第三夜(六)
人形師
雨が降り出しそうだった。
湿っぽい風がまるで嘲笑うかのように、雷童のほおにあたる。木が一本しかないこの場所は、風のかっこうのとおり道なのだ。草の上を走ってきた空気の流れに混じり、抹香の匂いが漂っている。
足の裏に伝わるひんやりとした床の冷たさと、歩くたびにきしむ木の音が、ますます寂しさに拍車をかけているようだった。
静寂の底にいるとはこんな感じなのだろう。生き物の気配が一切ない。無駄に動くものがどこにもない。鳥がさえずるわけでもなく、蝶が花の周りを飛び交うわけでもなく、蟻が餌を探し求めて歩き回っているわけでもなかった。いまこの瞬間、息を吸い、ときを刻んでいるのが自分と前を行く満年斎だけのように思えた。
そのとき、廊下のつきあたりからふっと人影が現れた。
雅な趣向を凝らした着物の裾を、床に引きずるようにして向かってくる四人の女たち。
(ん?)
ふと雷童は違和感を覚えた。
徐々に近づいてくる女たちの顔。どれも全てみな同じだった。目つきも鼻の形も唇の位置も首の傾きでさえ、そっくりそのまま写したようだ。歩幅も速度も一緒。黒髪を首の根元辺りで二つに結っていることも、寸分違わず同一だ。
すると女たちは満年斎と雷童のために、それぞれ道の隅に寄った。そして頭を下げる。その中心を満年斎は目もくれずに進んでいった。
雷童は自分の顔が引きつるのがわかった。左右から二人ずつに深々とお辞儀をされているのだ。うぐいす色の瞳を、虚ろに光らせたまま、同じ角度で同じ時間礼をすると、するするとまた廊下を歩みはじめた。
雷童は後ろを振り返りながら、
「じいさんって、やっぱ偉いんだな」
と、ぼそっとつぶやく。
満年斎は苦笑した。
「いや、いまのはわしにではなく、おまえさんに頭を垂れたのじゃよ」
「俺に?」
「おまえさんは、わしらの希望なんじゃ」
「希望? 俺が?」
その問いかけには、満年斎は黙々と背を向けたままだ。
早く帰りたい。そう思いつつ、大きなため息をつく。そもそも呉羽を探しにきたのだ。兄と呉羽のつながりを知るために。そういえば、もう目を覚ましたのだろうか。
早く話がしたい。
雷童が円形の窓から、外を覗いたときだった。
「……夢うつつ……」
ハッとして廊下の向こう側に目を向けた。奥から歌が流れてくる。それはかすかに、そしてゆっくりと奏でられている。不思議な緊張感があった。
雷童はじっと耳だけに神経をめぐらした。
「ゆん――ゆら――夢うつつ……」
一歩進むたびに、その旋律が輪郭を取っていく。
「おまえの――どこに行く――母さん背負って――どこ消えた」
「……この歌」
雷童は自分の声が震えていることに気がついた。
ここにくる道すがら、少女が口ずさんでいたものだ。
「夢うつつ――おまえの兄さんどこにくる――妹かついで……」
じわりと嫌な汗が背筋を落ちていった。
(俺はどこでこの歌を知ったんだ? なんでだ? わかんねぇ)
知るはずのない旋律を知っているという恐怖。
必死に否定しても、耳はしっかりと覚えている。自分が二重にいる感じがした。
怖い。
雷童は手に汗を握っていた。足元も思うように運ばない。
自分の片割れが逃げろと言っている気がした。その反面、もうひとつの片割れが、なぜ歌を知っているのか――その理由を知る機会だから逃すな、と忠告している気もする。
心と体が離れそうだ。
満年斎はある一室で立ち止まった。外に漏れ出す高い歌声。障子で隔たれた向こう側に、それを奏でているだれかがいるに違いない。
満年斎は引き戸に手をかけると、静かに開いていった。
薄暗い室内に光が差していく。むせ返るほど焚きしめた香の匂い。部屋の中心に敷かれた布団に、女が一人座っていた。長く腰ほどまで伸ばされた髪は一くくりにまとめられ、白い襦袢から覗く細い指は、一心不乱に人形の髪をすいていた。そしてとりつかれたように歌を口ずさんでいる。
異様なほど存在感があふれている女の姿。
雷童は金縛りにあったように動けなかった。
女は明暗の変化に気づいたのか、人形の髪をすく手を一瞬止めた。
「ねえ、安寿はどこ?」
背格好のわりに、幼げな声だ。
女は再び人形の毛に指を絡ませた。
「しばらく会っていないの。どこにいるのか、おまえなら知っているはずでしょう?」
「そうですのう」
満年斎はそっと女に歩み寄る。
「会いたい会いたい……安寿、安寿」
女は繰り返しつぶやいていた。
