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脳裏清掃員  作者: Gmy


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08話 嵐の予兆

給湯室に香る、嗅ぎなれたブラックコーヒーの匂い。


ゴリゴリと豆を挽く音は次第に小さくなり始め、お湯が入ることでその芳醇な香りが鼻腔を刺激する。

そんな無機質な音を奏でる機械(相棒)に合わせて、能木(あたぎ)は同じように疲れの溜まった肩をゴリゴリとほぐしていた。


窓の外は既に、日が落ちて久しい程の暗闇。それを横目に軽くため息をこぼし、二つのコーヒカップには燃料を充填していく。



(仕方ないとはいえ、連日泊まり込みはちょっとキツいよなぁ)



能木は上を向き、抗えぬ欲求へと(ゆだ)ねて目を(つむ)る。

すると身体はフワッとした浮遊感へと包まれてゆき、疲労が抜けていく心地良さを感じ始めた。


まさに至福のひととき。

だがそんな安楽たる瞬間も、やかましく音をたて続けていたコーヒーメーカーが沈黙したことで終わりを迎えた。



「…はぁ」



能木は上を向いた体勢のままに――照明灯が放つまばゆい光を、しょぼくれた(まなこ)に無理やり流し込む。

そうしてようやく身体に活を入れ直し、二つの温かなコーヒーカップを持って束の間の休憩所をあとにした。



――――――――――



『南部脳裏対策局二課』



見慣れたプレートが掲げられた不夜城の扉を、能木は器用に足を使って開ける。

開かれた扉の先には、事務的な話し声と秩序立った雑多な物音の混じりあう、いつもの仕事場。


能木は書類の山が積み重なったいくつものデスクを通り抜け、一番奥の上座へと歩を進める。

そこには椅子の背もたれに全身を預け、資料を顔に被せながら眠りこけた中年がいた。


能木は散らばったデスクに唯一空いた、輪染みの残る一角にコーヒーカップを置く。そして疲れ切った様子の中年に声をかけた。



「堂島さんお疲れ様です。もうしばらくで休憩も終わりですよ」



能木の声に反応し、中年の左手は緩慢な動きのまま、顔に張り付いた資料を剥ぎ取る。資料の角が額に薄い赤の跡を残していた。



「…おぅ。すまんな」



濃い疲労の色が残った目を瞬かせ、睡眠によってしわがれた声を漏らした中年――堂島は、用意されたコーヒーを口につけ始める。

その様子を確認してようやく、能木も自分のコーヒーに口をつける。

堂島が上下関係にうるさいわけではない。単に能木の性格として、上司を立てることが癖になっているのだ。


能木は小さく一息つくと、以前堂島に「置いていい」と言われた場所へ、自分のコーヒーカップを置いた。



「今日でもう三日目ですね。堂島さんもあまり無理しないでください」


「あぁ。本来であれば部長たる俺がさっさと帰って、お前らにも帰りやすい環境を作ってやるべきなんだがな…」



堂島は憂いを浮かべた目のままに、いまだ過半数が在席したデスクを見渡す。そこにいるのは皆、能木や堂島のように疲労の色が濃く残る人員ばかりだ。



「いやいや、今も自ら残ってる我々なんてのは、どいつも物好きで残ってるだけですよ」



能木はそんな罪の意識を滲ませた堂島に向け、後輩を感じさせるような砕けた口調で冗談を敷く。

するとその言葉に少し気も和らいだのか、堂島は二度鼻で笑いをこぼすと、もう一度コーヒーに口をつけた。



「お前らには苦労をかけるな。とはいえ、現状を放り出して俺が帰るわけにもいかん」



