第三夜(一)
第三夜はじまりました。
束縛の連鎖
今日も大樹から落ち葉が散っていた。
人の顔よりも大きな葉が、時折はらり、と落ちていく。
朱里のいたるところに散乱しているが、数が少ないせいか、あまり人々は困っていないようだ。むしろ、不死鳥の葉として手厚く集められている。
空には灰色の雲が重く垂れこめていた。
曇りのせいだろうか、心なしか大樹も元気がないように見える。屋根瓦の波が通路を挟んでどこまでも続く朱里。東の方角には赤い瓦がひしめき合っている。西側には青、緑、黄色、そして黒、灰――とさまざまな色の瓦がまばらで小さい家が多い。これは、住んでいる家で生まれを表すため、設けられた決まりだった。
朱里は、早朝から慌ただしい雰囲気に包まれていた。
幾重にも重ねられた上等な衣を着こなし、春山と同じような烏帽子と笏を持った人々が出歩いている。そして巻物に目を通しながら、決められた店へと入り、しばらく経ったあと、また別の店へと入る――ということを繰り返していた。
雷童はだれよりも早く目を開けた。風林児はまだ夢のなかにいるらしく、穏やかな寝息を立てていた。
雷童はぼんやりとしてみた。黒い天井の梁。白く塗られた壁。香の匂いがする布団。
なぜか全てが懐かしかった。
そっと格子戸を開けると、山の端が白んでいるのが見えた。まだ日が昇りきってないのだ。連なる青い山脈を分断するようにそびえる――不死鳥の樹。その主の巣があるといわれる頂。いつも霧のなかに滲んでいる。
どうしてだろう。知っている気がするのだ。一体自分はなにを知っているのだろう。胸がざわざわするほどの既視感。
雷童はじっと不死鳥の樹を見つめた。夢のような映像が鮮やかに脳裏に浮かびあがる。
霧のなか。叫ぶ――いや、笑っている女。
女は駆けている。なにかを抱えて。あれはなんだろう? 白い布に包まれたもの。女は時折、それに目を移しては口の端に笑みを浮かべる。その目元にはほくろがあった。
(だれだ? 俺は知ってる?)
確かにだれかによく似ていると思った。見たことがある。けれど一体どこで見たというのだろう。なにせこの前きたばかりなのだ。
よく考えればおかしなことだらけだ。
初めてきたのに、初めてという感じがしなかった。最初、不死鳥の樹を見たときもそうだった。不思議と安堵を覚えた。――そしてこの家。どういうわけか体になじむ。
以前、ここにいたような変な感じ。本当にそんなことがあるのだろうか。いや、あるはずがない。そもそも朱里にきたのはこれが最初だ――のはずなのだ。
(……本当に?)
雷童は頭をぶんぶん振った。
目が痛い。眼帯に隠された瞳がチリチリ焼けそうだ。
雷童がトン、と格子戸を閉めると、淵に止まっていた小鳥が羽ばたいていった。
まだ起きるには早い。
雷童は夢につかっている風林児の横を通ると、部屋をあとにした。
ぎっ、ぎっ、ぎっ、と階段がきしむ。古い階段だ。穴でも開くんじゃないだろうか、と思う。一歩ずつ慎重に足を踏み出し、ようやく階下まできた。
ふと横を見ると、地下へと続く階段がある。呉羽に絶対入るな、と言われた部屋だ。朝だというのに、そこだけ取り残されたように暗い。
雷童はごくり、とのどを鳴らした。そして視線を引き剥がすように、廊下へと進む。
そのときだ。
『……兄者……もうすぐ、会えるよ』
聞こえたのは高い子どもの声。
朱里にきた頃より鮮明に、かつ、すぐそばで言われている気がした。
(なんだってんだよ……!)