その様子を見て愕然としていた雷童に、満年斎はそばにくるよう手招きをした。雷童はいますぐここから立ち去りたかったが、意思とは反対に、足が一歩前に出る。抗えないなにかの力に吸い寄せられるように、そろそろと満年斎の背後に立った。
「最近、目を悪くしなさっての。そこに――座んなさい」
満年斎は女の目の前を指差した。雷童はためらいがちにうなずく。人一人分の隙間を空けて、静かに正座をした。
「もっと前に」
言われるまま、雷童は布団をひざで踏んだ。ぶ厚い綿布団だった。沈みこむようにしてしゃがむと、雷童はじっと女を見つめた。
ここからでも顔を垣間見ることができない。女は手元にある人形をずっとなでていた。
「常葉さま、目の前に安寿がおります」
雷童はつばを飲みこんで、両膝に置いた拳に力を入れた。常葉と呼ばれた女の手が止まる。風が入り、カタカタと飾ってある額縁をゆらしていた。
「安、寿……」
常葉はゆっくりと、そして求めるように両手を空中に差し出した。捜し求めている動きで、徐々に雷童に近づけてくる。
雷童は黙ってその手の様子に釘づけとなっていた。逃げ出すことができない。なぜか、そこに座り続けなければならない気がしていた。
常葉の指先が、雷童の手の甲に触れた。
ゾクリ、と悪寒が走る。
払いのけることもできず、雷童は目をつぶり耐えるよう自分に言い聞かせた。どんどん這いあがってくる。手首――腕――肩――そしてあご。
ついにほおまで達したとき、常葉は愛おし気に雷童の眼帯を指でなぞった。
「ああ、安寿。私のかわいい息子」
そう言うと、常葉は雷童に向け、初めて顔をあげた。
雷童ののどがひきつった。のどの奥で言葉と空気がぶつかり合い、むせそうになる。
自分の瞳に映る、白い肌、血の色のような口紅、そして目元のほくろ。両目には白い布が巻かれ、常葉は輪郭だけで雷童の存在を感じているようだ。
ほくろ以外の全てが、呉羽と瓜二つだった。口角のあがり具合から、眉の形まで生き写しのように顔が構成されているのだ。
(このおばさん……いまなんて?)
「安寿、なんだか今日はいつもと違う感じがする……なにかあったの?」
顔に手をあてたまま、常葉は不思議そうに首をかしげた。
「い、いや……」
「それになんだか、声まで違う」
口調に少しだけ力がこめられた。
常葉の言葉は、捕らえて離さないくもの巣のようだった。糸に絡まれた虫のように、ぴくりとも体を動かせない。ただ、じっと常葉の前に座るだけ。自分でもどうして微動だにできないのか、理解できなかった。
「常葉さま、彼が本当の安寿です」
満年斎がすぐ横で言う。
「それなら、一ヶ月前に現れた安寿は偽者だったというの?」
「彼こそが――轟宮だったのです。彼は安寿になりかわり、わしらの前に現れた。そして安寿を演じていたのです。それも全て呉羽の策略どおり、ということですな」
「そう……」
小さくつぶやかれた言葉には、刃物のような冷たさが含まれていた。切っ先のような危うい声。常葉の周りだけ空気の温度が違うかのように、ひんやりとした風を感じる。
ふいに常葉がクッと笑った。
「姉さんの思うとおりにはいかないから……」
「そうですな。本当の安寿もこうして戻ってきたわけですしの」
常葉はひざ立ちになると、口の端をほころばせた。
「安寿、もう安心していいのよ。やっと帰ってこれたのだから」
常葉はすいっと雷童に近寄る。雷童はぼんやりと常葉を見つめていた。普段なら、とっくにあとずさりをし、立ちあがって逃げているだろう。自分で自分がわからない。ただ、常葉がなにか口にするたびに、どんどん心の緊張の糸がほぐれていって、全身から力が抜けていくのだ。
常葉の手のひらが、雷童の頭をなでる。幼子にやるように、優しくそっと髪をすいていく。別に嫌だという感情にはならなかった。そんな自分を変に感じる一方で、このままでもいい――そう思いはじめている自分もいる。
(なんか……眠くなってきた……)
最初、この部屋に入ってきたとき鼻についた香の匂いも、いまでは落ち着きを覚えるものに変わっていた。
「安寿、やっと私の元へ――母さんのところに帰ってきたのよ」
そして常葉はそのまま雷童を抱きしめた。しみついているのか、常葉の襦袢からも同じ香のにおいが漂っていた。大きく息を吸いこみながら雷童は常葉の肩口に頭を預け、彼女の発言を心のなかで繰り返してみた。
(母さん……? 一体、どういうことなんだろ……本当に、俺の、母親……?)