堂島は先ほどまで顔に張り付いていた資料をもう一度手に持ち、忌々しげに見やる。

そこにはパブリック(世界)ネットワーク(心象)の調査報告と共に、ある出来事について大きくまとめられていた。



「”心枢教”…ですか」


「あぁ。あのイカれたカルト集団めが」



堂島が珍しく、感情を露わに言葉を零す。そこには少なからず、憎悪と敵意が滲んでいた。


心枢教――十五年前より、脳裏世界における犯罪組織としてその名が確認された団体。教理には「全ての生命は心象体へと至らん」などというイカれた思想が掲げられている。

だが当の組織員達は、その破綻した思想ゆえに適正が高まり、強固な精神力を持ってしまっている。

そのため、自らが脳裏心象体に堕ちるようなことは滅多に起こらない。


心枢教は脳裏心象体こそ、人類が至るべき終着点と信ずる狂気の集団だ。

自らが()()を迎えられないと気づくや、その代替として、一般の人々を脳裏世界へと引き摺り込むようになった。

まるで、脳裏心象体へ堕ちる人の姿こそ、神が宿る瞬間だと言わんばかりに。


能木も堂島の感情に呼応し、知らず内に堅い握りこぶしが作られてゆく。十五年前、家族に起きた災厄の記憶と共に。

二人は親の仇を睨むかのように、分厚い資料の一部へと視線を縛り付ける。

そうして重苦しい沈黙が落ち始めたところに、カツカツと硬質な靴音がこちらに近づいてきた。


凛とした佇まい、自信に満ち溢れた歩き方、右目尻には綺麗な円形の泣き黒子(ほくろ)

――そして一瞬、男と見紛(みまが)う程の健康的褐色肌と、ざっくばらんに切り揃えられた黒の短髪。



「部長。資料をお持ちしました」



その女性は見た目に違わぬ、凛とした声と仕草で分厚いバインダーを置いていく。

彼女の名前は篠谷朔(しのやさく)。三年前に市井(しせい)よりスカウトされた新人で、数々の活躍が認められて二課に昇進――更には隊長格へと成り上がった、期待のルーキーだ。



「…あぁ篠谷。すまんな。そっちの資料棚に立て掛けておいてくれ」



以前チラッと聞いたことなのだが、篠谷には揺るがぬ正義感があり、相手が誰であれ一歩も引くことのない性格らしい。

堂島が(ねぎら)いとして食事に誘った時にも、その理屈っぽい論調に懇々(こんこん)と付き合わされ――帰る頃にはすっかり草臥(くたび)れ果ててしまったとか。


そんな経験があるからか、堂島は珍しく歯切れの悪い声で返事をする。そしてまるで距離を取りたいかのように、離れた資料棚を指差した。


仕事人たる堂島といえど、このところ疲労が溜まり始めている。

疲れすら感じさせない篠谷の振る舞いは、今の堂島にとって少し、眩しすぎたのだろう。


――だが、そんな疲れた堂島の仕草も、篠谷には別の意味に映ったようだった。



「…おい能木。まさか貴様――また部長に迷惑を掛けたわけではないだろうな?」



滲み出る憤怒と侮蔑の色。何を隠そう、篠谷は病的な程の”堂島信者”であった。


幼少期に堂島より救われた過去があるらしく、信仰心はもはや天元突破している。

その憎めない暑苦しさこそが、堂島を悩ませる原因でもあるのだが――篠谷にその気持ちが届くはずもないのであった。


能木は思わず、助けを求めて堂島を見やる。

だがそこに居るのは既に、無の境地へと至った菩薩の顔。

有事の際はこれ以上ない程頼りになる上司の姿も――この場では同じ被害者として頼りない、ただの中年な姿でしかなかった。



(ちょっと!僕は何もしてないっての!…というか、僕の方が先輩のはずだよね!?)



