1 依頼
「突然の訪問で申し訳ございません。
わたくしはバスカビル子爵の妻にございます。」
午後2時、公爵邸を訪れた夫人はそう言って黒い瞳を伏せた。
貴族だけあって質のいいドレスを身にまとっているが、装飾品は付けておらず、控えめな印象の女性だ。
「カメリア嬢はおられるでしょうか。」
「ただいま呼んでまいりますので、中へお入りください。」
バスカビル子爵夫人は使用人にすぎない私にも遠慮がちな態度をとった。
その態度は彼女が深刻な秘密を抱えていることを予感させた。
私は彼女を応接室へ案内し、カメリアを呼びにいった。
カメリアは公爵邸の書斎にいた。
「カメリア様、バスカビル子爵夫人が訪ねて参りました。
応接室でお待ちです。」
書斎で本を読んでいたカメリアはふっと微笑み、「ヒルダ、あなたも同席してちょうだい。記録をしていてほしいの。」と私に命じた。
「きっと、探偵へのご依頼でしょうから。」
公爵令嬢、カメリア・フォン・シュテルンベルク。
第二王子の婚約者だった彼女は、あろうことか殺人を犯した疑いをかけられ婚約を破棄された。
カメリアは自身の手で謎を解き冤罪を晴らしたが、大切な人を奪ったあの事件は彼女の人生に影を落とした。そうしてカメリアは探偵になることを決心したのだ。
彼女を訪ねてきたバスカビル子爵夫人もまた、カメリアの聡明な頭脳に助けを求めてきたのだ。
「突然押しかけてしまい、申し訳ありません。
何分緊急だったものですから…。」
応接室にてカメリアと対面したバスカビル子爵夫人は申し訳なさそうに口を開いた。
「かまいませんわ。」とカメリアが微笑んでもバスカビル夫人は視線を合わせなかった。
「会ったこともないのに屋敷に押しかけてくるわたくしを常識のない女と思われても当然ですわ。
わたくしがバスカビル家に嫁いだのは今年のことでしたし、バスカビル家の人間は人との関わりを避けておりますから、社交の場でカメリア様にご挨拶することもかないませんでしたの。
そうでなくても、わたくしがシュテルンベルク公爵令嬢のカメリア様とこうしてお話するなどとても恐れ多いことですわ。
なにせ、バスカビル家は村のものからは呪われた家とよばれ忌み嫌われているんですもの。」
「呪われた家とは、どういうことですの。」
「古い村によくある前時代的な噂話ですわ。
富を持ったものに対して、その富を得たのは穢らわしい行為を犯したからだと噂し差別する、愚かな慣わしです。
ですから、わたくしもバスカビル家に対する評判はいわれのない噂だとわかっておりますの。
でも、ヒューゴについてだけは庇うことはできませんわ。バスカビル子爵は狂っているなんて噂されても反論する気にもなりませんわ。」
「バスカビル子爵はあなたの夫でしょう?
失礼ですが、あまり良い関係ではないということなのでしょうか。」
「ええ、もちろんですわ。
望んだ結婚ではありませんもの、貧しい家のために仕方なく嫁いだのですわ。
夫は自堕落な生活をしていて、酒と煙草と女に溺れる人で、あまり品のよろしくない方々と遊び呆けていますわ。
そのうえ、ヒューゴの頬にはちょうど口が裂けたような大きな傷があるのです。
彼はわたくしに、その傷は自分で口を裂いてつけたのだと言いました。
狂っているとしか思えませんわ。」
子爵夫人はそれまでの控えめな、怯えているとも取れる態度とは一変して、ヒステリックに夫を非難した。
「それで、あなたが私のもとへ来られた緊急の要件とはいったい何なのでしょう?」
「その夫のことですわ。
わたくしの夫は、数日前から姿を消しましたの。
屋敷に戻ってきておりませんの。」
「では、行方がわからなくなったバスカビル子爵を探してほしいと言うご依頼でしょうか。」
子爵夫人は「ええ、そうですの。」と頷きまたも落ち着きをなくして早口に話し出す。
「先ほど申し上げましたように、ヒューゴは普段から素行が悪く、誰かの恨みを買っていても何らおかしくはないのです。
ですから、何か事件に巻き込まれているに違いないのです。
ヒューゴが人様の怒りを買って報復を受けたとしても自業自得ですから、わたくしはどうでもいいのですけれどヒューゴのせいでわたくしにも危険が迫っておりますの。」
「あなたにも危険が迫っているとは、どういうことですの?」
「ヒューゴがいなくなってから、わたくしのもとに差出人のない手紙が届きましたの。
それは脅迫文でした。
『お前は地獄の狂犬を呼び覚ました。
狂犬がお前のもとへやってくる。
飢えた狂犬は人々を襲い、食い荒らす。
お前の村の者は誰一人生き残ることはできないだろう。』
そう書かれておりましたの。
悪戯かとも思ったんですけれども、ヒューゴが行方知れずになっていることと関係があるかもしれないでしょう。
彼の買った恨みにわたくしまで巻き込まれるのはごめんですわ。
ですから、失礼を承知でカメリア様を頼ることにしましたの。
どうかわたくしを恐怖におとしめた狂犬と、消えたヒューゴ・フォン・バスカビルを見つけてください。」
懇願するバスカビル夫人に、カメリアは「ええ、お引き受けいたしますわ。」と答えたのだった。
公爵邸を後にするバスカビル子爵夫人を見送ってから、私はカメリアに尋ねた。
「あの夫人は少々様子がおかしかったですね。
夫のことになるとどうも冷静さを欠いているように感じました。」
カメリアも「子爵夫人はあまりよい精神状態ではないようですわね。」と同意する。
「周囲からいわれのない中傷をうけ、心を痛めているのかもしれませんわ。
あるいは、彼女を追い詰めているのは夫との関係かもしれません。
いずれにせよ、精神的な苦痛を抱えた彼女は脅迫文に強い不安を感じているのでしょう。」
「私は夫人の不安は杞憂ではないかと思ったのですが。
バスカビル子爵は素行が悪く、またバスカビル家は周囲から悪い噂を立てられているのであれば、悪戯の手紙を受け取ることもあるのではないかと。」
しかし、私の考えは間違っていた。
その夜に屋敷にかかってきた電話によって私はそれを知ることになった。
私が電話をとると、真面目そうな女性の声が「王国警察のスタンフォードです。」と名乗った。
「ひとつ確認させていただきくお電話しました。
今日の2時ごろ、おたくをバスカビル子爵夫人が尋ねたのは事実ですか。」
「ええ、そうです。
バスカビル子爵夫人になにかあったのですか。」
「ヘレナ・フォン・バスカビルの遺体が発見されました。
バスカビル子爵夫人は何者かによって殺害された模様です。」




