第一夜(一)
風と雷と
空はどこまでも真っ青で、地平線の境では空と大地とが山で重なり合い、溶けた青が山脈までも染めていた。
さらさら、と木の葉がすれ、花に彩られた森では、小鳥たちがいつもと変わらずに子守唄を奏でている。
緑陰から差しこむ光に目をそばめながらぼーっと見あげていると、ずるりと眠気に引きこまれそうになる――そんな穏やかな昼だ。
首が前に傾いた衝撃でハッと目を覚ました雷童は、寝ぼけ眼で辺りを見渡すと、特大のあくびをした。
「おっせぇな……あいつ」
褐色の短い髪をぽりぽりとかきながら、つぶやくように言う。黒地の拳法着をだらしなく着たまま、雷童は立ちあがった。
「また、里のやつらにでもからまれてんのかな……」
雷童は左目を覆う眼帯をはめなおすと、そのまま歩きはじめた。
そこはぐるりと山に囲まれた土地の低い里で、雷の力を持った人々が暮らす場所だ。彼らが尊敬してやまないのは、雷童の父でもある轟宮。そしてそのあとを引き継いだ兄の空雷。この二人は里の全員から全幅の信頼を得ていたのだった。
(里になんか行きたくないってのに……)
雷童は右目をこすった。
重たい足取りとは正反対に、風は軽やかに吹いていく。
里の裏門までくると、待っていた人物が、老若男女の人だかりの中心にいるのが目に入った。ここからでも、人の良さそうな笑みを振りまきながら困っているのが手に取るようにわかる。
銀色の髪を襟元でひとつにまとめた少年は、なにやら差し出される贈り物を丁重に断っているようだったが、なかなか里の人たちも引き下がらない。人々はなんとか彼の手に握らせようと押し付けあっている。銀髪の少年が人の合間をぬうように一歩足を踏み出すと、その動きと同時に人だかりも移動していた。
雷童はその様子を遠目に見ながら、やれやれとため息を落とすと、
「おい! 風林児!」
銀髪の少年に向かって大声で叫んだ。
風林児が振り向くのと同時に、それまで周囲にいた人々がさっと散っていった。
「あ、雷童」
風林児はホッとしたような顔で雷童のいる裏門に走ってくると、雷童のイライラした様子に気づいたのか、決まり悪そうな笑みを浮かべた。
「なにが『あ、雷童』だよ。思ったとおり足止めくらってたしよー」
「だって、そうむげに断ったりなんてできないだろ?」
雷童はちらっと風林児の両手を見た。
「じゃ、それなんだよ?」
「え? ああ、これ?」
風林児は手元に目をやると、荷物をひょいと持ち上げながら、
「これは手作りの弁当。母上が持って行きなさいって……」
「ふぅん。とにかく早く行こうぜ。居心地悪ぃしさ」
そう言うと、雷童は腰に手をあてたまま周りを一瞥した。
ひそひそと交わされる会話。冷たい視線。そして入りこむことさえ許さないこの距離感。
雷童は大きなため息をつくと、そのまま背を向けて歩きはじめた。
「風林児さま、あんなやつとつき合っては……」
老婆がぐいっと風林児の袖を握った。雷童がじろっと眼帯越しににらむと、身をすくめパッと手を離す。
そんな老婆の肩に風林児は優しく手を置いた。
「大丈夫ですよ。おばあさんが思ってるほどあいつは……」
「風林児、先に行ってるからな」
念を押すように言うと、雷童はずんずん歩いていく。
「ま、待てって」
風林児が慌てたように追いかけてくるのを背中で感じながら、雷童は気づかれないようにため息をついていた。
木立は明るい空気でいっぱいだった。ときどき頭上を小鳥たちが飛び、緑の匂いが肺の中に入ってくる。
「なあ、雷童」
ずっと黙っていた風林児が、突然呼びかけた。けれど雷童は振り向かない。風林児はあきらめたように話を続けた。
「まだ、誤解されてるんだ」
雷童はなにも答えないまま、ただ風林児の言葉を聞いていた。
「俺の父上も言ってたけど、あれはおまえのせいじゃないって。だから責任感じる必要なんてないんだぞ?」
「……別に。責任なんて感じてねぇし……ただ関わるのがめんどくさいだけ」
「でもそれじゃ……」
「風林児さー」
急にくるっと雷童は振り返った。そしてにやっと笑う。
「甘いもん好きだったよな?」
「え、うん」
途端に話が変わったことに風林児は面食らったような顔をしたが、雷童は得意げな笑みを浮かべたまま、森の奥へと進んでいく。
風林児は相変わらずだ、と雷童は思っていた。物腰柔らかで、嫌味のない口調。襟まできちんと着こなした様相は、彼の生真面目な性格を如実に表していた。緑色の絹織物に、金糸の留め具が斜めに切りこまれた服を、涼しげにたなびかせている彼は、本当に風のようだった。どこか兄と似た空気を持っていると感じる。
雷童は窓から煙の立ちのぼる小さなあずまやの前までくると、にししっといたずらを考えついた子どものような顔をした。
「今日わざわざきてもらったわけは……」