心の中で精一杯喚きたてる抗議の声も現実に投写されることはなく、虚しくかき消える。

篠谷の性格を端的に表すのであれば――冗談が通じず、付け入る隙すらも見せない堅物といったところだ。

故に基本が適当な能木にとって、篠谷はとてもやりにくい相手なのであった。



「おい、聞いているのか?貴様のせいで部長に何かあったらどうするんだと言っているんだ」



可愛くない後輩はそんな慌てふためく先輩に対し、冷静ながらも敵意すら滲み出た声を投げかける。

”憧れ”の隣に座るのが自分ではなく、能木というふざけた先輩であることは、篠谷の敵愾心(てきがいしん)を煽るに十分な理由であった。

ジリジリとその噴気は高まり始め、元から強い眼力を更に強めて能木を睨みつける。


能木は退路を見失い、諦観の愛想笑いを浮かべ始めていた。もはやどうにでもなれ、である。

だが、そんな危機的状況は予想だにしなかった救いの手――いや、更なる面倒ごとによって霧散することとなった。



――――――――――



「ごめんあそばせ~?あらあら、ここはいつ来ても汗臭くて品が無いですわね。トップの程度が知れてると思いませんこと?」



やかましく開かれた扉には、これまたやかましい程華美に着飾った場違いな女性が立っていた。

(つんざ)くような高音は、まるでこちらに聞かせたいかのように無駄な声高で――事実、声の指向性はこちらに向いているような気がした。


その声を聴き、隣にいた堂島は盛大なため息と共に目元を覆う。厄介事が増えたとでも言わんばかりに。


女性はまるで華やかなランウェイを歩くかのように、傲然とこちらへ歩いてくる。


場違いな程の金髪縦ロール、毳毳(けばけば)しい程に塗りたくられた口紅、豊満な胸。

――そして、嫌味ったらしい程に人を見下した傲岸不遜な立ち居振る舞い。



「ここは雑種ばかりで面白くありませんわね。そうは思いませんこと?堂島」



高飛車な発言を臆することもなく発した女性――リン・シャオは口元を扇子で隠し、上品ながらも見下す態度で堂島に話しかけた。



「エリートたる一課の部長サマが何の用だ?シャオ」



堂島は呆れたため息と共に雑な返答をする。だが、不思議とそれを受けたシャオの顔には少しばかり、喜色が見えた気がした。



「最近あなた達、”心枢教”の処理に手間取っているらしいじゃないですの?またわたくしどもがあなた方の尻拭いに駆り出されるのではと、心配になりましてね」



一課は脳裏対策局において特別な課だ。


二課から六課が脳裏世界のあらゆる事象に対応するのに対し、一課の任務はただ一つ――脳裏心象体の討伐のみである。

ゆえにその構成は少数精鋭。所属する八名のうち、オペレーターを除いた七名が”自我真核”の覚醒者という異常な集団だ。


シャオは心枢教によって新たな心象体が作られ、仕事が増えることを懸念しているのだろう。



「シャオ部長。お言葉ですが我ら二課ある限り、そのようなことは起こさせません」



シャオと堂島の間に、一回り小さな篠谷が体を差し込んだ。

能木はその行動に少しばかり、息を呑む。

『烈火の如し』とも揶揄されるシャオに意見するなど、能木にとっては考えられない。


シャオは(なま)めかしい流し目で篠谷に視線を向ける。

それは慈母のような優しげな笑みであり、同時に言いしれぬ圧力を伴っているかのようだった。



「朔ちゃん。雑種に混じる才能の原石。あなたの活躍は聞いているわ。わたくしの隊に引き入れたいと思うほどにね」


「…ご冗談を」



シャオが笑みを深める。だが、そこに優しさは無くなっていた。



「でも――少し思い上がったようね?ここはあなたの出る幕ではなくってよ」



その瞬間、シャオの体格が数倍にも膨れ上がるような錯覚を覚えた。

空気の密度が高まり――音も、呼吸も、等しく押し潰されてしまう。


雑談にざわついた事務室は一瞬で静寂へと切り替わり、血脈には凍てついた死が流れ込んでゆく。

篠谷は見えざる圧力に晒され、冷や汗と共に一歩下がっていた。


だがそんな篠谷の姿を、能木は称賛さえしたいほどだった。

傍観者である自分ですら、本能的な震えが止まらないのだ。

正面から受ける篠谷がこの程度で済んでいるのは、非凡な精神力あってこそだろう。


刹那の沈黙は永劫の窒息のように長く感じられ、誰一人として静寂を破ることができない。

張り付いた喉が音を立てることすらも許されぬ中、この場で唯一平常心を保った男が声を上げた。



