9 北の辺境伯
「ディノ………」
アトラスは深いため息をつき、先程までヴァネッサが腰掛けていたソファーに、視線を合わせる。
そして、ディノを恨みがましく見やった。
「まったく、なんて事を言ってくれたんだ。これで、もう事件の真相に近づく事ができないじゃないか」
ヴァネッサ個人が狙われた。と、ディノは証言してしまった。
これで『人騒がせな令嬢たちが、小説を参考に聖女を呼び出し、失敗してしまった事件』として、捜査は終了するのだろう。
ヴァネッサはディノの交際相手だ。
あの舞踏会以降、王太子妃候補にヴァネッサの名前は上がらない。
『王太子妃候補』が狙われた訳ではないので、もう騎士団は動かない。
『聖女召喚の魔法陣を、誰が彼女らに教えたのか』という疑問は追及されないだろう。
それに、『消えた侍女が猫になった』などと、誰が信用するだろうか。
どちらにしろ、アトラスが猫を保護する必要もない。
当たり前だが、王族が他家の侍女を保護する必要もない。
「申し訳ありません。つい………」
ディノが頭を下げる。
「でも、珍しいね。ディノがムキになって反論するなんて。いつも、冷静沈着なのに。 僕の思惑に気付いていない訳じゃないでしょ?」
顔を背けたディノに、アトラスは笑みをこぼす。
彼の耳がほんのりと赤い。
「案外、ディノとヴァネッサ嬢は、お似合いかもね」
アトラスは、ニンマリと微笑んだ。
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「お父さま、やりましたわ!」
嬉々とした表情で侯爵家の馬車に乗り込んだヴァネッサは、とても気分が良かった。
あの公爵子息を、やり込めてやった。 その上、猫も引き取る事ができた。
一人ニマニマしながら、膝の上の猫を撫でる。
「それにしても、なぜ猫なのかしらね? 犬でも良かったんじゃない?」
「猫は、聖女の守護獣だと言うから、お前達に良縁を授けるつもりだったのかもな」
「私には、悪縁だったわ。でも、もう縁は切れたわよね? この後良縁を運んでくれるのかしら?」
父であるビスク侯爵の言葉に憮然としながらも、ヴァネッサは顔をほころばせ猫を両手で抱え上げる。
「期待しているわよ」
そう言って、ヴァネッサは、猫に頬を寄せた。
(そんなことを言われても………)
私は困惑していた。 この数日の変化についていけない。
つい先日までの私の日課は、アトラスの中庭での優雅にお昼寝だったのに。
それでも、お嬢様の元気な姿を見られて安心した。
これで、人間に戻れたら、また、お嬢さまの侍女に戻れたら、言うことは無い。
でも、もう、王族の援助は期待できないだろうから、魔導士の塔での『解呪』は出来ない。
このまま、猫として生きていかねばならないのだろうか………。
私は、不安な気持ちを抱えたまま、お嬢様の膝の上でまどろんでいた。
―――何処へ向かっているのだろうか。 少なくともタウンハウスではない。
ひと眠りしたのに、いまだ馬車は走り続けている。
お嬢様の頬を夕日が照らす。 侯爵は険しい顔で、なにやら書類とにらめっこをしている。
時折、従者と小声で話をしているのだが………。
私は一つ伸びをして、お嬢様の膝の上で立ち上がった。
車窓から見えた景色は………、いまから戦争にでもいくのか?と思えるぐらいの騎馬が、この馬車を取り囲んでいる。
「エリス」
急に名前を呼ばれ振り返ると、書類に目を落としたままの侯爵が話しかけていた。
「お前はエリスなのか?」
私を射抜くような視線だ。 喉の奥が痙攣でもしているかのようで、声が出ない。
「王家の………、魔導士の回し者なら、覚悟しておけよ」
その時、クスクスと笑い声が頭上から聞こえた。 お嬢様だ。
