第三夜(三)
ある種の確信
雷童はじっと男の背中を追いかけていた。深緑の布をはためかせて、どんどん遠くなっていく。身軽に、けれど向こうが加減しているのか、見失うことはない。一定の距離を保ったまま、雷童と氷雨は追い続けていた。
自分の真横にいる氷雨の顔に、だいぶ疲れが見える。けれど、意地と執念からか足を休めようという気配はない。拍子のように荒い息だけが落とされる。
「雷、童っ……あんた、あれ――使ったら?」
息も絶え絶えに氷雨が言った。
「あれ?」
「門、燃やしたでしょ。それをあいつに、使ってよ……ちょっと足止めするだけで、いいからっ」
氷雨の言いたいことはわかる。要は、どこかに火をつけろ――とそう言っているのだ。
でも――と、そこで雷童は首を縦に振れなかった。もし、追っているのが知らない人だったら、不意を突いてやろうかと思うかもしれない。けれど、あれは兄かもしれないのだ。どうやっても兄に向けて火を放つことなんて、自分にはできない。
「だめだ」
低く唸るように答える。
「どうしてよ」
「だめなもんは、だめなんだ」
横で氷雨が不満そうな顔をした。すると少しだけ氷雨の走る速度があがった。
「お、おい、氷雨」
「いい! あたし一人で、やる!」
氷雨はぶつぶつとなにかを唱えはじめた。
「ちょっ――やめろって」
「大通りに出る前に、つかまえなくちゃ!」
男を追うように、道が凍りはじめる。
雷童は叫びそうな衝動に駆られた。
まずい――そう思った瞬間、男が気がついたようだ。氷に追いつかれる寸前に、男は宙に向けて跳ぶ。
その緑の影を目で追いながら、雷童は自分でもよくわからない気持ちに板挟みとなっていた。
会いたい。でもつかまってほしくない。けれど話さなければ、兄の真意がわからない。だけどその口から、言葉を聞くのが怖い。
「絶対、逃がさないんだから!」
氷雨はぴたっと急停止した。雷童はハッとして氷雨を見る。氷雨は片手を前に突き出した。
「あの男をつかまえて!」
その瞬間、地面を這っていた氷が手のように伸びはじめた。宙へと逃げた男を追う。雷童は息をのんだ。これ以上走り続けることも、兄の名を呼ぶこともできずに、ただ氷の手から逃れ続ける男を見守ることしかできなかった。
だが、男が地面を蹴り上げ、着地しようとした瞬間、
「おーい! 雷童ー!」
「風林児! 蓮華!」
雷童と氷雨は急に物陰から現れた人物に声をあげた。
彼らもまた自分たちと同様に走っている。
「風林児! その男、つかまえて!」
氷雨が声を限りに叫ぶと、風林児は気づいたようだ。その途端、男の踏みこみがあまくなった。
雷童はギクッとあることを思い出した。
「おい、だめだ! 風林児、……触っちゃだめだーっ!」
「は? あんた、なに言って――」
爆発音とともに閃光が走った。突風が巻き起こる。
鼓膜がキンとつまった。なにも聞こえない。風圧と光で目を開けられない。雷童はなんとか手を伸ばし、そばに氷雨がしゃがんでいるのを確認した。
風林児と蓮華の悲鳴、そして男のうめき声が風に混じって聞こえる。
雷童はかがみながら、なんとか彼らに近づこうと試みた。進むたびに、巻きこまれた木の葉が顔に当たってくる。
そのうち、だんだんと風が止んできた。
耳がジンジンする。雷童は両耳を押さえながら、ふらつく足取りで立ちあがった。急に光を直視したせいか、視界が霞んで見える。幾度もまばたきを繰り返しながら前方を見ると、白い煙に覆われていた。下の方に黒い影が三つ固まっている。
雷童は声をかけるよりも早く、その場に走り寄った。
焦げ臭い。煙を追い払いながら近づくと、まず蓮華の赤い服が目に飛び込んできた。
「蓮華! 大丈夫だったか!」
「雷ちゃん……ふっくんが」