「やめろシャオ。その殺気、冗談では済まされんぞ。篠谷も下がってろ」



そこに、疲れた中年は既にいなかった。

シャオとは対照的な安心感をもたらす包容力と、それでいて格を落とさぬカリスマ。


重々しい声を堂島が放ち、場に満ちていた桎梏(しっこく)のような気配は霧散してゆく。

解放された篠谷はようやく、震えた身体のまま一歩、二歩と引き摺るように下がる。

そのおぼつかない足取りこそが、先ほどの出来事が幻などではない証左だった。



「シャオ。お前が何用でこの二課に来たかは知らんが、俺の部下に危害を加えようってんなら容赦せんぞ」



堂島が先ほどのシャオに似た――膨れ上がるような気を放つ。

しかし、長年堂島と付き添ってきた能木には、それが本気の言ではないと理解できた。


経験豊富なシャオに対しても、その意図は伝わっていたはずだろう。

だが、シャオは少しばかり妖艶で意地の悪い笑みを浮かべると、頬を薄い朱に染め上げながら言った。



「あら、それは悪くない提案ですわ。学徒であった時から、あなたとのダンスは嫌いじゃなくってよ?」



堂島はため息をつき、うんざりした表情だけでそれに答える。その表情は『こいつ冗談も通じねえな』と雄弁に語っていた。


そう、堂島とシャオは同じ学徒。脳裏対策局の前身である、研究所の同期生だったはずだ。



(ってことはつまり、シャオ部長って若く見られるけど実際の年齢は――)



能木の思考が失礼な方向へと舵を切り始めたその瞬間――ギロッと般若の如き苛烈な視線が向けられる。

能木は思わず、両手を挙げてしまった。女の勘とは恐ろしいものである。


シャオはそのまま「フンッ」と鼻を鳴らすと、すぐに見下すような視線へと戻していた。



「ですけど――正直あなたといえど、もはやデュエットは楽しめそうもありませんわね。お隣が木端の如き”雑種”なんですもの」



シャオはわざとらしく『雑種』を強調する。それは()()()の当てつけでもあり、本心でもあるのだろう。


凡人たる能木にしてみれば、そう呼称されるに不満はない。

ある意味で、そうした卑屈さこそが能木の処世術とも言えるだろう。それだけで、相手の噴気はぶつける対象を見失ってしまうのだから。


――だが、その場には唯一、能木を高く買った人物もいた。



「…聞き捨てならんな」



先ほどまでのお遊びとは異なる、少しばかり険を漂わせた堂島の発言。

シャオが放った殺気のような刺々しさ程ではないが、その気迫はこの場を支配するに十分な圧であった。


堂島の変貌に、シャオは少しばかり驚いた顔をする。だがすぐ狐のように目を細めると、まるで獲物を見つけたとでも言うかのように妖艶な笑みを浮かべた。



「あら?事実ではなくって?”櫛磐窓(カムイプヤラ)”すらも使いこなせず、まるで役立たずな一般的雑種ではありませんの」


「お前の指摘が俺の相棒に向けてのものなら、今すぐ訂正してもらおう。その評価はこいつに相応(ふさわ)しくない」



堂島の()()という初めて聴く評価に、能木は万感の思いで胸が満たされる。こんな状況でもなければ、舞い上がっていたことだろう。

しかし今はそれ以上に、二人の間で散る火花のような視線のぶつかり合いに肝が冷えた。



「でしたら証明してみせたらいかが?わたくしたちは逃げも隠れもしなくてよ。ねえ?(とおる)



シャオの呼びかけに合わせ、ずっと後ろに控えていた女性が頭を下げながら半歩前に出る。


雪のような白さの髪と肌、アルビノ特有の赤い瞳、少しおどついた困り顔。

――そして、曇りない雪原を汚すかのような、黒々とした深い目の隈。



真殿(まどの)…)



能木は透き通った儚い雰囲気を持つ女性――真殿透(まどのとおる)に向けて、つい熱い視線を送ってしまう。

それもそのはず――彼女こそがオペレーター養成校時代、能木の上に立ち続けていた”頂点”。

辛酸を味わされ続けた宿敵(ライバル)その人であった。


今まではその溢れんばかりの才能から、嫉妬と共に目を背け続けてきた。

だが前回、アキラという新たな天才を()の当たりにして――能木は彼女を”憧れ”として再認識するようになっていた。


透はそんな能木の視線に、ビクッと肩を震わせる。

まばたきと共に右へ、左へと視線を泳がせ――雪氷のような頬には陽光を宿す。

そうして伏せるように下を向き、ササッと二回りは大きなシャオの陰へと隠れてしまった。



(真殿って、養成校時代からあんなだよなぁ)



