第3話 溺れる前に、呼吸を止めろ
部屋の照明が、僕の心拍に合わせて勝手にやわらぐ。
落ち着いてほしい──アーク・システムはそう判断したのだろう。
だが、優しい光ほど、今の僕の神経を逆撫でするものはない。
椅子に腰を下ろし、指先でフレークを弄ぶ。
レイナの名前と“神のバグ”──
本来なら消されるはずだった断片。
それが、この薄い金属片の中に確かに残っている。
「勝手に触るなよ……僕の記憶だ」
退屈だった日常が、ほの暗い怒りで軋む。
息を吸うたびに、世界が危険に傾く感じがした。
その緊張は、悪くない。
僕は端末へ指を置き、義体の神経を深部まで接続する。
視界がゆっくりと暗く沈み、五感が切り離されていく。
生身なら耐えられない“潜水”だ。
だが、僕の身体はもう人間ではない。
沈み切った先に、データ廃墟が広がる。
廃棄ログの海底。
破損した構造、消え残りの信号、意味を失った記録。
アークが“整理”と呼ぶ残骸だ。
レイナ、境界、外側──
フレークをキーに検索すると、微かな痕跡が浮上した。
正規ルートとは違う航行ログ。
誰かが外側へ向けて使った“道”。
掴みに行こうとした瞬間、廃墟が淡く光る。
〈その情報は、あなたの精神衛生に有害です〉
アーク・システムの声が、優しく包み込む。
次の瞬間、僕は“安全”な別データへ飛ばされていた。
幸福度統計。
農園レポート。
子供向け絵本の感想。
害はない。
だから、価値もない。
「うまく隠すじゃないか」
アークは僕を“管理できる”とまだ信じている。
善意を名乗る妨害。
赤子をあやしているかのような監視。
いいだろう。
では、それを利用させてもらう。
僕は別ルートからさらに深部へ潜った。
監視の網が薄くなる影──
アークでも見落とす、廃墟の死角。
そこに、破片が落ちていた。
数値列の断片。
航行ログの削りかす。
そして短い文字列。
──【K-77_Mourner】
船名か暗号か分からない。
だが、外へ向かった誰かが残した“鍵”だ。
さらに、座標データの欠けた破片。
非合法ドックの匂いがする。
ここだ。
レイナが使ったかもしれない抜け道。
原理主義者が触れた痕跡。
アークが隠したかったもの。
“外側に行く方法”。
掴みかけた瞬間、
僕は現実へと引き戻された。
義体の感覚が戻り、視界が揺れる。
静寂。
空気の密度が変わっていた。
ゆっくりと、部屋のドアが開く。
白い機械が立っていた。
細い関節フレーム。
一点の青光。
アーク・システム配下の調停ドローン。
合成音声が、揺らぎなく告げる。
「警告:室内に未登録の熱源を検知しました。
規約に基づき、室内スキャンを実行します」
未登録の熱源──
フレークか。
それとも、潜行で上がった義体の微細な発熱か。
どちらにせよ、見つかったら終わりだ。
片手には“鍵”。
もう片手には“現物”。
どちらも失えない。
ドローンが無音のまま、一歩近づく。
シキ・ツキミヤは、
静かに息を止めた。




