11話 境界
地鳴りのような低い轟音と、硝煙や土煙の粉臭さが染み渡った世界。
真衣は初めて世界心象へと足を踏み入れ、個人心象とは全く違うその光景を前に、ただ呆然と立ち尽くしていた。
現実と変わらぬ世界構成。それでいて荒廃したゴーストタウンが如く、崩れ落ちた市街地。
(これがパブリックネットワーク…?まるで紛争地帯にでも迷い込んだみたい…)
遠方からは悲鳴のような甲高い風切り音が鳴り響き、担架で運ばれる者は青の制服をドス黒く染め上げて呻き声をあげる。
個人心象で起きるような世界の揺らぎも、唐突な場面転換も――ここでは一切見られない。
安定しながらも嫌になる程の現実感がそこにはあった。
<ーー真衣ちゃん。大丈夫かい?>
通信ノイズ越しから能木の声が響く。その声を聞いてようやく、真衣は気を取り直した。
「はい…少し、いつもとの違いに驚いていただけです」
<ーーははっ。なるほどね。まぁローカルネットワークとは全然違うもんねぇ>
能木の軽い含み笑いに、真衣は少しばかりムッとする。なんだか負けたような気がしたのだ。
<ーー前にも少し言ったことだけどローカルが個人の部屋で、パブリックはそれらの集まったマンションみたいなものだからね。滲み出た思念の集合体ってのは限りなく、現実と近くなることが多いんだよ>
「なるほど…だからこんなにも現実味があるんですね」
<ーーまぁ今回はそれだけじゃなくて相手が心枢教だからねぇ。心象生物が相手ならともかく、お互い人同士だとどうしても――泥臭い戦争みたくなってしまうものさ>
能木は続けて「嫌だよねぇ」と軽口をこぼす。つまるところ、荒れた市街地や硝煙の匂いは戦場化した副産物――ということなのだろう。
遠くから響く轟音。その激しさは増すばかりだ。
真衣がしばらくの間荒廃した世界を眺めていると、駐屯テントから堂島が出てきたようだ。
浮いた天幕の奥では健康的褐色肌の女性が綺麗な背筋で敬礼をしていた。
「集合」
堂島の短いかけ声。それに応え、散らばって休息を取っていた二十四名は即座に整列を完了する。
真衣はそれに少し遅れ、慌てて最後尾へと走り込む。
だが並んではみたものの、目の前には黒い城壁のようながっしりとした背中が見えるばかり。
少し背伸びをしてみても、その景色はまったく変わる気配もない。
真衣は仕方なくその秩序立った隊列を半歩乱し、間から覗き込むことにした。
「現在の戦況は膠着状態。篠谷がうまく敵を散らし、時間を稼いでくれている。もうしばらくは戦線を維持できることだろう」
真衣はその言葉を聞いて少し、胸を撫で下ろす。
堂島と真衣の到着を待ち、戦線を維持し続けてくれたのだ。これでもし瓦解していたともなれば罪悪感が芽生える。
「だが、それは戦友の血によって成されていることを忘れるな。我々が本作戦の要だ。皆の期待に応え、カルト連中の首は我々が掴む。いいな?」
「「了解!」」
静かでありながら、腹の底に響き渡るような檄が飛ぶ。二十四名は一糸乱れぬ動きで靴を打ち、敬礼でそれに応えた。
「ん、どうした?日向」
秩序だった隊列の中、一つだけ高く挙げられた手が見える。
少し色落ちし始めた金髪にカチューシャをつけ、前髪をオールバックにまとめ上げている。控えめにいってもチャラそうな男だ。
「来馬は別行動でしょうか?」
真衣はその発言を聞いて気づく。そういえば来る時よりも六人くらい、隊員が少ない。
「あぁ。来馬は後衛の遊撃に回ってもらった。また前線に代わりの人員が補充されることもない」
堂島の言葉に少しばかり、隊員の空気が揺らぐ。
だがそれも一瞬だった。堂島が軽く手を振ると、ざわめきはすぐにかき消える。
「我々は虐殺者ではない。故に相手が犯罪者であろうが享楽的な殺害は認めん。それは今までと同じだ」
堂島はそこで一拍、間を空ける。
緊張感と共に独特な重みが、隊員の間を駆け巡った気がした。
「だが前線の人員が不足していることも事実。よってお前らに一つ、俺からオーダーを出す」