透の姿をボーッと追ってしまった能木の視線は、気付けばシャオの嫌味な目とかち合っていた。

腕を組み、その豊満な胸を強調するかのような立ち居姿。それはもはや、戦う前より勝った気でいるかのようだった。


そんなシャオの態度に我慢できなかった者がいる。そう、()()堂島だ。



「…いいだろうシャオ。その安い挑発にあえて乗ってやる。ちょうどお前の腐った性根を叩き直したいと思っていたところだ」


「あらおそろしい。でも大口はわたくしに勝ってからしてくださる?負け犬の遠吠えなんて、聞くに堪えませんものね」


「言ってろ。老師(せんせい)の仲裁がいつもどちら側に入っていたか。すぐに思い出させてやる」


「ンフフッ。今日は一段と楽しい夜になりそうね――透?空いている訓練室を手配なさい。もちろん、二つの”櫛磐窓”もねぇ?」



いつの間にか堂島も身を乗り出し、まるで悪友とつるむ時のようなギラついた笑みを浮かべていた。

能木はそんな見たこともない堂島の姿を前に、『この流れは止まらないな』と匙を投げた。


もちろん、堂島がシャオに劣るなどとは微塵も思ってはいない。

だがそこにオペレーターも加わるのならば話は別だ。

透と能木の力量差は歴然としている。堂島は能木を高く評価してくれたが、透に比べて見劣りするのは変えようのない事実なのだ。



(どうしたもんかなぁ…)



チラッと横目に視線をずらせば、篠谷が鬼気迫るほどの形相で睨みつけていた。

その表情は雄弁に『負けたら承知しない。負けたらお前のせい』と直言するかのようだ。


能木は天を仰ぐ。

今後篠谷から、より苛烈な応酬を受けることになるのだろう。


もはや止められぬ流れ。能木が真っ白に燃え尽きたような表情をし出したその時――館内にはけたたましくも聞き慣れてしまった警報が鳴り響いた。



<ーー緊急事態、緊急事態。世界心象T-18地区にて脳裏心象体を確認。南部一課は直ちに戦闘準備を。推定される危険度ランクは【iltiŕ(イルティル)】。十全な準備の元、鎮圧へ向かってください>