まるで膜がかかったように、思考回路が停止していく。考えるのが面倒くさくなる。このままなにも考えないで、ぼーっとしていたい。そんな気持ちが雷童にわきあがった。
瞳も虚ろになってきた雷童の背を、常葉はある一定の間隔でゆっくりと叩きはじめた。
トン、トン、常葉の心臓の鼓動に合わせて、繰り返される手の動き。赤子をあやすように優しい振動を心地よく感じながら、雷童は本当に眠たくなってきた。まぶたが重くなってくる。意思に反して勝手に視界が閉じていく。
常葉は子守歌を口ずさんだ。
「ゆんゆんゆらゆら――夢うつつ……おまえの父さんどこに行く――母さん背負ってどこ消えた……ゆんゆんゆらゆら――夢うつつ……」
雷童は一瞬意識がとんだ。ハッとしてまぶたをこじ開ける。襲ってくる眠気と戦いながら、なんとか起きようと試みた。その様子に気づいたのか、常葉は雷童の耳元でやんわりと囁いた。
「いいのよ。安心してお眠りなさい。ここはあなたの家。あなたのいるべき場所。逆らわないで、自分に従いなさい。さあ、眠って……ゆんゆんゆらゆら、夢うつつ――」
不思議な安堵感がある。雷童は初対面の人に、こんなに心が許せるのか――そう疑問を抱えながら、それはこの人が母親だからだろう、とどこかで納得しはじめていた。
トン、トン、止むことはない自然な拍子。夢見心地のなかで、常葉の声が小さくこだまする。
「全部、忘れてしまいなさい。あなたには――必要ないものだから」
(……必要、ない……?)
朦朧とする頭で繰り返す。
「関わってきた人間、そしていままで名乗っていた名前も――全部」
(……ぜ、ん……ぶ……?)
すると常葉は見透かしたように囁き続ける。
「そう、全部。あなたの名前は安寿……そして私の息子。それだけでいい」
すでに瞳は閉じていた。常葉の言葉ひとつひとつが、心に響いてくる。自分が作り変えられていくようだった。
「わかった? 安寿」
念を押すように常葉は尋ねた。
「わか……った」
自分の声なのに、別なものに聞こえる。
常葉は満足したらしく、軽くほほえんでいた。
「いい子ね。あなたは私たちの光なの。この世界を生まれ変わらせる希望なの。いい?」
雷童は小さくうなずいた。
「だからまず、宮たちを殺すことからはじめましょうか……。そうね――まずは私たちをだました雷の轟宮と風の鳴宮なんてどうかしら。二人一緒に殺すのよ。そうしないと、意味がないの」
(……宮……?)
おぼろげながら考えてみた。確か、よく耳にしたような感じがある。でもどうでもいいような気さえする。
「大丈夫、心配することはないわ、簡単よ。その右目があればね」
常葉はぎゅっと腕に力をこめた。
「この世界は変なの。ありもしない幻想に振り回されて、不死鳥なんてばかげたものを信じて、ひたすら崇めているなんて――愚鈍もいいところ。そんなかわいそうな人間を、私たちが救ってあげるの。差別、偏見、格差……そんな汚くて醜いものにとりつかれてる人間を、私たちが導くのよ。……不死鳥なんていらない。あんなものがあるって信じてるから、どんどん世界は朽ちていくの。安寿――あなたもわかるでしょう? この世界は汚れてる。なにを見たって、どこに目を向けたってきれいなものなんて、ひとつもありはしないのよ」
常葉の言葉が頭のなかで反芻する、鳴り響く。
「だから、あなたがこのよどんだ世界を救うのよ」
(救うんだ……俺がこの汚い世界を――)
『きれいな空やなぁ』
だれかの声がよぎっていった。聞き覚えのある明るい口調。
(きれい? なんで……?)
