09話 燭火の禍根
朝寒は澄んだ空気を吹き入れ、キリキリというモズの高鳴きが響く早朝。
キッチンからは、野菜を刻むトントンという一定のリズムが聞こえていた。
洗面台には水が流れ、野菜を洗うキッチンの主がその冷たさに肩を震わせる。
雑に切った野菜はそのまま、パン生地との間へ放り込む。
そしてハムにケチャップとマスタード。それら簡単な調味料と食材を押し込むだけで、朝の仕事は終了だ。
キッチンの主――真衣は、いつもより二人分少ない朝食を準備していた。
自分が食べるだけの朝食。多少雑であれ、美味しく食べられればそれで良いのだ。
リビングに向かうと少しばかり、肌寒さを感じる。椅子が床を引く音は嫌に大きく、パンを食む音は虚しく反響する。
(今日は静かだなぁ…)
いつもならうんざりする騒がしさも、静けさばかりともなれば恋しさすら感じ始める。まったく、人間の感情とはおかしなものだ。
今日は二ヵ月に一度の、博士とアキラが出かける定期健診。
真衣は呆けた気持ちのまま足をブラブラとさせ、閑寂の朝を気ままに過ごしていた。
手軽な朝食は、数分にも満たず食べ終えてしまう。
真衣が『よっこらせ』と感情遠く腰を浮かせた、その瞬間――空っぽの事務所には珍しく、来客を知らせる鐘が鳴り響いた。
(こんな時間に来客?なんだろう)
真衣は『そういえば前にもこんなことあったな』と心内に抱えながら、片づけかけの食器をシンクに保留する。
静けさに反響した鐘が小さくなり始めると、意味もなく「はーい」と返事をして玄関へ向かうことにした。
―――――――――
やはり、というべきか――
玄関の外には真衣が予想した通りの中年が立っていた。
「堂島さん。先月ぶりですね」
「あぁ嬢ちゃん。すまんな、また朝早くに」
そう言う堂島は一目見て分かる程の疲労感を漂わせ、目の下にはひどい隈を作っていた。
真衣がそんな堂島を見るのは数年ぶりだ。その意を汲み取り、さっさと本題に入ることとする。
「どうかされたんですか?」
「あぁ、すまんが老師に繋いでもらえるか?」
「博士ですか?博士ならアキラの定期健診中ですよ?」
真衣の言葉を聞き、堂島はハッとしたように口元に手を当て、「むぅ…」という口癖の鼻濁音をもらす。
珍しく、堂島が抜けていたようだった。定期健診の日程は堂島も把握しているはずだ。
それすらも意識から外れていたとなれば――今回は相当余裕なく、ここに来たということだろうか。
「呼び戻しましょうか?」
真衣の言葉を聞き、堂島は顎を摩り始める。少しばかり思案しているようだ。
やがてガシガシと頭を掻きむしると、重い口を開いた。
「…いや、それには及ばん。少しばかり、老師の書斎に入らせてもらってもいいだろうか?」
博士が自分の書斎に招く人物は限られている。ほとんどいないと言ってもいい。
それは家族である真衣や、アキラであっても例外ではない。
以前アキラが忍び込もうとした時には、こっぴどく叱られていたものだ。
堂島はその数少ない、入室が許可された人物だ。
とはいえ、それによって留守番の真衣が疑われてしまうのは看過できない。
「いいですけど…後でちゃんと、堂島さんから博士に言ってくださいよね?」
「あぁ、分かってる。迷惑はかけんよ」
堂島の答えに一つ頷くと、真衣はリビングへ戻ることにした。
―――――――――
開け放された扉の先で、堂島が棚に入った分厚いバインダーを捲っていく。
真衣は扉の外からその様子を見守り、決して書斎には足を踏み入れない。
この先に入ることが許されているのは、真衣が知る限り二人のみ。今入っている堂島と、南部脳裏対策局の支部長だけだ。
例外的に堂島の付き添いである能木も入ることはあるが…まぁ、それはカウントしなくてもいいだろう。
真衣が自ら入ることは決してない――が、そんな秘密の書斎に何があるのか、気にならない訳でもない。
(まぁ、一応留守番中だし。家族代表として見ておかないとね?)
真衣は好奇心を抑え切れず、堂島の動向を横目に書斎を見回す。
あまり整理されていない部屋には所狭しと付箋の貼られた資料が置かれており、それら色のグラデーションによって書棚を飾っていた。
(結構、分厚い資料ばっかりだなぁ)
真衣はそこに何が書かれているのか、想像を膨らませる。
しばらく思案に耽ていると、何やら話し声が聞こえ始めた。
「ご無沙汰しております。脳裏対策局の堂島です。急なご連絡申し訳ありません――」
視線を戻すと、そこには受話器を片手にした堂島。
背表紙に『傷痍退役』付箋に『二級』と『負傷』の二つに該当した資料を開き、終始低姿勢な物腰で電話をしている。
(復職の打診…?いや、というよりも無理やり協力をお願いしてるって感じ?)
脳裏清掃員が万年人手不足であるのはいつものことだ。
――だが、退役した人にまで協力要請するところは見たことがない。
脳裏清掃員はその過酷さ故、適正ある者であっても早期退役することが非常に多い。それは外傷的にも、精神的にもだ。
一度適正外ともなれば、脳裏世界での仕事は非常に危険なものとなる。
だからこそ、一度前線を退いた人に復職――または依頼を行うことなど、見たことがなかった。
(堂島さんの疲れた様子もそうだし…今回の任務がそれほど重要だってこと?)