そう呟く堂島の眼差しに、いつもの優しさはどこにも感じられなかった。
「手加減をするな。必要とあらば斬り捨てろ。命の優先度を履き違えるな。お前ら一人一人の迷い、甘えが隣の戦友を殺す。それを肝に銘じろ――此度の作戦に限り、脅威対処としての一方的な殺害を許可する」
命の優先度。その言葉にどれ程の重みがあるのだろうか。
それはまさに神の如き傲慢であり、道徳的にも決して許されることではない。
だが同時に、これは戦争なのだ。綺麗事は自らの首を絞め、引いては戦友の死へと繋がってゆく。
堂島の目は、そんな嫌になる程の現実を直視している目だった。
真衣はこの時になってようやく、心象生物と戦う時とは違った――理性を抱えたままの覚悟が必要な任務だと理解した。
堂島はあえて、それを部隊全体に認知させるため「一方的な殺害」という強い表現をしたのだろう。
人の命を刈り取る。その事実を有耶無耶にさせないためにも…
隊員がもう一度、靴を打つ敬礼によって了解の意を示す。
しかし真衣には、それが今までと異なり――冷えた金属のような、形容しがたい“固さ”が含まれていると感じられた。
(私に…この人達と同じ強さは持てるのかな…)
ここへ来るまでの間に、真衣は覚悟を決めていたつもりだった。
だがそれは自分に対する覚悟だけであり、この場ではそれすらも甘い認識でしかなかった。
本物の覚悟とはどういったものなのか――真衣は並び立つ隊員達の力強い眼差しを見て、それをまざまざと理解するのだった。
――――――――――
行軍する隊列の中、真衣の表情は硬いままだった。
隊の外縁では脳裏対策局とは別のラフな格好をした者達が、化け物相手に死闘を繰り広げている。
堂島から聞いた限りでは今回の依頼に応えてくれた個人事務所の人員らしい。
彼らの任務は不定期に湧き出る心象生物を刈り取り、外縁からこの部隊へ近づけさせないことだと聞いている。
外縁とはなお距離があり、すぐに刃が届くような間合いではない。だが血を流して戦う者達を前にし、緊張の糸は少しずつ張り詰めてゆく。
そんな緊迫した空気の中、隊列を乱して真衣へと接近してくる影があった。
「浮かない顔だねぇ〜お嬢さん?」
顔を上げると、そこには色落ちした金髪頭のチャラ男。
槍を首の後ろに掛け、両手をリラックスさせているその姿に、緊張の色は全く見られない。
真衣は少し困惑しながらも隣の堂島を見やる。
てっきり叱咤の一つでも飛び出るかと思いきや、堂島はまるで気にする様子がない。理由は分からないが、日向の行動を黙認するようだ。
「…なんですか?」
真衣は怪訝そうな声を漏らす。
気さくだが軽そうな男。仕事には誠実な真衣にとって、正直あまり好きなタイプではない。
「おっとぉ。そんな警戒しないでくれよな。きみ、世界心象は初めてらしいじゃん?」
「そうですけど」
「肩、力入りすぎだよ~?今からそんなんじゃ疲れるだけだって。リラ~ックスリラ~ックス」
こちらの緊迫を逆撫でするかのような物言いに、日向の姿にアキラの面影が重なる。
日向に悪意はないのだろう。だが悲しいかな――真衣の脳裏に重なったその姿は不愉快さを加速させるばかりだった。
「余計なお世話です」
「えぇ!?うそでしょ?そんな塩対応なの??」
思い通りの反応がもらえなかった日向はオーバーな表情で驚き、真衣は既にそんな姿から目を逸らしていた。
「たはぁ…こりゃまた、癖強そうな女の子が来たもんだなぁ…」
「ちょっと。またってどういう意味よ」
日向のぼやきに真衣の隣を歩いていた”仮面の者”が反応する。
その仮面からは想像もできない可愛げな声を聞いて初めて、女性だということに気付いた。
日向はまるで悪ガキのような顔で仮面の女性を睨みつけ、吐き捨てるような物言いで悪態をつく。
「ッハ。仏頂面鉄仮面な篠谷に文字通りの仮面女。俺たちにだって春があってもいいじゃねぇか。なぁ墨谷」
「…知らん。僕を巻き込むな」