耳をふさぐ。力をこめる。
そしてわざと大きな音を立てながら、雷童は人形だらけの廊下を突っ切り、そのまま外へ出た。
「……はぁ」
曇天のせいか、気分まで暗くなってくる。
そばにあった岩に腰かけると、苔が生えているせいか、じっとりと湿っていた。
空が近い――。雲が厚いせいか、そんな錯覚を覚える。
雷童はさっきの続きを夢想しはじめた。
女はどこへ向かったのか。ぼろぼろの着物を引きずるようにして。一人悲しそうに笑いながら、女は駆けていた。ずっとずっと走って、ようやく見えてきたものは――。
「痛ってぇ」
再び激痛が片目を襲った。奥底からジンジン痛みが浮きあがってくる。
雷童が呻きながら、不死鳥の樹を仰ぎ見た。
相変わらず霧が晴れない。
けれど、脳裏に焼きついて離れないのは、見たこともない映像。
あれは巣だ。たぶん、大の大人が十人かかっても囲えないほどの大きさの巨大な巣が、あの頂に鎮座しているのだ。
(でもなんでだ?)
雷童は納得がいかなかった。
正直、自分があの巣まで行ったことはない。そもそも経験したこともないのだ。不死鳥の巣を間近に見たら、だれだって覚えているだろう。でも、そんな記憶はない。それなら、どこで見たというのだろう。
「あんた、なにやってんのよ」
急に声をかけられ、ひょん、と心臓が縮むかと思った。驚いて振り向くと、そこに腰に手をあてた氷雨が立っていた。大きく背を伸ばしながらやってくる。
「こんなとこで朝から考えごと? 青春ってやつですか」
氷雨は茶化すように笑った。
「ばーか、なに言ってんだよ。おまえこそどうしたんだよ。こんな朝っぱらから」
「そうなのよ。こんな朝っぱらから、足音たてて廊下を走ってくどっかのだれかさんのせいで、起こされちゃったのよねー」
「……わ、悪かったな」
雷童はプイ、と顔を背けた。
けれど、氷雨はまったく気にも留めていない様子で、雷童の背中を軽く叩いた。
「な、なんだよ」
雷童が逃げるように体勢を変えると、
「いいじゃない。ちょっとくらい触ったって。初対面の女の子じゃないんだし」
氷雨は口を尖らせた。
「まったく、あんたと風林児ってほんと正反対よね」
「なにが?」
「態度とかそういうのよ。あんたも、風林児みたいにもうちょっと器用に人と接してみてもいいんじゃないかなぁーって思っただけよ」
「器用って――風林児がか?」
「そうよ。あたり前じゃない」
「ふぅん。あいつが『器用』ねえ」
「違うっていうの?」
雷童の含みのある言い方に、氷雨はすかさず訊き返した。
「違うっていうか……器用に見えるように見せてるから器用なんだろうけど――あいつ、ものすごい不器用だぞ、いろんな意味で」
「風林児が?」
「まぁ、そう思うのも無理ないけど。あいつも苦労してんだよ、いろいろと」
氷雨は黙ったまま、灯篭に背をもたれさせていた。
「おまえならわかるんじゃねえ?」
「なにを?」
「自分が『宮』だっていう重圧と責任感」
雷童は岩から立ち上がった。
「あいつはさー、風は使えるくせに風になりきれねぇんだよな。跡取り息子とか、宮とかいろんなもんに縛られて、全部抱えこんじまってよ。もうちっと肩から力抜けって何度も言ってんだけどなー。あいつ、あほだからさ」
そう言うと、氷雨は小さく笑みを漏らした。
「なに笑ってんだよ」
「ううん。お互いよく見てるなぁって思ってね」
「そうかぁ?」
「そうよ。でも――あたしも『宮』の重圧……わかるな」
氷雨は手のひらに小さい水球を作って見せた。
「ねぇ、なんで水の谷じゃなくて、わざわざ朱里に住んでる人がいるか、わかる? こんなに差別されて、居心地悪いのに」
「……さあ、なんでだ?」
氷雨はパン、と水球を握りつぶした。水滴がぽたぽたと落ちていく。
