第二夜(五)
呉羽が事件の犯人だと知った風林児と氷雨は――
仙と呼ばれるもの
湯気だけが動いていた。お茶の香りと、どこか湿っぽい匂い。外は夜の底に沈み、涼しげな風がふんわりと入ってくる。
風林児と氷雨は居間にいた。
花鳥風月が細工された凝った円卓。漆のせいか、表面は一点の曇りもなく磨きあげられていた。この家は年代物の食器や家具が取り揃えられているのだ。いまでは作られていない骨董品まで普通に花瓶として使われている。そしてずらりと並べられた人形。どれひとつとして同じものはない。
「……ねえ、満年斎さまが言ってたこと、本当かな」
重苦しい空気とともに、氷雨がぼんやりしながら言った。
「呉羽さんが、俺たちの故郷を襲ったってこと?」
「うん……」
静寂が訪れる。
古びた時計が、ときを刻む音しか聞こえない。
「もし、満年斎さまが言ってたことが本当なら、俺たちは故郷の仇にあたる人のとこに世話になってるってことだ。……それだけじゃない。輝宮探しを手伝わされてるんだ。確か、不死鳥を動けなくするには、輝宮を殺せばいいって言ってたよな」
「そうね……」
「呉羽さんの狙いが輝宮で、それで氷雨の力を使って探し出そうとしてるなら、俺たちはわざわざ輝宮を危険な目に合わそうとしてるってことだ」
「でも、まだ輝宮は見つかってないわよ。どうすればいいんだろ」
「そのことなんだけど……氷雨」
風林児は手を組んだまま、じっとお茶の水面を見つめていた。
「どうかしたの?」
風林児は言葉を選ぶように話しはじめた。
「あのとき、満年斎さまとの話に入って途中になってたんだけど……」
「――ああ! なにか気になることがあるって言ってたよね」
「うん。その話の続きなんだけどさ」
そこで風林児は口をつぐんだ。
しばらく経って、風林児が静かに言った。
「輝宮は――雷童かもしれない」
風林児は額に手をあてながら、自分で言ったはずなのにどこか信じられないと疑っているようだった。氷雨の視線は自分の手元と、風林児の顔を何度も行き来していた。どうやら頭で整理しようとしているらしい。
二人の動揺だけが、あたりをピリピリと動かしている。
「でも――そんなことってあるの? だ、だってあたし――触れたのよ? 雷童と空中で手をつないだんだから。もし……もし雷童が輝宮だったらあたしは触れないはずなのよ。それに――雷の里から二人宮が生まれるなんてありえないわよ」
「二人じゃないよ……正確に言うと一人だ」
「えっ」
風林児は厳しい顔になった。そして自分の額にかかる髪をくしゃりと握る。
「ずっとおかしいなって思ってたんだ。計算が合わない。どうやって考え直しても」
「どういうこと?」
氷雨はうかがうように風林児を見た。
風林児は指で円卓に数字をかたどりながら説明しはじめた。
「元轟宮のおじさんが結婚して、その次の年に空雷さんが生まれたんだ。それで、空雷さんが五つのとき、おばさん――つまり空雷さんのお母さんが亡くなった」
氷雨はうなずきながら風林児の話に耳を傾けていた。
そこでピタリと風林児の指が止まる。そして一瞬躊躇したあと、決心するように口を開いた。
「それでその二年後――父上から訊いた話によると、元轟宮のおじさんは赤子の雷童をどこからか連れてきたんだ」
「それって……つまり」
「雷童は、そもそも里の者じゃなかったってことだよ。でも元轟宮のおじさんは、本当の息子のようにかわいがって、空雷さんも弟ができて嬉しかったみたいで、仲がよかった。だから本当の兄弟みたいに育ったんだ」
「そのこと、雷童は知ってるの?」
風林児は首を横に振った。
「おじさんから聞かされてないなら、知らないと思う。里のだれかが言わない限り」