前方から気怠そうな声がどんよりと流れてくる。陰鬱な雰囲気を纏った男がこちらを振り向きもせず、マスク越しに言葉を零す。
現在先鋒を歩いているのはリュウと日向、そして墨谷と呼ばれた男の三人のみ。
こんな姿でも二課の先鋒を任せられている以上、それだけの実力者なのだろう。だが――なんとも不安を感じる二人である。
「…いい度胸ね日向。私たちを侮辱したその言葉、もう取り下げらんないわよ」
「お?やるかぁ?”仮面相手”なら、俺の手は緩まねぇぞぉ?」
「日向」
隣の堂島が呆れた様子で止めに入る。そこでようやく、危うくなりかけた二人の空気が断ち切られた。
「っとぉ…時間切れか。ま、お嬢さんは安心して、俺たち先鋒の背中に付いてきなぁ。しっかりエスコートしてやっからよ」
日向は戻り際、真衣に向けてウィンクを残す。
その姿は自信に満ち溢れており――先ほどまでの軽薄さとは違う、太陽のような暖かさが真衣を包むかのようだった。
それはどこか、近所にいる年上の兄のような気安さが感じられた。
真衣の緊迫はそんな小さな安堵によって氷解し始める。
「気は紛れたか?嬢ちゃん」
「…はい、ありがとうございます」
「ははっ。それは俺じゃなく、後で日向に言ってやるといい。きっと面白い反応が見られるぞ」
堂島の言葉を最後に、場の空気は一気に張り詰める。
いつの間にか外縁で戦っていた者達は後方のみとなり、前方には広大な市街地が開けていた。その一角には教会を思わせるひと際大きな建物が見える。
心枢教の根城は既に、目前へと迫っていた。
――――――――――
「止まれ!!」
心枢教の根城から怒声のような大声が響き、二課の行軍は一時休止となった。
中からは百を超える法衣姿が、教会の石段から庭園へと広がるように現れた。白地の布には黒糸の装飾が走り、目元以外は全て同じ生地で覆い隠されている。
その中に三人、法衣に赤いラインの入った者達が見える。おそらく教団の中でも地位が上の者なのだろう。
「我ら心枢教の聖域を土足で穢すとは…なんたる不敬!”聖別”に理解を示さぬ蛮族共めが…!」
「貴様ら人心に害しかもたらさんカルトに許可が必要だったとはな。初耳だ」
真衣の隣から凪いだ冷たさが通り抜ける。普段の堂島からは感じたことすらない、凍てつくような視線が敵を見据えていた。
「で?貴様らと話すことなどないと思ったんだが…降伏する気にでもなったか?」
「笑止!蛮族共に下げる頭なぞ無し!我ら敬愛せし教祖様に代わり、蛮族共の罪は血で贖ってもらう!」
「交渉決裂か…まぁ初めから、期待はしてなかったが」
堂島の言葉と共に二課全員が臨戦態勢へと移行する。緊張の糸は既に、最大限に張り詰めていた。
「蛮族共には死の制裁を!我ら高潔なる意志には不滅を!」
「貴様らカルトに慈悲はないと思え――【十二支守護本尊】」
堂島が虚空に力ある言葉を落とすと同時に――その心力は形となる。
八つの半透明な宝珠が堂島の周囲に顕現し、それらは粒子状の淡い光のように見えた。
内三つは即座に形を変え、一つは堂島の身体全体を覆い、二つは両の手に纏わりつく。
能木から聞かされていた堂島の“自我”。真衣は思わず息を呑む。
これこそが――脳裏清掃員の到達点、“自我真核”の一つ。
張り詰めた緊迫がもたらす一瞬の静寂が、戦場を吹き抜ける。
それを皮切りとして両軍の指揮者は片や荒々しく、片や静かな音色を持って開戦の合図を紡いだ。
「突撃ィ!!」「進軍」
両軍が一斉に動き出す。初めに動き出したのは敵方からだった。
突っ込んでくる敵軍の後ろから、炎が渦巻く。それらは中空に浮かんだまま静止し、次の瞬間一斉にこちらへと放たれた。
火球は避けられる。だが隊列を崩せば、それだけで陣は乱れる。真衣は隊の次の動きを予測しようと周りを見やる――が、何も変わらない。
二課の隊員達はまるで目前の現象に気付いていないかのように、ただ前進するのみだった。
(え!?どうすんのよこれ!)