『この世界はな、いろんな顔があるんやって。同じ景色に会うことって絶対ないし……それにな、見方によってたっくさんの色があるんや』
そう言って笑ったのはだれだろう。
ふっと瞳をこじ開ける。ぼやけた視界に浮かぶ、暗い部屋の内部。空気中に薄ら白い煙を描きながら、焚かれ続ける香木。すぐそばにある小さい人形は、漆黒の髪を布団の上に散らばせながら横たわっていた。
その同じような黒髪を、二つのお団子にしていたのは――
『万華鏡なんや』
「蓮……華」
ふと名前を口ずさんだとき、常葉の体が強張った気がした。急に手の動きを止め、肩をつかむとがくがくとゆらしてくる。そんな常葉の表情をおぼろげに見つめた。
「忘れなさい。あなたは安寿――私の息子なのよ」
常葉は切羽詰ったように、何度も『忘れろ』と言っている。
「いい? なにか考えちゃだめよ。考えないで私の声に耳を傾けて」
『なにも考えてないって思ってたけど、案外考えてるのね』
常葉の声に重なるように、強気な語調が聞こえた。空色の髪をしただれかの言葉。
「あなたは安寿……安寿なんだから。ほかのだれでもないの」
『おい、雷童! おまえちゃんと考えてるのかよ』
常葉に言い聞かされるたびに、違う声が覆い被さってくる。自分に手を振る、銀の風を操る少年が浮かんできた。
自分のことを『安寿』だと主張する常葉と、『雷童』と呼ぶなつかしさを感じる彼ら。双方が心のなかで火花を散らす。
「安寿、安寿! 答えてちょうだい!」
常葉は半狂乱で叫び続ける。
「俺……は……」
ぎゅうっと目をつむり、両耳をふさいだ。
ゆさぶられ続ける体も痛いし、空間がぶれたように常葉とだれかから一緒に言葉を浴びせかけられ、頭がわんわんする。
どうにかしてほしい。たたみかけられても、どうにかなる問題じゃない。自分はどっちなんだろう。『安寿』なのか『雷童』なのか――果たして、どちらが正解なのか、思い出せない。
「俺は……」
常葉は躍起になって、両肩を強くつかむ。
「安寿!」
「……俺は……」
「安寿っ!」
『雷ちゃん! 雷童!』
次の瞬間、頭のなかに電流のような光が走り、雷童は常葉を突き飛ばしていた。なにかが部屋の隅へ転がっていく。
慌てて常葉に駆け寄る満年斎と、布団の上で呻いている常葉。その二人に目を落としながら、雷童は額に汗を浮かべ、荒く息をしていた。
「……う」
くらくらする頭を支えるように押さえて、ふらっと立ちあがる。
「安寿……」
常葉はうなだれたように、下を向いていた。
雷童は次第にはっきりと見えるようになった視力で、常葉を見下ろした。
「違う――俺は……俺は、雷童だ」
「なに言ってるの? あなたの名は安寿なのよ」
「違わねぇよ……この名前は、俺の親父がつけたもんだ。それに――」
ぐいっと汗をふくと、
「わざわざ『ちゃん』づけで呼んでくるやつがいるんだよ……だから俺は『雷童』でなくちゃならねぇんだ」
吐き捨てるように言った。
「待って」
常葉はすっと立ちあがる。
無言で雷童との間をつめると、前髪をかきあげた。目の前にある常葉の顔。
「ひどいでしょう」
雷童は金切り声をあげたくなる衝動を必死で抑えた。
最初見た、呉羽そっくりな顔とは到底似ても似つかなかった。こけたほお、ひびだらけの唇、穴が二つあいたような鼻。そして薄黒いしわだらけの首。目は布で覆われ、全て手の感覚のみで外界を認識しているようだ。
雷童が言葉を失っているのに気づいたのか、常葉はにたり、と気味の悪い笑みを浮かべた。
「これはね、あの鳥の業火に焼かれたの。つい最近、目は見えなくなって、こうしてどんどん肉が腐っていくのよ」
「常葉さま、これを早く」
満年斎が部屋の端に転がっていたものを手早く拾い、差し出した。常葉はそれを受け取ると、自分の顔の上に重ね合わせる。
白い面だった。
「だからね、こうしてむかしの顔を写した面を、被って生きているのよ」
面と皮膚の境が消えていく。肌と同化するように、常葉の顔が面になっていった。
「そ、そんなことができるわけ――」
「私は希代の人形師――常葉。こうして自分の顔を作ることくらい、なんてことないわ」
紅色の唇が、そう語る。
雷童はじりっと後ろに下がると、廊下に飛び出た。
「いいわ、どこへでも行きなさい。でも覚えておいて……あなたはすぐここに戻ってくる。そう、必ずね」
雷童はわき目も振らずに駆け出した。縁側を飛び降り、草原を突っ切っていく。
「ゆんゆんゆらゆら、夢うつつ……足元照らせば底なしで――目の前灯せばなにもない ゆんゆんゆらゆら、夢うつつ……」
常葉の歌声がかすかに聞こえてくる。
雷童は耳を覆い、ひたすら走った。
その後ろ姿を見ながら、満年斎はぽつりと言った。
「あんなに自我が芽生えるとは……思いもよりませんでしたな」
「そうね――でも、さすが私の最高傑作だわ。そして私の大事な息子」
笑いを含ませながら、常葉は淡々とつぶやく。
「そう、だからこそだれにも渡さないから」
そのとき、ぽつんと水滴が落ちる音がした。
ついに、曇天から雨が漏れ出し、石の表面に黒い斑点を落としていく。
次回もどうぞよろしくお願いします!