第6話 非合法ドック
膝と掌の関節が、金属の縁に何度もぶつかった。
狭いダクトの中は、コロニー内の循環空調とはまるで違う匂いがした。
焼けた埃。古い断熱材が湿って腐りかけたような、くぐもった刺激臭。
アーク・システム管理区域の「無臭」に慣れきった感覚には、それだけでもほとんど暴力だ。
(あと20メートル。……座標の誤差、±3。外れてたら笑えないな)
うつ伏せで這いながら、シキは義体の視覚を最低限まで絞る。
暗視も熱源感知もあるが、あえて使わない。余計な情報は、恐怖を増幅させるだけだと知っていた。
前方、ダクトの終端にポツンと、異様な色が浮かんだ。
錆びた鉄の黒と茶に、場違いな「赤」。
点滅する警告灯の残骸。もうとっくに機能を失っているはずなのに、わずかな通電が、不整脈みたいに時々明滅している。
シキはそこで一度止まり、深く息を吸った。
――油の匂いが混ざった。
アークが管理する区域では、潤滑剤の匂いすら抽出され、フィルタに吸われる。
ここに漂うそれは、フィルタを通っていない、生の油の臭気だ。
機械と人間の汗が、何度も何度も上書きされてきた歴史の匂い。
(……悪くない)
鼻孔のセンサーを、わざとオーバーライドして感度を上げる。
清潔な嘘で塗り固められた世界から、ようやく外に出たのだと、嗅覚が告げていた。
シキはダクトの端までにじり寄り、格子の隙間から外を覗いた。
そこは、虚空だった。
違う。空虚ではない。
あまりに巨大すぎて、まず「空」に見えるだけの、地下空間。
視界の端から端まで、黒い穴倉のようなドーム。
天井は高すぎて、光が届いた先の構造が判然としない。
ところどころで、古いクレーンのアームが蜘蛛の脚みたいに伸び、宙吊りのまま止まっている。
足元近くには、コンテナ。崩れた足場。分解途中のシャトルの胴体。
どれもこれも、アークが「不要」と判定し、廃棄した旧時代の設備や船の残骸だ。
油と鉄と、焦げた配線。
ここは、機械の墓場だった。
(……非合法ドック、ってわけか)
シキは格子を内側から軽く蹴った。
古びたボルトが一本、気の抜けた音を立てて転がる。格子が外れ、鈍い金属音を響かせて床に落ちた。
音が、この広さの中でどのくらい拡散するのか、予想できない。
息を詰めて、十秒数える。
……反応なし。
シキは身を滑り出させ、錆びた鉄骨の上に降り立った。
足場がきしみ、長年の埃がふわりと舞い上がる。喉の奥が少しむず痒くなるのを、意識的に無視した。
頭上では、どこか遠くでプラズマカッターの火花が散るような光が点滅した。
だが、音は届かない。距離がありすぎるのか、それとも遮音構造なのか。
シキは義体の膝を軽く曲げ、周囲を一周見渡す。
視覚拡張を段階的に解放し、奥行きと輪郭を拾っていく。
――広い。
アーク管理のシャトルドックなら、とっくにレイアウト図と安全ラインが視界にオーバーレイされているはずだ。
ここには、何もない。ガイドも、矢印も、注意喚起の優しい音声も。
あるのは、消えかけた黄色いラインと、壁際の落書きだけ。
コロニーの白い壁には決して許されない、雑で暴力的な色彩。
《ARK SUCKS》
《境界の外で会おう》
《NO EYES》
シキは最後の文字列に、ほんの僅か眉をひそめた。
(“目がない”ね。監視が薄い、って意味か。それとも――)
その先を考えるのはやめた。
ここで偏執的な推理を始めるのは、ただの自殺行為だ。
今は一点だけに集中する。
――座標。
シキは義体の内側に保存していた座標データを呼び出す。
レイナから送られた断片。非合法ドックの中でも特定の一点を示す、粗い位置情報。
視界の片隅に、簡易のベクトル矢印が浮かび上がる。
この空間で、アークのナビゲーションを使うわけにはいかない。
だから、これはあくまでシキが自前で組んだ、原始的な方位表示だ。
(あっちか)
彼は鉄骨の足場から飛び降りた。
絡まり合ったケーブルの束を蹴飛ばしながら、コンテナの谷間を抜ける。
足下には、割れたバッテリーパックや、使い古した義肢のフレームが転がっていた。
人型だったものの脚部。関節だけが残った指。
アークの清潔なリサイクルセンターでは決して見ない、“処理しきれなかった残りかす”。
ふと、誰かに見下ろされている感覚がした。
シキは歩みを止める。
背筋に冷たいものが、細いケーブルみたいに這い上がった。
(……気のせい、だといいけど)
視界の周縁に、アークのアイコンは一つも浮かばない。
それでも、“見られていない”という確信は、どこにもない。
アークは、気づいていないのか。
本当に。
それとも、あくまで“見逃しているだけ”なのか。
「……やめやめ」
思考が陰に落ちていく前に、シキは声に出して自分を切り上げた。
ここで神経をすり減らすために、わざわざ管理外通路を抜けてきたわけじゃない。
(見るべきものは、別にある)
ベクトル矢印が、少しずつ角度を変えながら、シキを導いていく。
彼はそのたびにコンテナを迂回し、足場を渡り、時には壊れたシャトルの翼を踏み越えた。
やがて、ドームの一角が開けてくる。