真衣は困惑と焦りを感じながらも、自分だけが隊列を乱すわけにもいかず走る。
すると堂島が静かに、それでいて力の籠った言葉を木霊させる。
「【三鈷鈴】」
堂島の言葉と共に、二つの宝珠が鐘へと形を変える。それらは部隊先鋒の両翼へと移動し、涼やかな鈴身の音を響かせた。
音は空間を伝播し、火球へと届く。すると猛威を振るうはずだった火はみるみるうちに小さくなり、気付けば初めから何もなかったかのように鎮火していた。
「んなッ!?」
心枢教の面々に目に見える程の動揺が走る。そしてその一瞬の隙を――二課の先鋒が見逃すはずなかった。
「いただき♪」
日向が槍を回しながら敵陣へと突き入り、まるで雷電が如き速さで敵を薙ぎ払っていく。その軌跡にはまさしく雷のような残光が尾を引き、まばたきが終わる間もなく十名以上の法衣が血に染め上がって地に伏せる。
日向は勢いを殺さずそのまま暴れまわり、右翼から左翼へと縦横無尽な動きで敵を掻き乱していく。
敵陣奥深くで孤立する形となった日向だったが、中央側では墨谷が隊の障害となりそうな四名程を的確に片づけ、真衣ら次鋒と先鋒までの道を繋いでいた。
「すごい…!」
「ちょっと日向ぁ!コイツらまだ息あるじゃないの!私たちの仕事無駄に増やさないでよね!」
「はぁ?おいおい仮面女は堂島さんの言葉すら聞こえなくなったのか?この程度で本気出したら弱いイジメになっちまうだろ。俺は後で無駄な殺しだなんて、堂島さんにドヤされたくねぇんだよっ」
日向の言葉とは裏腹に、次鋒以降は『残敵の無力化』という無駄な仕事が増えてしまい、隊列も縦に伸びてゆく。それによって隊の厚みもじわじわと薄れ、各戦線には無理が生じ始めていた。
「ちょっと日向…クソ!あのじゃじゃ馬が!久々に堂島さんが出てるからってはしゃぎすぎよ!」
「【羂索】…はぁ、日向もまだまだ【経巻】【三鈷鈴】若いな…リュウ、前に出ろ。日向をサポートしてやれ」
堂島の周りに浮かんでいた宝珠は、その形を変えながら戦場のあちこちへと飛び回る。
それらは先鋒から後方の本軍に至るまで、各隊の綻びを埋めるように絶え間なく介入していく。まるで混迷する戦局を遊戯盤上の如く、容易く捌いているかのようだった。
先鋒の中で唯一隊列を崩さず、同じ行軍速度を取っていたリュウは堂島の言葉に一つ頷き、影へ溶け込むかのようにスッと姿を消した。
「隊列を少し変えるぞ。峰岸と墨谷、それに嬢ちゃんは隊の先鋒へ。俺が後ろから必ずサポートする。峰岸は嬢ちゃんのカバーを最優先にしろ」
「「了解」」
二人の声が重なり、真衣は頷くことで了解の意を示す。
「能木、お前も嬢ちゃんに付け。俺には緊急の救援座標だけでいい」
<ーー了解です。真衣ちゃんのサポートに移ります>
「嬢ちゃんは無茶しなくていい。突破力には期待してるが自分の身を最優先にしろ」
「分かりました」
隊列が変更され、次鋒には堂島を含めて班程度の人数が残った。
先鋒ともなれば先ほどまでと異なり、敵が雪崩れ込むように殺到する。それを仮面の峰岸が防いで体勢を崩し、墨谷が的確に仕留めていた。
(あの二人と近接で合わせるのは難しそう…なら!)