真衣の片手に力が籠る。
数週間前に博士と言い合いになって以降、真衣の心にはシコリが残り続けていた。
次の日以降、博士は何事もなかったかのようにいつも通りだった。
だが、真衣の反応はいつも以上に淡白だったことだろう。アキラが居心地悪そうな顔をしていた。
『博士の役に立ちたい』
内なる思いは肥大化する一方であり、目の前にはその大きな一歩となりそうな事件が転がっている。
(…ダメなのは分かってる。けど――)
真衣はこれまで、博士と口論することはあっても、博士の”譲れない部分”に踏み入ることは決してしなかった。
それは迷惑をかけたくないという幼心でもあり、本当の口論になってしまうことへの恐怖でもあった。
――十四年間、我慢し続けていた無垢なる純心。
それが先日の口論をきっかけに楔から解放され始め、抑圧出来ないほどの”思い”へと膨れ上がっていた。
「私に任せては貰えませんか?」
真衣がハッとした時、その言葉は知らずうちに漏れ出ていた。
堂島の手元には付箋ギリギリまで捲り終わった『傷痍退役』の資料。
上げた顔の渋さから見て、全て空振りに終わっていたようだ。
「むぅ…」
堂島がまた、顎を摩りながら口癖の鼻濁音を鳴らす。
真衣はその様子に少し、驚く。『きっと断られるだろう』と、見切りをつけていたからだ。
だが実際、その提案は堂島にとって無視できるものではなかったようだ。
真衣は胸が高鳴るのを感じる。あと少し、言葉を添えるだけで――脳裏清掃員としての本懐に触れられそうな気がした。
「……私では、力不足でしょうか?」
真衣は慎重に言葉を選ぶ。
分かっている。堂島が悩んでいるのは自分の力量に対してではない。
それは――
「いや、そんなことはない。ただ――」
「博士、ですね?」
真衣の言葉に、堂島は何も反応しなかった。
ただ渋い面持ちをしたままソファーへと腰掛け、口元で手を組む。
二人の視線は交錯しないまま、微妙な沈黙だけが流れていった。
真衣は堂島を説得する口実を考える。
だが、堂島の博士に対するあの敬意――生半可な理由では折れてくれそうにもない。
(理屈ではダメ…でもどうすれば――)
空転し続ける思考。だがそんな折にも”思い”は肥大化する一方だった。
真衣はその圧迫するような胸の苦みに耐えかねる。
だからそのまま――感情を吐露することにした。
「…先日、博士と喧嘩しました」
真衣の絞るような声に、堂島は初めて視線を向ける。
その言葉が何を表しているのか――堂島は正しく察しているようだった。
疲労の滲む顔に、哀愁のような淋しさを重ねる。
真衣の視線は知らず内に床へと落ちる。
堂島の顔を見ていると、罪悪感に押しつぶされそうだった。
「私は――博士の役に立ちたいんです」
たった一言。
その一言を出すためだけに、真衣の喉は悲鳴を上げるように掠れていた。
同時にこれまで抱え続けた楔が解かれていくかのような、カタルシスにも呑まれていた。
堂島が一つ、大きな吐息を漏らす。
そしてテーブルに置かれた『傷痍退役』の資料を閉じる音が聞こえた。
「任務内容はパブリックネットワークのものだ。今までとは訳が違う」
真衣が顔を上げると、睨むような視線を向けた堂島と目が合った。
その迫力に一瞬、真衣の息が詰まる。
だがすぐに内燃する純心を呼び起こし、堂島に負けぬ視線でもって睨み返した。
「分かっています」
「危険は未知数。俺ですら、全てに手が回らない可能性もある」
「…覚悟の上です」
真衣の言葉を聞き、堂島はゆっくりと吟味するかのように目を閉じる。
そして次に堂島が目を開いた時、その目には決意が宿っているような気がした。
「――老師には俺から、説明するとしよう」
「…ありがとうございます!」
真衣は堂島に向け、丁寧で勢いのあるお辞儀をする。
無理を言っていたのは百も承知。だが堂島は恩師との黙約よりも、真衣の心意気を買ってくれたのだ。
ついに手にした長年の悲願。真衣の心は奮い立つような高鳴りを感じていた。
「だが条件がある。単独行動は認めん。必ず俺の指示に従い、手の届く範囲にいろ」
「わかりました」
堂島が一つ頷き、立ち上がった。
「なら早急に発つぞ。任務概要と作戦は移動しながら共有する。準備は?」
「大丈夫です」
「よし。今回は長丁場になる予定だ。俺が持ち出す資料を揃えている間に、戸締りの確認だけはしておけ」
真衣は頷き、浮ついた気持ちを鎮めるように静かな足取りでその場を離れる。
乾いた室内には微かな物音だけが残り、ひとときの静寂へと落ち始めた。
晩秋の薄日は次第に登り始め、冷え静まった室内にほのかな秋陽が熱を灯す。
それに呼応するように、真衣の内奥にも暖かな灯が宿るかのようだった。
「――嬢ちゃん!そろそろ行くぞ!」
しばらくすると、堂島の声が玄関から聞こえてくる。
真衣は少し浮いた足取りのまま階段を駆け降り、堂島と共に慣れ親しんだ我が家を離れていった。
――後に残されたのは、斜光のみに照らされた閑寂の家。
唯一の灯もまばらな秋雲に隠され、ほどなく光量を落としてゆく。
人のいなくなった家はすぐに季節の寒さを思い出し、仮初の温もりは静かに吹き消えていった。