「そう……でも――あのばか宮司の言ったことをあわせて考えてみても、納得がいくわよね」
氷雨はぎゅっと湯のみを握った。
そして噛みしめるように言葉を紡ぎ続ける。
「輝宮には隠し子がいたってこと――男か女かわからない。でも、風林児の父様が言うように、元轟宮さまがどこからか赤子を連れてきたってことになれば、もしかしたら――その赤子が隠し子かもしれない」
「それに、輝宮には念じただけで物を燃やす力があるって言ってた。そしてそれは、雷童にあてはまるんだ」
「全部つながるのよね」
氷雨と風林児は同時にうなずいた。
「満年斎さまは、そのことに気づいているのかもしれないよ」
「どういうこと?」
「赤髪少年――つまり雷童を連れてこいって言ってただろ? ってことは、もしかして満年斎さまは雷童が輝宮だと承知の上で、危険から遠ざけようとしてくれてるのかもしれない」
「蓮華はどうするの?」
そこで二人は黙りこくった。
同じことを考えている――と、二人は互いの瞳を見ながら思った。
それしか方法はないのだ。これ以上、関係のない人を巻き添えにするわけにはいかない。呉羽が故郷を襲い、呉羽が変なやつらを差し向けたとしたら――彼女が言っていた『ここにやつらはこない』ということも、本当なのか疑わしい。それすら嘘だったとしたら、一刻も早く朱里から出なければ、この国の人々が危険にさらされるのだ。それに、朱里にいる間、宮以外は力を用いることは禁止されている。
風林児と氷雨はほぼ同時に口火を切った。
「置いていこう」
「たっだいまー! あー腹減った。飯、飯は!」
どたどたと大きな足音ともに、ガラリ、と居間の戸が開けられた。
「……なんだよ」
風林児と氷雨の両方の視線を受けて、雷童がしどろもどろに訊き返した。
氷雨はすくっと立ちあがると、
「おかえり。ちょっと顔洗ってくるわ。蓮華もお疲れさま」
そう言って、手洗い場へと向かっていった。
「なんだあいつ……」
「おかえり二人とも。お茶入れるよ」
「あー疲れたー。それにしたって、本当に輝宮いんのかよ。全然見つからねえ」
ぐったりと背もたれに寄りかかりながら、雷童は愚痴をこぼした。
「ほんまや。けっこう歩いたけどな」
「そっちはどうだったんだよ」
雷童はカタン、と椅子をゆらした。
「……見つからなかったよ」
「だろうなぁ。ちょっと効率悪いんじゃねえ?」
「それよりさ、雷童。またなんか作ってくれよ。蓮華も食べたいもの雷童に言ってよ。こいつけっこうなんでも作れるんだから」
と、風林児が妙に明るい声で言うと、蓮華はぱっと目を輝かせた。
「ほんまに! せやな……うち、卵のあんかけご飯が食べたい!」
「また俺が作るのかよ」
「だっておまえの料理おいしいしさ。なぁ蓮華?」
「うん! 雷ちゃんはうちらの料理人や」
「まったく調子がいいお二人さんで」
雷童は大げさにため息をつきながら立ちあがる。そしてちょうど氷雨が戻ってきた。
「なに、また雷童が作ってくれるんだ」
嬉しそうな声で言った。
「そういえば、呉羽のおばさんどうしたんだよ。まだ帰ってないのか?」
「えっ、ああ――そうみたいね」
氷雨と風林児はちらっと目を合わせたあと、どちらともなく曖昧な笑みを浮かべた。
「な、ひーちゃん。ひーちゃんが呉羽のおばちゃんの水晶で見たのって、えっと……」
「赤と少年よ」
氷雨が軽く言うと、
「んー、赤と少年かぁ」
蓮華は天井を見ながら、なにかを考えこんでいるようだった。
小気味よい包丁の音が規則正しく刻まれる。雷童が鍋を引っくり返しながら、慣れた手つきで具材を放りこんでいく。湯気が立ちのぼった。