「能木さん!”ライフル”で行きます」
能木とは事前に武装を準備してもらっており、それぞれに略語のコードを合わせておいてある。
通信ノイズ越しから「おっけー」という軽い返事が聞こえ、真衣の手元には青いノイズと共に軍用アサルトライフルが出現する。
墨谷と峰岸が織り成す連携の合間を縫い、真衣のアサルトライフルが甲高い金属音を鳴らす。
行軍速度は落とさず、しかし正確な射撃で敵を牽制し、隙ある者には鉛玉を打ち込む。
その弾丸は丁度、峰岸を取り囲みつつあった一人を撃ち倒すことに成功した。
「へぇ?やるじゃない!」
「近接では足手まといになりそうなので、中距離から支援します!」
「わお、しかもなんて良い子。日向にもその慎み、分けて欲しいもんねぇ」
「…日向には無理」
墨谷と峰岸が軽口を叩きながらも、真衣のエリアに敵が入り込まないように立ち回っている。真衣もそれに負けじと二人を支援し、戦局は順調に思えた。
――だがこちらの先鋒は真衣を入れても三人であり、敵の物量は圧倒的。
次第に真衣のエリアは狭まり始め、ついには敵の凶刃が真衣へと向けられた。
「救済ッ!制裁ッ!救済ッ!制裁イィッ!」
「――!!”クイック”!」
真衣が気づいた時、それは既に目前へと迫っていた。辛うじて能木との連携が間に合い、青いノイズが逆刃の双剣となって敵の凶刃が食い止められる。
眼前で金属同士が嫌な音を立てながら火花を一瞬散らし、体勢が不十分だった真衣は徐々に押し込まれてゆく。
「…ッ!」
滲む汗が額を滴り落ち、二撃目の受け身を取るため体勢を整えようとした――その瞬間。
法衣の男はまるでトラクターにでも追突されたかのように吹き飛ばされ、そのまま数メートル離れたところで黒いトラクターに絡まれていた。
「この変態野郎!うちの可愛い新人に何してくれちゃってんの!」
トラクターは仮面の女、峰岸だった。だが法衣の男も力があるのか、峰岸は攻めきれずにいるようだ。数度のせり合いで敵の体勢をようやく崩し、ガッチリと組み合い始めた。
「新人ちゃん!」
「っはい!」
真衣はそのまま峰岸の協力を得て、双剣を敵の胸元へ差し込む。抵抗できない法衣の男にその斬撃を避ける術はなかった。
「ゴボッ!アッ…」
法衣のマスクが赤く染めあがり、そのダムはすぐに決壊して粘着性の雫となり、真衣の手を穢す。
その気持ち悪い感触に驚き、真衣は慌てて双剣を引き抜く。すると今度は剣にべったりと着いた赤い液体が滴り落ち、手の平へと伝っていった。
剣を落とせば、手元に残ったのは生温かい体温とネバついた赤黒い液体――
この時初めて、真衣は敵が人間であると認識してしまった。
「――?―――!」
生々しい感覚はべっとりと真衣に纏わりつき、戦場に居るはずだが徐々に――その喧騒すらも遠くに感じられた。
視界の焦点は己の手の平だけを写し取り、自分の意志とは関係なくそれに吸い寄せられる。意識は段々と白み初め、そしてそのまま――
「――!!」
――真衣の耳に轟音が響き渡り、意識は一気に覚醒する。
周りには法衣の者が取り囲むように接近しており、峰岸と墨谷がその凶刃を受け止め、中空に創られた障害物と淡い光の衣が残りの被害を受け流していた。
「集中!!」
後方から堂島の強い檄が飛び、峰岸と墨谷が一気にまとまった敵を薙ぎ払う。
そこでようやく、真衣は現状を理解した。
「――すみません!」
「いらん!切り替えろ」