瓦礫の海が途切れ、なだらかなスロープが黒い床へと降りていた。
そこだけ、周囲よりもわずかに整頓されている。
きちんとした秩序ではない。野良犬が何度も同じ場所を通った結果みたいな、一種の踏み跡。
スロープを降りた先――暗闇の中で、巨大な影が沈黙していた。
シキは反射的に息を呑む。
それは、船だった。
ただし、アーク管理のシャトルとは似ても似つかない。
優雅な流線形も、白と銀で塗られた清潔感もない。
目の前にあるのは、ツギハギだらけの金属の塊。
複数の船体から切り取られたパネルが、無理やり一つに縫い合わせられている。
溶接の痕は荒く、補修された箇所は錆色と焦げ跡でまだら模様だ。
無骨な船体の側面に、掠れた文字が見えた。
シキは一歩近づき、指で錆と汚れを拭う。
浮かび上がったのは、英字の列。
Mourner
悼む者。
その単語を認識した瞬間、背筋に薄い電流が走るような感覚があった。
(死者を運ぶ船……ね)
禍々しい、という言葉が似合う。
だが同時に、その存在には妙な「重さ」があった。
アークのシャトルが持たない、鈍くて、しぶとい、生存の重み。
レイナが送ってきた盗撮映像のフレームが、脳裏の奥で重なる。
境界線の外側で建造されていた“何か”。
そこに使われていた骨組みの形状と、この船体の一部が、奇妙な親和性を持っている。
(ここが、鍵か。レイナ――)
名前を思い出した瞬間、胸の内側で何かが鈍く軋んだ。
アークに“削られた”記憶の縁に、まだ触れてはいけない。
その直感だけが、彼を引き止める。
代わりに、シキは船体を眺めながら、冷静に自分の義体の状態をチェックした。
違法改造された反応速度。
正規のスペックを越えて調整された視覚と、短時間のオーバークロック用の隠しルーチン。
――全部、レイナの仕業だ。
その事実だけは、削られずに残っている。
彼は船の側面に手を触れた。
金属は冷たく、ざらついていて、ところどころで塗料が剥がれ、内部の配線が露出している。
それでも、確かに「ここから出られる」という確信を持てるだけの質量があった。
「悪趣味な名前つけるよな……」
独り言のつもりだった。
返事が返ってくるとは思っていなかった。
「だろ? 初めて見たやつは大体そう言う」
音は背後から響いてきた。
アークのガイドボイスが決して持たない、ザラついた低さ。
砂利を踏んだブーツの音が、わずかに遅れて鼓膜に届く。
シキは反射で振り向きかけ――途中で止めた。
背中の筋肉を固め、足の位置を変えない。
義体の内部で、戦闘用サブルーチンが起動を求めてざわつく。
シキはそれを押さえつけるように、声だけを動かした。
「スクラップの持ち主ってわけか? それとも、悪趣味なネーミング担当?」
背後の人物が、鼻で笑う音がした。
「どっちも、だいたい当たりだな。
……で、お前は何だ? 迷子か、それともスクラップ屋か?」
最初に聞こえた言葉が、耳の奥で反芻される。
――“迷子か? それともスクラップ屋か?”
シキはゆっくりと両手を上げた。
肩の位置より少し高く。武装していないことを示す、古典的なジェスチャー。
「観光客、って選択肢はないのか?」
「ここは観光地じゃない」
声が一歩、近づいた。
その気配と同時に、皮膚センサーが一つの線を検出する。
額を狙う、冷たい一点。
銃口。
古い設計の物理弾か、それとも簡易プラズマか、そこまでは分からない。
だが、どちらにせよ当たりたくはない、という点で同じだ。
今度こそ、シキは振り向いた。
ゆっくりと、警戒させない速度で。
そこにいたのは、アークの保守要員とはまるで違うシルエットだった。
全身を、重装の義体か作業用強化服で固めた大柄な人影。
装甲プレートの表面には、知らない企業ロゴと、塗り潰された古いマークが幾重にも重ね塗りされている。
ヘルメットのバイザーは黒く反射していて、表情は読めない。
ただ、片手で構えられた銃だけは、やけに生々しく見えた。
古くて、雑な、物理的暴力。
アークの監視に守られた世界の外側で、唯一有効な通貨。
シキはその銃口を見つめながら、自分の状況をあっさりと言語化した。
「管理社会からは、どうにか抜けてきたつもりなんだけどな」
「おめでとう」
ヘルメットの内側で、何かが笑った気配がした。
「ここから先は、管理も救済もない。
あるのは、契約と裏切りと、スクラップだけだ」
銃口が、わずかにシキの眉間に押し当てられる。
金属の冷たさが、皮膚センサーを通じて骨の奥まで染み込んだ。
「ようこそ、無法地帯へ。
さて――交渉するか? それとも、スクラップにしてやるか?」
シキは、笑うか迷った。
笑える状況ではない。
だが、笑うしかない時というのも、世の中には確かに存在する。
「その二択、どっちもあんまり趣味じゃないんだよな」
指が、引き金の上で、ほんの僅かに動いた。
空気が、静かに凝縮する。
アークの目が届かない場所で、初めて突きつけられる「無加工の暴力」。
シキは、義体の奥の違法改造が、熱を帯び始めるのを感じていた。
――交渉か。排除か。
ほんの数ミリの引き金の重さが、彼の次の一歩を決めようとしていた。




