灰色の凱旋
新作です
数話お付き合いください
朝靄が、まるで喪服のように王都を包んでいた。
本来なら市場の準備で賑わうはずの時刻。だが今朝の王都は、まるで時が止まったかのように静まり返っている。
石畳を打つ、1つの足音。規則正しく、機械的に、そして恐ろしいほど静かに。
勇者が帰ってきた。
「勇者様……」
誰かが囁いた。それは歓声ではなく、ため息に似ていた。
アルト・レイヴァン。
かつて希望と呼ばれた男。聖剣に選ばれた、勇者。
鎧の隙間には、乾いた血と泥がこびりついていた。
その胸甲には無数の刃の跡。
肩には深く食い込んだ魔の爪の痕。
布地はほつれ、マントは焼け焦げ、かろうじて勇者の威容を保っているだけだった。
しかし人々が恐れたのは、それではない。
その瞳だった。
何も映さない、灰色の瞳。
まるで、世界の全てを見尽くして、そして絶望した者の瞳。
「魔王は?」
震える声で、誰かが問うた。
「倒しました」
ただそれだけ。感情の欠片もない声。
歓声は上がらなかった。
ただ、安堵とも恐怖ともつかぬ吐息が、朝靄に溶けていった。
老婆が群衆の中で呟いた。
「私たちが、あの子に『戦え』と言ったのよね」
隣の男が顔を背けた。
「悪を滅ぼせと望んだのは、俺たちだ」
三年前、この同じ通りから、希望に満ちた青年が旅立った。人々は花を投げ、歌を歌い、祝福の言葉を送った。
「必ず勝って」
「私たちの勇者様!」
「あなただけが希望」
「必ず魔王を」
その言葉の重さを、当時は誰も理解していなかった。
通りには、鳥の鳴き声すらなかった。
子供の笑い声も、商人の呼び声も。
世界が音を飲み込んで、ただ一人の帰還者を見つめていた。
アルトは、群衆を見渡した。
その視線が向けられる度に、人々は俯いた。
まるで、裁きを恐れる罪人のように。
商人が、隣の者に囁いた。
「昨日、隣町の飯屋の店主が……」
「しっ、勇者様に聞かれる」
会話が途切れた。
恐怖が、言葉を封じていた。
アルトは、ゆっくりと城へ向かって歩き始めた。
人々は道を開けた。
誰も近づこうとしない。
誰も、目を合わせようとしない。
ただ一人、幼い少女が母親の手を振り払って前に出た。
「勇者様、ありがとう!」
無邪気な声。
三年前と同じ、純粋な感謝。
アルトは立ち止まり、少女を見下ろした。
その瞳に、一瞬だけ何かが宿った。昔の優しさの、残滓のような何か。
しかし、すぐに消えた。
「……どういたしまして」
囁くように言って、また歩き出した。
母親が慌てて娘を抱き寄せる。
「勇者様に、近づいちゃダメ」
小声で叱る声が、静寂の中に響いた。
少女は不思議そうに、母を見上げる。
なぜ怒られているのか、分からずに──首をかしげた。
「でも、お母さん。勇者様は悪い魔王をやっつけてくれたんでしょう?」
母親は答えられなかった。
アルトの背中が、城門に吸い込まれていく。重い扉が閉まる音が、王都全体に響き渡った。まるで、棺の蓋が閉じられるように。
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