そう言うと、雷童は思い切り引き戸を開け放った。鋭い音とともに部屋の中が丸見えになる。
「じゃーん! 鳴宮さまの継承祝賀会でございまーす!」
こぢんまりとした部屋の中心にある座卓の上に、なにやら大きな焼き菓子が乗っていた。
「これ、もしかして円餅!」
パッと瞳を輝かせながら、風林児はまだ熱の持っている菓子に近づいた。
「雷童が作ったの?」
風林児が感嘆の言葉をあげている横で、雷童はフフン、と鼻を鳴らした。
「そうさ、大変だったんだからな! まず小麦粉こねるだろ、そいで餡子をつめてー、最後にこの焼きあがり。おまえがもたもたしてなかったら、できたてだったんだけどさ」
そう言いながら、雷童は棚の中から一番きれいな陶器を引っ張り出した。赤い椿が描かれている茶器をごしごしと布で拭き、水で軽くすすぐと薬草を煎じたお茶をついだ。透きとおるような茶から、香ばしい匂いが漂う。
それを風林児に差し出すと、雷童は少し欠けた自分専用の陶器にも注ぎ入れた。
「じゃ、適当に座れよ」
突っ立ったままの風林児に座布団を渡すと、彼はちょうど雷童の真向かいに腰を下ろした。
「それじゃあ、乾杯といきますか!」
雷童はあぐらをかきながら、陶器をすっと持ちあげた。風林児も同じように掲げる。
「風林児がようやく十六歳で鳴宮さまになれたことを祝いまして……」
「その『ようやく』って余分だろ」
「ま、細かいことは気にしないしない! ほいじゃ、乾杯!」
カツン、と互いの器がぶつけられた。
寝るためだけの小さな家から、二人の少年の笑い声があふれていく。
草木が暖かな日差しを受けていた。
「それで、いつからここに住んでるんだっけ?」
円餅をたいらげた風林児は、母親の手作り弁当を食べている雷童に聞いた。
「んー、兄貴がいなくなってからだから――もうすぐ一年……かな」
そうつぶやくと再び弁当にがっついた。色彩豊かに盛りつけられただれかの手作り料理は、久しぶりの味だったのだ。無我夢中で食べていると、風林児がじっと見つめていることに気がついた。
「……なんだよ」
「いやおいしそうに食べてるな、と」
「気持ち悪いから見るなよ」
もぐもぐと口を動かしながら、厚揚げを箸で刺したところだった。
「屋敷には戻らないのか?」
ふいに風林児がどこか遠い目をしながら静かに尋ねた。
目鼻立ちの整った顔を柵格子の方へ向け、雷童の返答を待っているようだった。
「……別に」
ムスッとしながら、本来は食べるはずだった厚揚げを意味もなく箸で刻んでいると、
「屋敷の建て直し、ずいぶん進んでるみたいだし。だから……」
「あのなぁ、あれは兄貴が見つかったときのために建ててんの。俺は住みたくない……正直言って、ここにいる方が気が楽なんだってば」
「じゃあやっぱりあの事件が原因なんじゃないか」
雷童は思わず言葉をつまらせた。この幼馴染は毒のない笑顔を向けながら、決まって人の心の核心をついてくる。有無を言わせぬ灰色の瞳からは、いつも逃れられない。
雷童は観念してはぁ、とため息をつくと、
「そりゃ、親父が死んだのは俺の……」
「た、大変だーっ!」
雷童の言葉を遮って、男が一人駆けこんできた。青ざめた表情で、肩で荒く息をしている。がくっとひざをついて倒れこんだ男のそばに、すかさず風林児が駆け寄った。
「大丈夫ですか? どうかされたのですか?」
「あ、あ、鳴宮さま……ここにいては危険です。変なやつらが宮を狙って……!」
「宮――を?」
雷童が思わず口を挟むと、男は見向きもせずに何度も首を縦に振った。
「そ、そうなんです! 轟宮さまが目当てらしくって……だっ、だから鳴宮さまも早くお逃げになられた方が……」
男は乾いた喉をうるおすようにつばを飲みこんだ。
風林児はわけがわからないといった顔を雷童に向けている。雷童もひょいと肩をすくめた。
すると男は急に雷童に向き直った。
「そうだ! おまえ鳴宮さまを連れて逃げろ! いくら役に立たなくってもそれぐらいできるだろ!」
「ま、まあ……落ち着いてください。それで里のみなさんは大丈夫なんですか?」
風林児がそっぽを向いている雷童の間に入ると、取り成すように言った。
「え、ええ。なんとか防いでいますが……ああ轟宮さまがおられたら」
「おい、おっさん」
突然、雷童が仏頂面で男の前に仁王立った。男は無言で雷童を見やる。
「変なやつら、兄貴――轟宮を狙ってるんだよな」
「……だからどうした」
その答えを聞いて、雷童はにやっと笑うと、
「いいこと思いついた」
と、眼帯に手をあてた。
「お、おい! 雷童、おまえまさか!」
風林児が制止する前に雷童はあずまやを飛び出していった。そのあとを追うように風林児も駆けていく。
ポツンと取り残された男は、茫然と二人の少年の後ろ姿を見つめていた。
ここまで読んでくださり、ありがとうございます。次回も楽しんでいただけましたら、喜びです。