「大丈夫よ、お父さま。 この猫はエリスよ。 間違いないわ」
自信満々に彼女は答えた。 なぜ、エリスだと断言できるのだろうか。
「この子から感じる魔力はエリスと同じだわ。 彼女のような温かみを感じるもの」
そう言いながらお嬢様は、私に頬ずりをした。
「エリス。私があなたを必ず人間に戻して見せるわ」
そう言ってお嬢様は、私の鼻先にキスをした。
―――半月ほどかけて、ようやく目的地に着いた。
まだ夏だというのに、遠くに見える山々の頂上には雪が被り、空気は爽やかだ。
ここは、どこだろう? かなり北部の方だと推測できる。
いくつかの門を通り抜けているのだが、いまだ邸宅が見えない。
そればかりか、山間にいくつもの堅固の城壁や塔が見え隠れしていた。
「ここは、北の辺境伯の城だ。 あの先のつり橋を渡ったところが居城だな」
侯爵の指差した先の、はるかかなたの山の中腹あたりに、石造りの城が見えた。
「私の遠縁にあたる親戚だ。テオーセ信仰の起源と言われている土地だ」
テオーセ信仰。
魔獣被害や疫病が多い北部領に、はるか古来から信仰されている土着神がいた。
普段は穏やかな女神で、人々の健康を守る女神だが、ひとたび荒ぶると悪魔と思えるような災害を巻き起こすとされている。
また、その女神の慈悲のおかげか、辺境伯の血筋の者は皆、魔力操作や剣術において、優れた能力を授かっていた。
長い時を経て、土着信仰と神話に登場する医神の二人の娘が融合し、テオーセ信仰が生まれた。
テオーセの泉に願えば、何でも叶えてくれる。と。
本来は、健康と長寿の女神なのだが………。
「きっと女神様が、エリスを人間に戻してくれるわ」
お嬢様が、祈るように呟いた。
私は、自身の魂が震えているように感じていた。 ここには何かがある。
私の知りたくない何かが、暴かれるような気がした。
なおも馬車は、山道を進んでいく。 気のせいか、空気が張り詰めているように感じていた。
お嬢様も侯爵様も、あれ以来一言も発さない。
二人とも無言で窓の外、だんだんと近づいてくる城塞を見つめている。
すべるように馬車が、正面玄関に止まった。
お嬢様に抱えられたままに、車外に出るとヒヤリとした空気に身震いする。
陽が陰ってきたせいだろうか。
正面扉の両側の石壁は蔦に覆われ、いかにも古城の雰囲気が出ていた。
今上がってきたばかりの、石畳の坂の両側にあるガス燈に灯が入り、幻想的な表情を見せる。
幼いころ絵本に見た『妖精城』のようだ。
「ほとんど手紙と同時だな」
笑い声と共に現れたのは、スラリとした騎士の装いの紳士だった。
「急を要していたので、失礼した」
侯爵は親しげに彼に近づき、ヴァネッサと猫を紹介する。
「遠くから疲れただろう。まずは部屋でゆっくり休まれてはどうだろうか」
スペリオール辺境伯と名乗る彼は、侍女たちにヴァネッサを託した。
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ヴァネッサが猫を抱え、侍女たちと共に階段を登っていく。
その後ろ姿を見ながら「『聖女召喚』が行われたのは、本当なのか?」と、辺境伯が尋ねた。
「あぁ。残された魔法陣を確認した魔導士が、そう証言している」
「しかし、人間が猫になるなんてな」
辺境伯は、声を殺して笑っている。
「だから急いでここに来たんじゃないか」
「その行動に称賛を贈ろう」
ふざけたように拍手をする辺境伯を軽く睨んで、侯爵は言う。
「伯爵夫妻の恩に報いるためにも、エリスは守らなければならない。 力を貸していただきたい」
侯爵は、頭を下げた。
「構わないさ。そのかわり、あの件を頼むよ。 もう、こちらだけでは太刀打ちできなくてね」
二人は誰もいなくなった階上を見つめながら頷きあった。