「彼らは、本当の意味で生け贄なの」
もう一度、氷雨は水球を作った。今度は一回り大きい。
「本当の意味で?」
雷童が復唱すると、氷雨は小さくうなずいた。
「宮が――その使命を放棄して逃げ出さないように、よ」
「もし逃げ出したら、どうなるんだ?」
「――彼らは真っ先に見せしめとして殺される」
氷雨の顔が一瞬だけ険しくなった。
「だから、宮が裏切らないようにするために、朱里に住む人は自分と血のつながりがある人が選ばれるの――ううん……宮が自分で選ぶのよ」
水球がぐにゃり、と形を歪ませた。どうやら、氷雨の気持ちと連動しているらしい。
「それに、もし彼らが朱里から逃げ出したら――宮の一族以外の人が殺される――それが不死鳥の決まり」
「それで風林児も、たらこのおっさんに神経使ってんのか。でも、どうしてそんなにまで徹底する必要があるんだろうな」
「全ては不死鳥のためさ」
氷雨は手のひらから指先に移しそこねた水球を、地面に落っことした。丸く円を描いたように足元だけ濡れている。
雷童と氷雨はそろって後ろを振り返った。
「二人とも早起きだねえ。感心するよ」
にっこりと呉羽はたおやかに言った。手の上に亀を乗せている。その甲羅をなでながら、呉羽は固まったように動かない氷雨を見た。
「どうかしたかい?」
「えっ――いえ……なんでもないです。あ、あたし、もう一眠りしてこよっかな」
氷雨は作り笑いを浮かべ、そそくさとその場から立ち去っていく。
「なんだ、あいつ」
だが、呉羽はちらっと氷雨の後ろ姿を見ただけでさして気にする様子はない。そのまま雷童の隣に立った。
「その亀――」
目を閉じたまま亀はじっと動かない。
「これかい? かわいいだろ、ずっとあたしと一緒にいるんだ」
満足そうに呉羽は亀を見つめている。
「ほんとはつがいだったんだよ。妹とおそろいでね」
「ふぅん……」
雷童はじっと呉羽の顔を見つめていた。
ふいに夢に見た女の顔が被る。
「呉羽のおばさんの妹ってさ」
「なんだい?」
「目元にほくろとかあったりする?」
途端に呉羽の顔が強張った。
パッと雷童から顔を背けると、
「い、いいや。ほくろなんか――ありゃしないよ」
「だよなぁ。それに、おばさんに似てる人なんてそうそういるわけねぇよ」
雷童はため息をついた。その横で、同じように呉羽も息を落とす。
亀は相変わらず石のように止まっていた。本当は作りものなのではないか――そんな疑問が頭をかすめていく。
「あんたには、この国がどう見える?」
なんの脈絡もなしに、呉羽が唐突に尋ねた。
雷童は「え」と小さくつぶやき、隣に立つ呉羽を見た。
その視線は自分ではなく、不死鳥の樹に向けられていた。まっすぐに頂を見つめるその瞳には、鋭さが含まれていた。薄紫色の絹織物が、サラサラと音を立てて湿っぽい風に流されている。
「あんたには、どう映ってる、この国が」
もう一度、呉羽は問いかけた。
答えを待っている――そんな印象を受ける口調だ。雷童は、ふと頂に目をやった。
「……この国は――どっかおかしい」
呉羽は艶やかな目を雷童に向け、満足げにほほ笑んだ。美しい歯がこぼれる。だが、そぐにその笑みは消え、切なそうに顔をゆがめながらしゃがみこんだ。そっと亀を地に下ろす。それでも亀は動く気配は見せず、下ろされた地点に止まったまま地面に張りついたかに見えた。
呉羽はゆっくりと立ち上がった。
「この国――いや、少なくとも私の知る限りの世界の住人たちは、『不死鳥』という毒に犯されてる」
「毒? 不死鳥が?」
「ああ、そうさ。じわじわと心を蝕む猛毒さ。それはしつこくてね、知らない間に巣食っちまうのさ。しかも、それはちょっとやそっとじゃ抜けやしない。まぁ、私も毒に侵食されちまったから、人のことは言えないけどね」