真衣の言葉に堂島は見向きもせず、戦局を把握しながら言葉だけを返す。
真衣はもう一度、自分の手を見る。そこには先ほどと同じで生温かく、ねばつきのある血の感触。
気持ち悪い感覚はいまだ消えず、心臓は早鐘のように打ち鳴る。
真衣はゆっくり深呼吸と共にその手を閉じ、不快な感触を丁寧に握りつぶした。
「――はい!」
「ここの戦局は大方決した。敵方の指揮官二名はリュウが既に討ち取り、一名は根城へと退却。これより先鋒および次鋒の隊は敵拠点の制圧に移行する。本軍は当エリアの確保を優先。第二線チームに引き継ぎと負傷者を任せた後、前線に合流しろ」
堂島の言葉に顔を上げて敵陣地を見やれば、赤いラインの入った法衣の者が二人分死体となっていた。
その場にいたリュウは再び影へ溶け込むように姿を消し、一瞬で日向の支援に戻っていった。
統制のなくなった法衣の者達を片付け、二人と合流することはそれほど難しくなかった。
「随分と遅かったなぁそっちは。リュウさんと俺で全部終わらせちまったぜ?」
「っんの!誰のせいでこっちがめちゃくちゃになったと思ってるわけ!?」
「…後で部長査問」
「でぇ!?いやいや俺一番活躍したっしょ!?指揮官二人も倒してるし!」
「リュウ先輩がやったって聞いてますけどー?どうせあんたは雑魚蹴り飛ばして浸ってただけでしょうが」
「いーやいや!…え?あ、マジ?…いやでも最初のはガッツリ道切り拓いたっしょ!ねぇ堂島さん!」
「むぅ…」
堂島が口癖の鼻濁音を鳴らし、隊には少しばかりの静寂が訪れる。堂島は顎を摩り、少しばかり思案を続けていた。
「今言うことでもないんだが…まぁそうだな。日向、お前は少しはしゃぎすぎだったな」
堂島の言葉に日向は崩れ落ち、峰岸と墨谷はハイタッチを交わしていた。
敵の根城真っ只中だというのに、この人達のメンタルはどうなっているのだろうか。真衣はそんな可笑しな空気感にクスリと笑みをこぼすのだった。
堂島が咳払いをすると、今までの緩んだ空気は一瞬にして霧散する。そこにいるのは既に、歴戦の猛者達。
この空気が一瞬で変わる場面には少しばかり、真衣も痺れる高揚感を感じてしまう。
「さて、先に報告した通り、指揮官の一人が敵の根城へと逃げ込んだ。軍を捨ててでも逃げ込んだ――ということは、教会内に本命の戦力が控えている可能性も高い」
堂島はそこで部隊員を見渡す。皆二課の精鋭だったとはいえ、確かに先ほどの戦闘はあまりにも一方的に勝ててしまっていた。
脳裏対策局が長年手を焼いている組織の一拠点――というには、あまりにも張り合いがなかったようにも感じてしまう。
「ここからは分隊規模の我々のみ。一人一人が己の役割を全うする必要がある。皆油断などないとは思うが、気を引き締めて臨んでくれ」
堂島の言葉に対し、九名の敬礼が静かに返される。真衣も遅れて、堂島に頷くことで了解の意を示す。
誰も、余計な言葉は口にしなかった。
最前列のリュウが教会の扉に手を掛ける。
それはまるで真衣達を迎え入れるかのようで――ひどく静かに、ゆっくりと開かれた。
世界観用語
●日向太陽
南部脳裏対策局二課の一級清掃員。養成校の卒業資格を半年で掴み取った神童で一級清掃員には最近昇格が認められた。現在23歳。非常に高い身体能力と精神力を持っているが、少々突っ走ってしまうきらいがあり、指揮官には向いていない。主に槍を使った戦闘が得意であり、代名詞でもある雷撃を纏うかのような槍捌きは堂島も組み手で手を焼く程の速さ。来馬とは同期であり、良きライバルとして競い合っている。オペレーターの月津は日向のコントロールを諦めており、放任主義でサポートに徹している。戦闘に関しては南部脳裏対策局支部長が師匠。