「そのまんまやったら、雷ちゃんみたいな人なんかなあ」
ぼそっとつぶやかれた言葉に、雷童は木べらを持ったまま振り返った。
風林児も氷雨も同じように蓮華を見つめていた。三人の視線を瞬時に集めた蓮華は、決まり悪そうにぎこちなく笑った。
「いや、深い意味はないんよ。ただ、雷ちゃんって髪が赤いしおまけに男の子やろ? だから赤と少年って雷ちゃんとそっくりな人かもなぁ、って思っただけやねん」
シン、と静けさが訪れた。
風林児も氷雨もなにも言わない。ただじっと円卓の木目に目を落としているだけだ。
雷童はなぜかいつものように笑い飛ばすことができなかった。鍋はどんどん熱くなっていく。かき混ぜないといけないのだが、どういうわけか体は蓮華のほうを向いたままだ。蓮華は自分の発言が、会話をかき消したことに戸惑いを隠せないようだった。
『輝宮は念じたものを燃やせる力があるってことだ』
ふと、雷童は春山の言葉を思い出した。
(そうだ――)
あのときの同調にも似た違和感は、自分がもしかしたら輝宮なんじゃないかという疑問だったのだ。でも、そんなことが本当にありえるのだろうか? ただの思いあがりじゃないのか。でも――これで全てがしっくりくるのだ。願うだけでものを燃やせる力――この力がどこからくるのか知りたかった。なぜこんな力を持っているのか、そのわけを明らかにしたかった。
(でも、本当に俺が輝宮なのか?)
まだ信じられない。それなら自分は輝宮の隠し子ということになる。なら、本当の親は輝宮? 話の流れ的にはそういうことだろう。そしてたぶん、風林児は知らない。自分が兄である空雷と血のつながりがないことを。
それに自分だってこんなこと知りたくなかった。あの日、父親が死んだとき、屋敷の人から聞かされた衝撃の真実のことなんて。おまえはよそ者だ――って言われたとき、自分はどんな顔をしていたんだろう。
考えたくもない――。
「雷ちゃん、焦げる!」
ハッと我に返ると、卵の淵が黒くなりはじめていた。あわてて皿に移し変える。
「悪ぃ……半熟にするつもりが」
雷童が苦笑すると、風林児も氷雨もぎこちなく笑みを返した。
「大丈夫よ。これもいいんじゃない?」
「そうそう。そういうときもあるさ」
「でも、ほんまに雷ちゃん料理うまいんやね」
雷童は呉羽の分を残しながら、
(あとで、呉羽のおばさんに相談してみるか)
そう思いつつ一口含むと、少しほろ苦い味がした。
闇のなかで
妖艶な女が一人、闇の底を歩いている。
昼間に出歩いていたなら、道行く人が振り返るほどの美貌だ。だがその切っ先にも似た横顔は、夜の風を切り裂くようにただ進行方向だけを見据えていた。
少しばかり肌寒い。上等な絹織物の上に木綿の羽織を着こみ、女は水を泳ぐ魚のように、夜の帳が落ちた街の入り組んだ道を次々と曲がっていく。
なんの気配もしない。ただ自分の規則正しい足取りと、かすかな息遣いだけが石畳の道にある音の全てだ。
闇は濃い。今宵は虫の音すら聞こえない。
女は急に足を止め、懐から紙切れを取り出した。何度も読み返したせいで、しわになっている。
淡黄色の上質な紙。
女はそれを広げると、じっと紙面を見つめた。
と、そのとき月にかかっていた雲が切れる。
『夢幻十字路で待っています』
浮かびあがる青い文字。それは水の谷でしか生息しない青花苔を使って書かれていた。月光に照らされて、かすかに淡く光を放っている。
一体どうしたというのだろう。向こうから呼び出されることはいままでなかった。それとも、なにか問題でも起こったのだろうか。
女は内心首をかしげながら、再び紙切れを懐にしまいこんだ。
