序章
不死鳥の死
ここに古ぼけた絵巻物がある。
黄ばんだ表面には次のように書かれてあった。
『だが不死鳥は、風の鳴宮の風に乗り、水の影宮の水を飲み、雷の轟宮の雲で羽を休め、炎の輝宮の火でその身を焦がす。不死鳥の血はたちどころにどんな病を治し、燃えさかる羽根は命の象徴とされ、人々から奉られている。その住処は世界にただひとつ――どの山よりも高く、葉が散ることのない大樹。それは永遠の実がなる樹。不死鳥はその頂上の霧に包まれた、奥深く生い茂る巣の中にいる。しかし四つの宮が倒れたとき、不死鳥はただの鳥となるであろう』
ろうそくの火影が暗い部屋にゆらゆらと伸びている。その部屋のなかで薄気味悪い笑い声が、はじめは押し殺したように、そして徐々に高らかな笑いへと移り変わっていった。
するとその声の持ち主は、急にその絵巻物を引き裂くとその紙片を空中にばらまいた。はらはらと紙切れが舞い落ちるなか、ちょうど肩に乗った紙をくしゃりと口に含む。
そのままごくりと紙を飲みこむと、
「ふぅん……そういうこと、なんだねぇ」
声の主は本来ならばあごに当たる部分に手をあてた。
柵格子をとおして入る夜風と月の灯が、ゆらめくろうそくに加勢する。
そのときガタリ、と音をたてて格子戸が開けられた。部屋に入ってきた男は、声の主とそこら中に散らばった紙くずの双方にゆっくりと目を動かし、そしてまるで口をきくのを怖れるように、
「お、おまえ……ここでなにをやっている?」
すると、声の主はひきつったようにひびだらけのくちびるを三日月形に湾曲させた。
「これはこれは、輝宮さまではありませんか」
「おまえは、だれだ?」
輝宮は警戒をしながら一歩後ろに下がる。すると床板がきしみ、ギシリと不気味な音をたてた。
「だれとはまたひどいことをおっしゃるものですねえ。さんざん、お顔を会わせてきたと申しますのに――わかりませんか? この声に聞き覚えがあるでしょう?」
声の主は骨に皮がはりついたような手を、自分の胸にあてがった。そして薄気味悪くほほ笑んだ。
するとなにかに思い当たったのか、輝宮はハッと息を詰まらせた。
「――おまえ……呉羽なのか! だが、私が知っている呉羽は――」
輝宮の口の端から一筋の血が流れていく。赤い雫がポタリ、と見えない床板の木目に染みこまれていくようだった。
輝宮は信じられないというような瞳を、おそるおそる自分の腹部にやった。暗闇の中でほとんど見えないことが救いだっただろう。そろりと手を伸ばすと、声の主である呉羽の袖が当たる。そして手首から先は輝宮の腹を貫いていた。
「く、呉……羽」
「さて、この伝承どおりなら、あなたが死ぬことで不死鳥の炎は途切れる――ということになるのでしょうねぇ。ちょうど節目の年――いい機会じゃありませんか」
呉羽はどこか楽しげに言った。
輝宮は呉羽の手首をつかみながら、額にあぶら汗を浮かべていた。そのとき、輝宮の背後から今まで雲に隠れていた月が顔を出した。その月明かりで呉羽の顔がくっきりと輝宮の目に映る。口と目と鼻しか見えない、布で覆われた顔。薄黒い皮膚をしたひびだらけの首。ぼさぼさと黒い髪が数本混ざった白髪頭を、腰の部分で紐でまとめていた。
輝宮がぎりっと歯を食いしばりながら呉羽をにらんでいると、
「そんなにこの私の顔に興味がおありですか?」
にたりと黄ばんだ前歯をのぞかせた。
「これはねぇ、あの鳥のたたりでしてね、こうしてどんどん体中の肉が腐って溶けていって、心の臓まで達すると死に至るらしいのです。おお、恐ろしい」
呉羽は充血した瞳で輝宮の顔を覗きこんだ。
「そ、そんな体で……」
「そうですよねえ。生きられるわけがない――そう思いますか? でも、私は違う。私は決して死なない体なのですよ」
「そんな……こ、と」
