悪のない平和
よろしくお願いします。
魔王が倒されたというのに、王都には奇妙な静寂が訪れた。
鳥の声すら、どこか遠慮がちに響く。
犯罪は激減した。
誰も争わなくなった。
商人は正直になり、役人は清廉になった。
統計上は、理想的な社会が実現していた。
窃盗件数:ゼロ。
傷害事件:ゼロ。
汚職告発:ゼロ。
完璧な数字。完璧すぎる数字。
完璧すぎる統計が、かえって不気味だった。
誰もが声を潜め、笑顔を作ることさえ忘れていた。
子どもを叱る母親の声も、ひどく小さい。
まるで、世界が“勇者に聞かれている”ことを前提にしているかのようだった。
恐怖という名の平和。
「昨日は、旅の商人が……」
酒場の片隅で、人々がひそひそと囁く。
「相場よりかなり高くものを売っていたらしい」
「それで?」
「次は無いと脅されたらしい」
――沈黙。
「……それだけ?」
「それだけ、だ」
「まだ生きてるのか」
「ああ。勇者様も、少しは慈悲深くなられたのかもしれん」
「慈悲……か」
かつては残酷と思われたことが、今では慈悲に思える。
勇者の基準は、日に日に厳しくなっていた。
子供がものを盗んだ。その足を斬ると脅された。
老人が過去の罪を告白した。許されなかった。
「でも、俺たちが望んだんだよな」
誰かが、ぽつりと呟いた。
「魔王より強い英雄をって、悪を全て滅ぼす者をって」
皆が、苦い顔をした。
「悪を全て滅ぼすって」
願いは、確かに叶えられた。
ただ、想像とは違う形で。
「ここまで願ったわけじゃねえよな……」
「いや、願ったんだよ、俺たちは」
老いた騎士が、酒を呷りながら言った。
市場では、人々が怯えながら買い物をしていた。
「釣り銭、確認してください」
「い、いや、大丈夫です」
「お願いです、確認してください。一枚でも違っていたら……」
商人の手が震えていた。
客の手も震えていた。
どちらも、同じ恐怖に怯えていた。
その時、市場の入り口に、見慣れた影が現れた。
灰色のマントを纏った、勇者アルト。
瞬時に、市場は凍りついた。
まるで時が止まったかのように、誰も動かない。
誰も息をしない。
アルトは、ゆっくりと市場を歩いた。
その視線が向けられる度に、人々は俯いた。
そんな中、一人の少年が母親に問うた。
「どうして皆、勇者様を怖がるの? 悪い人じゃないのに」
母親は答えに詰まった。
「それは……」
母は、目を伏せた。言葉の刃が、喉元に突きつけられたようだった。
「勇者様は悪い人をやっつけてるんでしょ?」
「そう、だけど……」
どう説明すればいいのか。
正しすぎることが、時として最も恐ろしいということを。
少年の声は、まっすぐだった。
その無垢な声に、母は答えを探すように空を見上げた。
曇った空には、光も影もなかった。
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