目に涙をためて、蓮華が雷童を見あげた。どうやら怪我はしていないようだ。蓮華は視線で風林児のいる場所を示した。そのすぐ横に、追いかけていた男もうつぶせで倒れている。風林児は火傷をあちこちに負っていた。
「風林児……!」
雷童は兄の名を押し殺しながら、風林児と男をゆさぶった。
どちらの反応も見られない。ぴくりとも動かない。
雷童は血の気が引いていくのを感じていた。
蓮華はへたりと雷童の隣に座りこんだ。
「ふっくんな……爆発起こる前に、うちを突き放してくれてん……だから、うちは平気やったんだけど――それにそっちの人、大丈夫なん?」
雷童は男を抱えると、体勢を変え、仰向けにさせた。茶がかかった金色の髪を、一くくりにしていた紐が、はらりと落ちる。全身に細かい切り傷があった。
「この人!」
蓮華は口を両手で押さえ、半信半疑のような眼を雷童に向けた。
「知ってんのか?」
「ねえ……」
すると背後から愕然とした氷雨の声がした。
「なんで、風林児が怪我してるの……? それから――」
氷雨は鋭い眼差しを男に向けた。思わず雷童は男をかばうように抱えなおす。
「そいつの意識が戻ったら、なんで水の谷を襲ったか、聞かせてもらうわ」
「襲った? だれが?」
突然、蓮華が虫の鳴くような声で尋ねた。
「その――雷童が抱えこんでる男よ!」
「――そんなはずない!」
蓮華が怒ったように立ちあがり、真っ向から抗議した。こんな風に怒った蓮華を見たのは、氷雨はもちろんのこと雷童も初めてだった。
氷雨は一瞬たじろいだ様子をみせたが、
「そんなはずないって――なに言ってるのよ! こいつは、あたしの谷をめちゃくちゃにして、母様に怪我を負わせたやつなのよ!」
「それはなんかの間違いや! この人はそんな悪い人じゃないねん!」
「なっ、なんでそんなこと言い切れる――」
「この人は、うちの命の恩人なんやもん!」
静寂が訪れた。きな臭い匂いも、徐々に引きはじめていた。
だれもなにもしゃべらない。
蓮華は大きく息を吐き出すと、
「うちは、この人に助けてもろうたんや……」
と小さくつぶやいた。
雷童は事情が飲みこめなかった。氷雨を見あげると、彼女も同じ気持ちなのか、その顔には動揺が色濃く浮かんでいた。
「とにかくさ」
「そこでなにをしとる!」
突然聞いたことのある騒々しい声が、雷童の話に割って入った。
どすどすと足を踏み鳴らしながら、偉そうに歩いてくる。
「この忙しいときに、よりによってたらこのおっさんかよ」
雷童がげんなりしていると、春山が部下を引き連れやってきた。
「この辺で爆発があったと聞いてやってきたら――おまえらか。まったくなにをやっとるんだ――これ以上、騒ぎを起こしてくれるなよ」
そして春山は片眉あげながら、ちらっと風林児と男を見た。
「なんだ、怪我人か。しょうもないな。おい、おまえら。こいつらをわしの屋敷に運んでやれ」
春山は、ずれた烏帽子を被りなおしながら命令した。
言われるまま、屈強な男たちが二人を抱えあげる。
「で、なにをしとったんだ、おまえら」
春山の質問に、だれも答えない。雷童と氷雨そして蓮華の三人は、それぞれ別な方角を見つめていた。重苦しい雰囲気が流れている。
春山は悪態をつきながら、それ以上なにも聞いてこなかった。
ぞろぞろと一行は春山の屋敷に向かう。
雷童はそこからどんな道のりをたどったのか、途中なにを見てきたのか、まったく覚えていなかった。ただ、頭のなかでぐるぐると謎が渦巻いていた。
一体、兄は姿を消していた一年の間、なにをしていたのだろう。蓮華とどうして面識があったのだろう。そして、なぜ急に現れた?
すべては兄の目が覚めるまで、解けることはなさそうだった。
厚い雲が静かに動いていく。
楽しんでいただけましたら作者冥利につきます。