「輝宮さま、あなたは私のことよりもご自分の体のことを気遣ってはいかかです? あなたは私と違って、いまここで死ぬのですから」
ため息をつきつつ、呉羽は輝宮の腹部から手を引き抜いた。その瞬間、輝宮の体が崩れ落ちる。
「う……」
うめきながら輝宮は鮮血が溢れ出る腹に手をあてた。
すると呉羽は、これ見よがしにしゃがみこみ、さも憐れむような声で言った。
「おかわいそうに。とりあえず、これでひとつ、不死鳥の力が弱まったと考えられますから、安心して死出の旅路についてくださいよ」
すると輝宮はフッと小さくほくそ笑んだ。
「どうやら、おまえは……勘違い、しているようだ……」
呉羽は血で汚れた手をべろりと舐めあげると、輝宮の髪を引っつかんだ。
「勘違いとは聞き捨てなりませんねえ。悪あがきもたいがいに――」
「私は、輝宮だが……輝宮じゃない……すでに、輝宮の座は譲っている。……炎の力は、安全なところに……」
輝宮はガクリと力尽きた。
その様子を見た呉羽は、不機嫌そうに浅く息を吐くと、そばにあったろうそくを引き倒した。瞬く間に火が広がっていく。バチバチと格子戸が燃え、床板から次の部屋へと火の粉が舞っていく。火の回りが風によってあおられて早いようだ。
「……そうなのですか。他の誰かが炎の力を持っている――ということですか。ま、いいでしょう。その間に他の三人の宮を落とすとしましょうか」
呉羽は燃えさかる屋敷を背に、ばさりと外套を羽織ると、深々と頭巾をかぶった。
火の見やぐらから火事を知らせる鐘の音が、けたたましく疾走する。
「さて、本物の輝宮とやらはどこにいるのでしょうねえ」
そう言うと、ボコリと地中から手が何本も生えてきた。
肩まで姿を現した手は、そのまま地面に手をつくと土の中から頭をもたげ、そこら中から人が這いあがってきた。
「おまえたちに命じましょう。水の影宮を生かして捕らえてきなさい。影宮は輝宮を探す手がかりとなる」
ほおに笑みを含ませながら、呉羽は低い声でさらに続ける。
「風の鳴宮、そして雷の轟宮――……この二人は同時に捕らえて――殺しなさい」
大勢の唸り声が辺りの空気を震わせた。土から生まれた何百人もの人影が、それぞれ三つに分かれながら歩いていく。地面がゆれるほどの足音だ。
呉羽の背後では、人々の悲鳴と屋敷が崩れる音がこだまする。人里から遠く離れた山の頂上にある屋敷が、見る間に黒煙に包まれていく。
呉羽は星空高く首を伸ばすと、げらげらと笑いはじめた。
「さて、私は調べものでもしましょうかね」
「呉羽さま……」
そのとき、ふっと男が一人、呉羽の前にひざをつき頭を下げながら現れた。
「おお、安寿ですか。どうかしましたか?」
「……いえ、輝宮のことで少し……」
すると呉羽は小さく笑った。
「おまえはなにも気にすることはありません。どうやら輝宮は別の誰かに力を託したようですよ」
「そうですか……ところで呉羽さま、水の影宮の件なのですが」
安寿という男が柔和な口調で言うと、呉羽は目を細めながら、
「どうしたのです? いつものおまえらしくないですねぇ」
「影宮を捕らえるお役目、この安寿に任せていただきたく存じます」
「おまえに、ですか?」
呉羽が考えこんでいるのを、安寿はじっと下から見あげていた。
「いいでしょう。ではおまえに重要な務めを与えます。水の影宮を、私の前に差し出しなさい。いいですね?」
「はい、必ずや呉羽さまの御前に、水の影宮を連れ出しましょう。この安寿にお任せください」
すると安寿は影のように忽然と姿を消した。
呉羽は忍び笑う。火の山がその名のとおり炎に包まれていた。
屋敷は崩壊し、火の粉が夜空に星のように舞いあがっていく。
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