第三夜(九)
秘密
「もう、どこに行ってたのよ」
雷童と風林児が部屋へと戻ると、氷雨があきれたような顔で待っていた。
小さな円卓の上に置かれた茶器には、お茶がなみなみとつがれていた。けれど、ほとんど口をつけていないらしく、冷め切ったまま放置されている。
「風林児、大丈夫だった?」
「え? ああ、うん。平気だったよ」
すると氷雨はひょい、と肩をすくめた。
「まったく、風林児も風林児よね。あんな傷で雷童を探しに行っちゃうんだから。しかも雨まで降ってきちゃうし……とにかく、お疲れさま。少し座ってた方がいいわよ」
氷雨は風林児に優しく言った。
風林児は自分の腕を見ながら、顔をほころばせた。
「でも、だいぶよくなった気がするんだよね」
「だめよ。あの火傷は見た限り、すぐに治るような感じじゃなかったもの。ちゃんと静養してないと、いざってときに動けなくなっちゃうわよ」
「んー、そうかなぁ」
「まあ、氷雨の言い分にも一理あると思うぜ。おまえ、兄貴の力を受けたんだからさぁ。というか、そんな傷で済んでよかったって感じだよ。うん、ほんとそうだよ。だからさ、まぁ、いい機会じゃん? 大人しくしてろって。おまえなにかと動きすぎだからよ」
「……だれのおかげで」
風林児は深々とため息をつくと、そばにあった革張りで上等そうな椅子に腰かけた。そして背もたれに寄りかかる。
やはり少なからず無理していたようだった。横顔に走るかすかな気だるさが、そのことを如実に表していた。
「お茶、入れなおそうか?」
氷雨が訊くと、
「ううん。いまはいいや」
風林児はそう言うと、軽くまぶたを閉じた。
その様子をしばらく見ていた雷童だったが、おもむろに部屋をざっと見渡すと、腕を組み、小首を傾げた。
「なぁ、蓮華は?」
「え? ああ、蓮華ならあんたのお兄さんに用があるって言って、さっき出て行ったけど」
「ふぅん」
「……そうだ、雷童」
すると、風林児が急に神妙そうに声を落とした。
「なんだよ」
「おまえの言ったとおりだった」
「なにが?」
「――蓮華のこと」
「……やっぱり、追っ手がきたか?」
「うん。しかも堂々と」
「そっか。懲りねぇやつらだな」
「ねえちょっと。一体なんの話?」
氷雨が怪訝そうに割って入った。
雷童はうなずきながら、
「ああ、そうか。まだ氷雨には話してなかったよな。あいつ――蓮華が、だれかに狙われてんだよ」
「蓮華が?」
氷雨は驚いたような顔をした。
「そ。なんだか知らないけどよ。それにしたって、相当しつこいやつらだな」
「でも、なんで蓮華が狙われてるのよ」
雷童と氷雨がそれぞれに考えこんでいると、風林児がためらいがちに切り出した。
「それがさ、二人とも……」
「どうしたよ、風林児」
風林児はぽつりとつぶやいた。
「蓮華……俺たちになにか隠してるんじゃないのかな」
「んまぁ、そうだろうな」
「って、雷童――おまえ気づいてたのかよ?」
風林児はつままれたような顔をして、雷童を見あげた。
「んー、なんとなくだけど、そんな感じがしたから」
「なら、おまえはどう考えてる?」
雷童は腕を組んだ。
「そうだなー、少なくとも、追っかけてるやつらと蓮華との間にゃ、なんか関係があるんだと思うぜ」
「……やっぱり」
「やっぱりってことは、なんか思いあたることがあるんだろ?」
雷童が促すと、風林児は同じように腕を組み、厳しい表情で言った。
「蓮華とそいつらは『元仲間』だ」
「仲間って――」
氷雨は言葉を失ったようだ。
「……だろうな」
「だろうなって――雷童あんたなんとも思わないわけ? なんで仲間から狙われなくちゃならないのよ!」
「仲間ったって『元』なんだろ。元仲間と現在仲間じゃだいぶ違うぜ」
「で、でも! 元々は仲間なんだから――」
「だから、あいつがいた世界は、そういう世界だったってことだよ」
「そんなのって……」
氷雨は親指のつめを噛んだ。
「で、風林児――おまえにもだいたい読めてるんじゃねぇの?」
「まぁね。おまえの考えてることと、ほとんど同じだと思うけど」
「つまり、どういうことなのよ」
氷雨がむすっと顔を曇らせた。
雷童は風林児が寝ていた布団に腰を下ろすと、
「つまりー、蓮華が言ってた『みなしご屋』ってのが、どうも嘘くせぇってこと」
「嘘くさい? なんで?」
