゃおかしいはずなんだけどねぇ」
すると満年斎ははっきりとした口調で、
「おぬし、わしのことを忘れたわけではあるまいな」
「ふん、忘れるわけがないだろう。あんたは、満年斎で町医者、そして――」
「常葉の婚約者、じゃ」
呉羽の言葉にかぶさるように、満年斎は言った。
一瞬にして空気が緊張の渦に巻きこまれた。
「……そうだったねぇ」
呉羽は目をつぶりながら静かにため息をついた。
「わしは驚いたよ。あの日――大樹の下で倒れている彼女を見つけたときは」
「……あんただったのかい。常葉を連れてったのは」
「そうじゃ。まさか大樹の上から飛び降りるとは思わなんだ」
「あんたが、常葉を救ったのか」
「あたり前じゃ!」
満年斎は食ってかかった。
「おぬし、まこと人の子か? 土の民の一員としての誇りはないのか?」
「うるさいね! 惚れた女のために、自分の魂を売ったあんたなんかに――なにがわかるってんだい!」
呉羽は荒く息をついた。
すると満年斎はすっと目を細めた。
「まあまあ、そうかっかなさんな。この子たちも、おぬしら二人にあいさつしたいそうじゃ」
その途端、辺りに光の玉が浮き上がる。それは何百という子どもたちが持っているちょうちんだった。いままで暗かった周囲が一気に明るくなる。
「これは――」
二人は息をのんだ。
周りを囲っているのは、すべて同じ顔、同じ髪型、同じ背丈をした少女たちだったのだ。じっとその緑色の瞳で見あげている。
「そうそう、おぬしらに言わねばならんことがある」
満年斎は持っていた灯りを放り投げた。途端、近くにあった草に燃え広がっていく。
「ここに常葉さまはおらんよ」
その声と共に、火の手に包まれた。