●峰岸美津子
南部脳裏対策局二課の二級清掃員。養成校の卒業資格を中々取れなかった過去があり、さっさと取ってきた同期の日向を目の敵にしている。現在27歳。戦闘時には仮面、手甲のように頑丈な手袋、隊服の下に鎖帷子の3つを必ず身に着けている。仮面は戦闘で顔を傷つけられたくないため身に着けている。身体能力にかなりの練度を持つが、武器の扱いが苦手なため、大体無手での組み技や立ち技で戦っている。声がギャップ並に可愛く、また仮面の下の容姿も割と整っているため、戦闘時と普段で混乱する人が多い。日向と訓練室で勝負する時は仮面を外すため、対日向戦の勝率は80%を超えている。みっちゃんと呼ばれると喜ぶ。
●墨谷虚索
南部脳裏対策局二課の二級清掃員。陰鬱な雰囲気を纏っているが、関わりのある人いわく、意外とノリがいいと言われている。とはいえ基本は面倒くさがり。現在28歳。戦闘スタイルは様々なものを卒なくこなせるが、どの武器を使うにしても”三ツ矢工房”でオーダーした判官筆を必ず常備している。かなり大枚をはたいて作らせたらしく、【iltiŕ 】クラスの管理者権限にも耐えられるのでは?と噂されている。工房製品を持ってきた時、オペレーターと少し言い争いになったことがあるが、現在は和解して仲が良い。趣味は水墨画と絵画鑑賞。
●【十二支守護本尊】(自我真核:堂島幸雄)
八つの守護本尊をモチーフとした自我真核。八つの宝珠と八つの力を持つ。
❶【宝珠】:基本形。力はないが一番速く、自在に動かすことができる。形を変えると速さが必ず宝珠以下になる。千手観音の持ち物
❷【宝剣】:剣の形。物理的な力は弱い代わりに精神的な能力が強く、精神的な繋がりを断ち切ったり、精神に介入する媒介として使用できる。虚空蔵菩薩の持ち物
❸【経巻】:書物の形。経巻を媒体として、術を行使することができる。様々な事ができる反面、その効力は小さい。文殊菩薩の持ち物
❹【三鈷鈴】:持ち手に3叉に分かれた鉾と、逆側は裾が広がった洋鐘の形。鐘を鳴らすことで中程度の放射系現象をかき消すことができる。鉾側で現象を捉えた場合はそのエネルギーを吸収し、鐘を鳴らすことで放つことができるようになる。普賢菩薩の持ち物
❺【水瓶】:瓶花の形。中の液体を用いることで、傷ついた者を癒すことができる。精神的な負担が一番大きく、堂島の精神力を持ってしても重傷者を一人治す程度が限度。死者を生き返らせることはできない。勢至菩薩の持ち物
❻【大日条帛】:淡い光の衣。纏っているものに絶大な力と守りを与える。八つの宝珠の内一つしか大日条帛にはなれない。大日如来の衣
❼【羂索】:縄の形。縛られた者のあらゆる力を封じる。縛られた者の強大さや精神力によって、使用者の精神力も大きく損なわれていく。場合によっては水瓶以上の精神消耗となる可能性もある。不動明王の持ち物
❽【九品来迎印】:印相の形。二つの宝珠を使って両の手に纏わせる。上品・中品・下品それぞれ3種類の計9種類の型があり、それらを纏わせることで身体的強化などを得る。それぞれによって消耗する精神力や能力が異なる。阿弥陀如来の印相




