焼き菓子の味は知らない
よろしくお願いします。
静寂が、大広間を支配した。
最初に動いたのは、リナだった。
「疲れちゃったって言ってたもん! 寝てるだけだもん!」
必死に兄を揺さぶる。
「起きて! 起きてよ!」
その姿に、多くの者が顔を背けた。
直視できなかった。自分たちの罪の結果を。
王が、重い声で言った。
「これが、魔王の……最後の呪いじゃ」
もう一度、用意された台詞を言う。
しかし、もう誰も信じていなかった。
言葉は虚しく宙に浮き、そして消えた。
嘘は、真実の前では無力だった。
市民たちは、顔を見合わせていた。
疑念が、静かに広がっていく。
真実に気づき始めた市民たち。
しかし、確証はない。
ただ、胸の奥でわかっている。
これは、自分たちが望んだ結果だと。
アルトの母親が、息子の体にすがりついた。
母の手には、潰れかけた紙包みが握られていた。
中には、まだ温もりの残る焼き菓子。
蜂蜜とナッツの香りが、かすかに漂う。
アルトが、一番好きだったもの。
それを胸に押し当てながら、母は泣いた。
「焼きたてなのに……アルトの好きなやつなのに……なんで食べてくれないの……」
慟哭が響く。
「なぜだ……」
誰かが虚空に向かって呟く。
「なぜ、こんなことに……」
その問いに、答えられる者はいなかった。
いや、答えたくなかった。
人々の祈りや期待が彼をつくり、壊し、そして……。
その真実を、口にすることはできなかった。
ガレスが、震える声で命じた。
「勇者の……英雄のご遺体を……」
兵士たちが動き始めた。
しかし、リナが離れなかった。
「やだ! お兄ちゃんを持っていかないで!」
必死にしがみつく。
小さな手で、兄の服を掴んで離さない。
近衛兵の一人が、優しくリナを抱きしめた。
「離して! お兄ちゃんは……お兄ちゃんは……」
言葉にならない叫び。
子供の、純粋な悲しみ。
それは、大人たちの罪悪感をさらに深くした。
遺体が、運び出されていく。
白い礼服は、血で赤く染まっていた。
しかし、その顔は安らかだった。
市民たちは、呆然と立ち尽くしていた。
何人かは、涙を流していた。
罪悪感からか、悲しみからか、それとも――安堵からか。
「俺たち……何てことを……」
誰かが呟いた。
しかし、その言葉を最後まで言う勇気はなかった。
人々は、重い足取りで帰り始めた。
誰も目を合わせない。
誰も話さない。
ただ、罪の重さを背負って。
祝宴の料理は、誰も手をつけないまま冷えていった。
最後まで残ったのは、アルトの家族だった。
「どうして……」
母親が、泣きながら問いかけた。
「どうして、あの子が……」
父親は、ようやく口を開いた。
「俺たちが……送り出したから……」
自責の念に、押し潰されそうだった。
「俺たちが、英雄になってこいと」
母親が首を振った。
「あの子は、ただ……皆を助けたかっただけ、優しい子だったから……」
リナは、まだ理解できていなかった。
ただ、兄が二度と帰ってこないことだけは分かった。
「お兄ちゃん……嘘つき……」
小さく呟いた。
王は真実を話すことはできない。
アルトが全てを知っていたことも。
それでも毒を飲んだことも。
王はただ沈黙し、立ったまま拳を握りしめた。
爪が掌に食い込むほど、強く。
血が滲んだ。
自分を痛めつけることで少しでも許されようとする、自己満足の自傷。
そんなもの、贖罪にはならないと分かっていた。
臣下の誰も、その姿に声をかけることはできなかった。
夜風が吹いた。
焼き菓子の甘い香りを運びながら。
もう二度と、その味を知ることのない者のために。
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