こんな夜更けにだれかが起きて、街を歩いているとは想像してないだろう。店先にある全ての行灯や灯篭の火は消され、どこまでも暗く静かな空間が広がっている。にぎやかな食堂街が軒を連ねている南天通りとは違い、ここはさびれた街はずれだ。南天通りの正反対に位置し、昼間ですら人通りは少ない。
女はため息をついた。闇の重さがふだんよりのしかかってくるように感じた。
サラサラ、と林の葉がゆれる音がする。
指定場所までくると、女は暖かい橙色の火影を見た。小さいたいまつがほそぼそと灯っている。その人物は自分が到着したことに気づいたらしい。ゆらりと炎の位置が高くなる。
「どうしたんだい。こんなとこに呼び出して」
女が気だるそうに訊くと、その人物は灯りを塀にかざした。そこには石がただ積みあげられたような塀があった。崩れかけた瓦礫の山。
「――通じないのかい?」
「はい……」
女の背後で、重く険しい声が響いた。
「もしかしたら、気づいたのかもしれません」
「あの子がきたからかい?」
「それしか考えられません。それに……どうやら人形たちも動きはじめているようです。あさっての人形祭りに向けて――そしてなにより彼女の没後百年という節目です……人形たちにかけられていた封印も解けはじめているのかもしれません」
「――あの子が原因か……」
女はじっと目の前の石の墓場を見つめていた。
「呉羽さまの話によれば、そうなるかもしれないですが――私が思うに、きっと全ての封印が、あらかじめあさってに解けるように仕組まれていたのではないでしょうか」
「全て見越していたと――そう言うのかい」
女の声が少し鋭くなる。
「あくまでも憶測にすぎませんが……そういえば、彼らから仙翁という男のことをお聞きになりましたか?」
「ああ。聞いたさ……おかしな話だ」
フッと女は苦笑した。
「なんだってまぁ、『仙』を語るんだろうね。ばかばかしい」
「仙翁も、彼女の仲間であると思われます。そして呉羽さま、どうかお気をつけて。少し不穏な動きがありましたので」
すると女はにやりと得意そうな笑みを浮かべた。
「なにを言ってるんだい。このあたしが、そんなやつらに殺されるとでも?」
「いえ――そうは思いませんが――気がかりなのは輝宮です」
「輝宮……ねえ」
男はお互いの顔が見えるように、たいまつを顔の位置まであげた。
「輝宮の力がまだ見つかっていない以上、どうすることもできません。一刻も早く、輝宮の力の秘密を探らないと、彼女の思うがままになってしまうでしょう。ですから呉羽さま、お気をつけてください。私は彼女のことをもう少し見張っています」
男は深緑色の布を頭から被った。
「あんたこそ、弟の顔くらい見てやったらどうなんだい。急に消えちまったんだろう。きっと寂しがってるよ」
男はほどけた顔で、軽く息を吐いた。
「ときがきたら――その折に」
「あんたも、父親にそっくりだねえ。じゃあ、ちゃんと眼帯しとくんだよ」
男のいた場所に、緑色の雲が立ちのぼっていった。
サワサワ、と女の髪を風がゆらす。
女はもう一度、崩れた塀を見下ろした。砂利と混ざり合い、壁だった形跡はどこにもない。じっと暗闇の向こうに目を凝らす。
「……つながらない、か――」
女はそう言い残すと、足早にその場をあとにした。
そして女の影が闇と同化したのを見計らったように、緑色の両目が瞬きをした。塀の上の茂みから立ちあがる。
幼い少女だ。
耳の横で切りそろえられた髪に葉がついていないか確認し、赤い着物をはたいている。
じっと女が去っていった方角を見つめたあと、おもむろに地面に飛び降りた。
「大変だ。早く一番に知らせなくっちゃ」
少女はパタパタと小走りで、十字路の向こうへと消えていった。