2 犠牲者
「ヘレナ・フォン・バスカビルの遺体が発見されたのは今日の夜7時ごろ。
バスカビル子爵邸から徒歩30分ほどの森の中で、通りかかった猟師によって発見されました。」
手練れの女性刑事、スタンフォード警部補は低く響く声でそう告げた。
数時間前にバスカビル子爵夫人が座っていた応接室のソファで、彼女の遺体の様子が報告されている。
「バスカビル子爵夫人は背中から刃物で刺された模様です。
また、彼女の顔には右頬に口が裂かれたような傷がありました。
バスカビル子爵夫人がこちらをを訪れた時には、彼女にそのような傷はありましたか?」
スタンフォード警部補の問いにカメリアは「いいえ。」と首をふる。
「ではやはり犯人によってつけられた傷でしょう。
先ほど電話で確認させていただいた通り、バスカビル子爵夫人は今日午後2時ごろ、カメリア嬢を訪ねてこの屋敷に来ていますね。
このことはバスカビル子爵夫人が送り迎えを頼んだ馭者からも確認が取れています。
公爵邸からバスカビル家までは馬車で片道2時間ほど。
馭者は5時ごろにバスカビル子爵夫人を自宅へ送り届けたと証言しています。
バスカビル子爵夫人は一度帰宅した後に外出し、そこで殺害されたものと考えられます。」
「殺害現場は遺体が発見された森なのでしょうか?」
というカメリアの鋭い質問に、スタンフォード警部補は「確かな証拠が見つかっておらず、また目撃者もいなかったことからまだ殺害現場を断定することはできていません。」と答えた。
「バスカビル子爵夫人は脅迫文を受け取ったことを私に相談しましたわ。」
カメリアは警部補に、バスカビル子爵夫人が受け取った脅迫文の内容を説明した。
「バスカビル子爵夫人が受け取った脅迫文は、彼女の部屋から見つかっています。
彼女の遺体が発見された場所にも狂犬を名乗る人物からのメッセージがありました。
脅迫文と事件は関連していると見ていいでしょう。」
「どんなメッセージが残されていたんですの?」
「『お前は地獄の狂犬を呼び覚ました。』とあり、バスカビル子爵夫人が受け取ったのと同じ文でした。
しかし、どちらの文書もタイプライターを使って作られたものであり、筆跡の鑑定ができません。
したがって脅迫文の存在を知るものであれば捏造ができたともいえます。」
スタンフォード警部補はあらゆる可能性を考慮する慎重な人物なようだ。
彼女は「念の為確認させてください。」と断って、「昨日の夜1時ごろと今日夜6時ごろ、何をしていましたか。」とカメリアに尋ねた。
「昨日の夜1時ごろはこの屋敷の自室で眠っていましたし、今日の夜6時から7時にかけては屋敷内で食事をしておりました。
屋敷にいた私の使用人たちが証明できます。」
「ありがとうございます。」と言うスタンフォード警部補に、カメリアは「昨日の夜1時のアリバイを聞いたのはどうしてですの?」と問う。
「実は昨夜1時に、バスカビル子爵夫人殺害と同一犯と思われる人物による殺人が行われたのです。
今日の早朝、ペーターという若い男が亡くなっているのが発見されました。
死因は馬車に轢かれたことだと思われます。
しかし彼の顔にも、口を裂かれたような傷があったのです。
ペーターが現場近くの酒場にいたこと、1時前にその店を後にしたことを酒場の主人が証言しております。
車輪の跡は残っていませんでしたから、雨が降っていた1時ごろに彼は轢かれたと考えられます。
酒場にいたときにはペーターの顔に傷はなかったので、バスカビル子爵夫人の場合と同様に犯人が傷をつけたのでしょう。
犯人は自分による犯行だと示すために、被害者の口を裂いているということになります。」
「犯人は馬車を盗んでペーターを轢き、その後口を裂いたのでしょうか。
口を裂いたのであれば犯人は刃物を手にしていたはず。
なぜ刃物で殺すのではなく、わざわざ馬車を盗んだのでしょう。
それに、最初の被害者のペーターと二人目の被害者バスカビル子爵夫人にはどのような関連があるのでしょうか。」
既に二人の犠牲者を牙にかけた狂犬の行動は実に謎めいているのだった。




