約束の杯
よろしくお願いします。
祝宴の夜が来た。
王都の大広場は、これまでにない装飾で彩られていた。
松明の明かりが、金銀の装飾を照らし出す。
まるで、天上の宴のような豪華さ。
しかし、知る者にとっては、それは葬送の準備に見えた。
市民たちが、次々と集まってくる。
皆、最高の服を着ているが、表情は硬い。
「笑顔を……笑顔を作らねば」
「勇者様に、失礼のないように」
恐怖が、不自然な笑顔を作らせていた。
重臣たちは、より深刻な表情だった。
これから起こることを知っているから。
「準備は……」
「整っています」
小声でのやり取り。
震える手を、必死に隠す。
そんな中、アルトの家族が到着した。
「すごい! お城が見える!」
リナが、目を輝かせている。
父親は、普段着ではなく、一張羅を着ていた。
息子に恥をかかせられないと、何度も身なりを整える。
母親は、小さな包みを大切に抱えていた。
中には、息子が好きだった焼き菓子が入っている。
「アルトったら、全然帰ってこないから……」
愛情のこもった小言。
まだ息子が、普通に帰ってくると信じている。
重臣たちが、家族を見る目は複雑だった。
哀れみと、罪悪感と、そして羨望。何も知らずにいられることへの。
「勇者アルト・レイヴァン、入場!」
号令が響いた。
白い礼服を着たアルトが、ゆっくりと現れた。
人々は息を呑んだ。
美しかった。
恐ろしいほどに、美しかった。
白い礼服は、まるで死装束のようにも見えた。
いや、アルトは分かっていたのかもしれない。
だから、最も美しい姿で現れたのだ。
三年前の、あの優しい青年の面影は、もうない。
そこにいるのは、研ぎ澄まされた刃のような男。
しかし、アルトの目は、真っ先に家族を見つけた。
「父さん……母さん……」
微かに、表情が和らいだ。
「リナ……」
リナは、一瞬戸惑った。
兄の雰囲気が、あまりにも変わっていたから。
でも、すぐに笑顔になった。
「お兄ちゃん!」
駆け寄ろうとして、周囲の雰囲気に止められた。
アルトが、ゆっくりと家族に近づく。
人々が、さっと道を開ける。
「久しぶり」
できるだけ優しい声を出そうとした。
でも、もう、優しい声の出し方を忘れていた。
父親が、胸を張った。
「よくやったな! 息子よ」
誇らしげな声。
息子が英雄であることを、心から誇りに思っている。
父は知らないのだ。息子が、もう息子でなくなっていることを。
母親が、包みを差し出した。
「あなたの好きな……」
「ありがとう。後でまた貰いに来るね。今は王様の所へ行かないと……」
中身が何かを聞かなかった。
もう、味など分からないから。
もう、その中身を見ることが出来ないと気がついていたから。
リナが、恐る恐る聞いた。
「お兄ちゃん! パンの作り方覚えてる?」
「……もちろん」
嘘だった。
もう、パンの作り方など覚えていない。
剣の握り方しか、悪の裁き方しか、もう知らないのだ。
でも、妹を悲しませたくなかった。
「お兄ちゃん、あとで一緒にパン作ろうね!」
リナが、小さな声で言った。
緊張で張り詰めた空気の中、その声だけがやけに澄んで響いた。
「……うん、後でね」
アルトは、小さく笑った。
それはまるで、夢の中の約束を聞いたかのような微笑みだった。
「今宵は、そなたのための宴じゃ」
王の声が響いた。
アルトは、王の方を向いた。
その瞳に、全てを理解した光が宿っていた。
「光栄です」
深く、頭を下げた。
それは、感謝の礼だった。
自分を終わらせてくれることへの。
王は、その意味を理解した。
だからこそ、声が震えた。
「勇者アルト・レイヴァン」
正式な呼びかけ。
「そなたは、世界を救った。魔王を討ち、平和をもたらした」
市民たちが、拍手を始めた。
最初は恐る恐る、やがて大きく。
本心からの感謝と、恐怖が入り混じった拍手。
「そなたに、『英雄の酒』を」
黄金の杯が運ばれてきた。
中には、琥珀色の液体。
そして確実にそこにいる見えない死。
アルトは、杯を受け取った。
重さを確かめるように、一瞬、手の中で転がした。
これが、自分の最後の仕事なのだと。
「ありがとうございます」
そして、市民たちを見渡した。
怯えた顔。
強張った笑顔。
恐怖に震える目。
かつて、自分を送り出した時とは、全く違う表情。
「皆さん」
アルトが、口を開いた。
市民たちが、びくりと震えた。
静かな声。
責めるでもなく、ただ事実を述べる声。
「私は、応えました。皆さんの願い全てに」
誰もが、俯いた。
自分たちが彼にかけた言葉を、彼に背負わせた重すぎる期待を思い出していた。
アルトは、杯を掲げた。
「だから……これも、皆さんの願いでしょう」
その言葉の意味を、理解した者がいた。
理解できない者もいた。
でも、全員が感じた。
何か、恐ろしいことが起きていると。
「世界の平和に」
アルトが言った。
「平和に……」
小さな声。
誰かが呟き、誰かが口をつぐんだ。
1つにならない声。
本当は、皆、わかっていたのだ。
これはただの祝宴ではない。
これは、世界が英雄に引導を渡す夜だということを。
アルトは、家族をもう一度見た。
父は、誇らしげに息子を見ていた。
母は、優しく微笑んでいた。
妹は、不安そうに、でも兄を信じる目で見ていた。
「ありがとう。ごめんなさい」
小さく呟いて、杯を口に運び、一息に、飲み干した。
読んでくださりありがとうございます。
ブクマ、評価、感想、よろしくお願いします。