「だってよー、あいつの言うように、そこがいいとこだってんなら泣かねぇだろ、普通」
「泣かしたの!」
「い、いやだからさ……最初に追いかけられたとき、あいつ――あそこにはもう戻りたくないって言って泣いちまったんだよ」
雷童は気まずそうに頭をかいた。
すると風林児も合点がいったように口を開いた。
「……もう一味じゃないって、そういうことか」
「まぁ、やつらの悪人面を見ててもわかるけど、あいつの言うように、いいとこじゃなかったんだろうよ。……むしろその逆だ。それにさ」
雷童はうなずいてから言葉を続けた。
「この件には、兄貴も関わってる」
「空雷さんが?」
風林児と氷雨が同時に尋ねた。
「そう。氷雨も聞いたろ? 兄貴が命の恩人だっていう蓮華の言葉」
「うん……」
「ってことは、だ。兄貴と蓮華はどっかで出会ってて、兄貴が蓮華をその一味から抜けさせたんじゃないか――って思ってよ」
「なるほどな」
「そうだとしたら、兄貴に聞くのが一番手っ取り早いんだよなー。でもなぁ」
雷童はどうにも気乗りがしない心地がして、そこで言葉を濁した。
風林児は黙ったまま話を聞いていた氷雨に顔を向けた。
「氷雨はさ」
「なに?」
「少し……蓮華の様子気にしてやっててくれない? こういうのって女の子同士の方がなにかといいだろうから」
「うん、任せて! 今度追っかけられるようなことがあったら、ずぶ濡れにしてやるんだから!」
風林児は口の端に笑みを浮かべながら、意気ごむ氷雨を見あげていた。
そのとき、キイ、と扉が開いた。
三人が揃って見ると、話の渦中にいた蓮華が入ってきた。はじめは浮かない顔をしていたが、そこに三人の姿を見てパッと笑った。
「雷ちゃん、ふっくん、帰ってきてたんやね。おかえりなさーい」
「お、おう」
「なんや雷ちゃん、元気ないなー。どうかしたん?」
「べ、別になんでもねぇよ」
「ふぅん……あ、そやそや。雷ちゃん、お兄さん呼んでたで?」
「兄貴が?」
蓮華はこくりとうなずいた。
「この下の階の右側にある左から三番目の部屋で待ってるって」
「覚えずらいとこで待ってんな……右の左の三番目だな」
「そうや」
「ありがとさん」
雷童は簡単に礼を述べると、空雷が待っているという部屋へと向かった。
春山の屋敷は高楼で、見あげると階段が屋根まで続いているように思えた。黒い手すりは丹念に磨かれた形跡がある。そこに指紋をつけるのがなんとなく阻まれて、雷童は階段のど真ん中を降りていった。
右に目をやる。
すべてこちら側を向いた扉を、蓮華が教えてくれたように左から数えていった。
「三番目――あそこか」
雷童はすたすたと扉の前までくると、こほん、と咳払いをした。
そして仰々しく扉を三回叩く。
「こんちはー、魚屋です」
シン、と自分の声だけがむなしく響き渡る。
「……ちぇ、つまんねーの」
雷童はゆっくりと扉を開いていった。
「入りますよー」
そろりそろり、と足を踏み入れていく。
「あれ?」
真っ暗だった。
人を呼ぶからには、せめて灯りくらいついているべきだろう。しかし、言われた部屋は日の光ですら入っていない。曇りというせいもあるが、明らかに人為的に暗くされたようだった。
「……ここで、あってるよな」
雷童はもう一度部屋を数えなおした。
やはり三番目だ――何回数えても。
「おっかしーな。まだだれもきてないのか? っとに兄貴のやつ……呼ぶんだったら、灯りくらいつけとけよ」
ぶつぶつ文句を言いながら、雷童は暗闇に包まれた部屋へと入った。
調度品とぶつからないように前へと進む。
「えっと、たしかこっちが窓だったはず……」
間取りはさっき風林児たちといた部屋とそう変わらない。ちょうど逆になった形だった。
「っとによー、なんだってんだ……まったく」
そう言って、雷童が窓辺に近づこうとしたときだった。
「雷童」
「なんだよ、きてたんなら早く言え――」
鈍い音がした。
雷童の目の前が暗くなる。
感じるのは、腹部の痛み――それすらも薄れはじめていた。
「……おまえがいると、だめなんだ」
だれかの低い声がした。
(……だめ……? なに、が――)
雷童はそこで意識が途切れた。
ぐにゃりと雷童の体が崩れ落ちる。その体をだれかが抱きかかえた。
「ごめんな雷童……」
そう言って、雷童をどこかへ運んでいった。
次回もどうぞ読んでください!