――――――――――



清聴していた局員が、一斉にざわめきだす。

ボルテージの上がっていた二人は冷静さを取り戻し、能木の隣には渋い顔をした堂島がいた。


その内心を代弁するかのように、篠谷の口から言葉がこぼれる。



「T-18地区…」



その場所は現在、二課が担当する”心枢教の拠点”と思しき場所の一つ――T-17地区の隣だった。


広大な世界心象において、隣り合った区域で偶然、問題が発生することなど考えにくい。

この脳裏心象体が心枢教の影響下にある可能性は、非常に高かった。


篠谷の小さな声に対し、シャオは薄く目を細めると荒い鼻息を吐き出す。



「フンッ。興が削がれましたわね。これがあなた方の尻拭いではないことを、願うばかりですわ。行きますわよ、透」



シャオは不満気にそう愚痴ると、深紅と金刺繍の隊服をはためかせながら踵を返す。


台風の目が過ぎ去り、あとに残されたのは重苦しい雰囲気を醸し出した三人。

ここにいる誰一人として、これが偶然の緊急事態とは考えていなかった。



「堂島さん…」


「分かっている。だが今はヤツらの活動拠点が一つ割りだせたと、前向きに捉えよう」



そう言う堂島の顔は、苦虫を潰したかのように歪んでいた。

すぐに首を振って取り直すと、三名での簡単なブリーフィングが流れのままに始まる。



「我々二課も仕事に取り掛かる。だが、拠点制圧となると手が足りんな…」


「部長。三課に協力を要請しましょう」


「いや、三課は今、西部との合同演習中で外せんだろう。まずは四課の”監視者”に通達。二課のオペレーターと連携して拠点の特定を急がせろ。能木」


「了解です」



能木は頭の中でタスクを組み立てる。

自分の仕事ぶりが全体の行動開始を早めるのだ。手抜かりは許されない。



「次は後詰めだな…敵の規模にもよるが、六課の人員を使った人海戦術を基本としよう。最大で二課の半数までを各分隊の臨時隊長とし、全体の指揮は篠谷。お前がやれ」


「ですが!…それでは前線の攻撃隊に不安が――」


「後詰めの指揮も重要だ。ヤツらに逃げる隙を与えんためにもな。他の課と連携を密にするとなれば、お前の強気な指揮が必要となる。やってくれるな?」



篠谷は不満気に眉を歪めながらも、不承不承といった様子で「分かりました…」とつぶやく。

久方ぶりに堂島が前線に出る大仕事だ。隣に立てないのがよほど悔しいのだろう。



「――とはいえ、前線が手薄になるのは篠谷の言う通りだな。せめて突破力のある人員がもう一人欲しいところだが」



真っ先に思い浮かぶのはローレン博士だ。おそらく堂島も、その選択肢は常にあるだろう。

だが、博士には既に別件も任せていると聞く。

堂島にとっては、恩師に何度も(すが)るのは忍びない――といったところか。


ふと、能木は突破力に長けた人物を思いつく。

危うさがあり、全体の能力でいえば二課の平均以下だが、”突破力”という点についてはこの目でも確認している。



「真衣ちゃんをスカウトするのはどうでしょう?」



申し分ない提案に思えたのだが、堂島はそれに対してため息で答える。


それは能木の愚案に対するため息――というよりは、その先の()()に対して零したものだった。



「老師の過保護には困ったものだな…能木。悪くない案だが、おそらく許可が下りんだろう」



たしかに、前回の依頼ですらも許可はなかなか下りなかった。

パブリック(世界)ネットワーク(心象)での仕事ともなれば、より難色を示すはずだ。


能木は顎に手を置く。

そうなると、適切な人材はなかなか思いつかない。

だが、脳裏清掃員に限らなければ――真衣よりも強力なサポート人員がいる。



「では、アキラ君は?」



堂島は少し不思議そうに眉を上げ、能木を見やる。

だが、すぐに得心(とくしん)いったかのように小さな声を漏らして言った。



「坊主については論外だ――まぁ、そうだな…お前に分かりやすく結論だけ伝えるのなら、嬢ちゃん以上に許可が下りん」



オペレーターは基本、危険とは無縁だ。

真衣の許可が下りない理由はてっきり『危険だから』なのだと思っていたのだが――違うのだろうか。


能木は頭を捻り、その理由に考えを巡らせる。

だが、全く見当もつかなかった。



「やはり…老師に頼むしかないか」



堂島は渋い顔で重い呼気を落とす。

濃い疲労の下には少し、バツの悪そうな表情が見えた。


そんな姿に篠谷が疑問を口に出す。



「部長の老師とは、それ程の人物なのですか?」



篠谷の質問に、能木も少し同意する。ローレン博士が脳裏対策局の仕事をする場合、大抵が単独行動だ。

それは能力が高いからこそ、できることなのは理解している。だが、実際にその仕事ぶりを見たこともなかった。


二つの疑問を抱えた視線を受ける堂島は、どこか含みのある笑いを喉の奥に転がしていた。



「まぁお前らが疑問に思うのも当然か。今の老師はあまりにも昔とは違いすぎるからな――だがな、老師は全盛期を過ぎた今ですら、俺など遠く及ばん。昔は片っ端から心象体を屠ってしまう姿から”人食い狼”とすら呼ばれていた程だからな」



能木はまじまじと堂島の顔を見てしまう。だが、その表情に嘘や誇張の色は見出せなかった。

その表現が正しいのであればあまりにも、今の印象からはかけ離れている。

あのおちゃらけた老体が”人食い狼”と呼ばれているなど、能木の想像力ではイメージできなかった。


篠谷も同じような顔ではあったが、能木よりかは納得しているようだった。

それは能木よりもローレン博士と関わる機会が少なく、あまり今の印象が定着していないからこそだろう。



「まぁそんなわけだ。俺は早朝、老師の事務所に向かうとしよう。お前達は老師の到着次第、すぐ全体が行動に移せるよう準備を進めておいてくれ」


「「了解です」」



二人の声が重なり、各々が役割を胸に刻むと、静かに各所へ散ってゆく。


夜の帳は不気味さを深め続け、払暁の鐘は未だ鳴り響かない。

擦れた歯車は徐々に定流から逸脱し、歪みは不快な摩擦音と共に軋轢が生じる。


この作戦が異例に異例を重ねる事態へなることなど――今の彼らには知る由もなかった。

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