ふっと呉羽の横顔に自虐的な嘲笑が浮かんだ。
「どうしてだろうね」
呉羽は妙に明るく言った。
「……なに、が?」
「――人ってのは、なにか大きなものに依存したがる――そう、絶対に抗えないとてつもなく巨大な存在に、自分という存在の意味を見出そうとするってことさ。それで、安心感を得る。自分はこの世界に必要な存在なんだ、世界の一部を担ってるんだ――ってね」
なんだか難しい話になってきた、と雷童は思った。でも、呉羽の言っている意味はわかる気がした。不死鳥に全幅の信頼を置いている朱里の人たち。そして不死鳥を命がけで護ろうとする人たち。それをだれも疑おうとすらしない。
「なんでかねえ。みんな自分のことはばかにされても怒らないくせに、不死鳥がばかにされると怒るんだよ。不思議なことだとは思わないかい」
「それは――不死鳥のことを信じてるってことだろ?」
「なら、自分のことは信じてないってことかい」
雷童は思わず言葉につまった。
「おかしな話だよ。自分すら信じられない人が、違うものを信じられるなんてね。だからみんな見失っちまうのさ――毒に犯されたまま、毒を薬と勘違いしてるんだ」
雷童はなんて言っていいのかわからなかった。
「見てごらん」
急に呉羽は不死鳥の樹の頂上を指差した。言われるままに顔をあげる。
「あの頂に巣があるんだ。私たちの不死鳥様のね」
皮肉げに呉羽は語る。
「あの樹――なんていうか知ってるかい?」
「……不死鳥の樹じゃなくて?」
呉羽は首を横に振った。
「あれは『古代の樹』っていうんだ、本当はね」
「古代の――樹……」
噛みしめるようにして言うと、呉羽は小さく「そう」と合いの手を打った。
「あの樹は世界の真ん中に立ってると言われてる。どこまで深く根を張ってるかわかりゃしないのさ。もしかすると、大地の裏側まで伸びてるかもしれないねえ。そして、その樹に目をつけたのが不死鳥さ」
「えっ、ってことは、あの樹は不死鳥より前にあったってことか」
「そうだよ。その当時の記録によれば、もう枯れていていつ倒れるかわからないほど朽ちていたのさ――でも」
「でも?」
「不死鳥が降り立った途端、息を吹き返したそうだよ。まるで若葉みたいにね。それで、緑溢れる古代の樹を見た人々は、不死鳥様の虜になったってわけさ――それが、すべてのはじまり。そうして人々は樹の本来の名前を忘れ、いつのまにか『不死鳥の樹』と呼ぶようになった」
雷童は改めてそびえる大樹を見た。幾重にも幹が絡みつき葉を散らせている。
そのとき、呉羽が亀を取りあげ、庭の別な方角へと歩き出した。
「く、呉羽のおばさん、なんで急にそんな話を――俺に?」
背を向け去っていく呉羽に、雷童は思わず疑問を口にした。ピタリ、と歩みが止まる。そして呉羽はゆっくりと振り返った。
「むかし……あんたと同じように、毒に犯されなかった人を知ってるからさ」
「それで――その人はどうなったんだ?」
呉羽は寂しそうに虚空を見つめた。
「ひとつ覚えときな。強すぎる特効薬は、場合によって――劇薬に変わるんだ」
それだけ言うと、呉羽はどこかへ歩いていく。
雷童は呼び止めようかどうか迷ったが、そのまま言葉をのどに押しこんだ。
なにを言いたかったのだろう、あの人は。それに氷雨の言っていたことも気になる。人質を取ってまで、宮を縛りつける必要性がどこにあるのだろう。それほどまで宮の力がほしいのか。宮の力がなくなるとまずいことでも? それともなにか他に理由でもあるのだろうか。
「古代の樹、か」
もう一度、その大樹を見あげる。
なんだか、落ち着かない日になりそうだった。
楽しんでいただけましたら、うれしいです!