第二夜(六)
霧の向こう
風もなく、灰色一色に塗りつぶされたような世界が広がっている。
空がどこにあるのか、そしてここがどこなのか――霧しか存在しない世界。
生き物の気配もだれかの息遣いも一切存在しない。湿気を帯びた空気だけが立ちこめている。
その世界で、女だけが気負いのない足取りでどこかへ向かっていく。
腰ほどまで伸ばされた茶色の髪。粗雑に織られた着物をひざまでたくしあげ、女は無我夢中で歩いている。
女は薄ら笑いを浮かべていた。ガサガサ、という足音で地面は草で覆われていることがわかる。その女のうしろを、もう一人女が追いかけながら叫んでいた。
「やめて! それ以上近づくと危険なのよ! 早く戻りなさい、早く!」
ほぼ同一人物といってもいい。それほどまでに似ていた。唯一違うのは髪の長さ。そして目元のほくろ。先を行く女には目じりに小さなほくろがあった。そしてあとを追う女にはない。
「聞いてるの? あなたはだめなのよ! いいから聞いて! お願い!」
半狂乱で女は前に向けて叫び続ける。その女を数人がかりで人々が取り押さえた。女はあらん限りの力を持って振りほどこうとする。そして絶叫に近い声で、どんどん小さくなっていくもう一人の女の名を呼び続ける。そのまま彼女は壊れてしまうのではないか――そう思えるほど、女は髪を振り乱しながら、金切り声をあげていた。
ふわり、と前を行く女が振り返った。
「呉羽姉さん、なんでそんなに慌ててるの? せっかくの着物が台無しよ。私と違って、いいもの着てるんだから、もっと大事にしなきゃだめよ」
くすくす、と笑う。どこかゾッとするような冷たさを秘めていた。
「この先にあるんでしょう? あの能無しの鳥の巣が」
女は霧の向こうを仰ぎ見る。
「常葉! やめて、やめるのよ! どうして――なんでわからないの! あなたは――」
「どうして私はだめなの? 変だと思わない? 不公平よ。姉さんがよくて私はだめ。どう考えても納得できないわ。……だって、私たち元は同じ人間でしょ。本当は一人――一人なのよ。ただ、偶然二人になっただけ……そうでしょ、姉さん」
「常葉……」
「それなのに姉さんは――私を置いて……私をのけ者にして、こんな国のために生きるって言うの? それが姉さんの望むことなの? この国が私たちに何をしたのかわかってるでしょう」
「でも常葉、それとこれとは――」
「言いわけなんてまっぴらよ。私は認めない。この国とそしてなによりあの鳥を。私からなにもかも奪って、その上姉さんまで奪ったあの鳥を――私は絶対許さない」
女はにたりとした。
「なにそんな悲壮な顔してるのよ、姉さん。そんな顔しなくても大丈夫。自分の幕引きは自分でできるから」
「だめ! 常葉……常葉っ!」
「姉さん、なにか勘違いしてない? 私がそう簡単に死ぬと思う?」
その瞬間、二人の間に風が起こった。生ぬるい嫌な風だ。
「……常葉――あなたまさか」
「だから言ったでしょう。私と姉さんは『同じ人間』だって。それに」
女は急に言葉を止めると、恍惚とした表情で続ける。
「私の最高傑作が完成させるためなのよ」
地の底から響いてくるように、女の声が響いた。
ゆらりと女は踵を返す。女の姿が霧でぶれる。
「姉さん、ちょうど百年後の人形祭りの日に……また会いましょう」
次の瞬間、女の姿は消え去った。
無音の空間だけが残る。ただ目の前には霧が広がるばかりで、他になにもない。
妹の消えた場所を茫然と見つめていた女が、突然頭をかきむしった。そしてぼろぼろと泣き崩れると、獣のような呻き声がのどから漏れ出した。
どこかで歌が聞こえる。
『……ゆんゆんゆらゆら 夢うつつ おまえの父さんどこに行く…… 母さん背負ってどこ消えた ……ゆんゆんゆらゆら 夢うつつ おまえの兄さんどこにくる…… 妹かついでどこで見ゆ――』
次回は第三夜に入ります!
どうぞ、お楽しみに!