8 仕返し
あのお茶会以降、お嬢様はディノの誘いをすべて断っているようだ。
当たり前だろう。
「王太子妃候補から、外されて可哀想だ」
そんな理由で交際を申し込まれて、喜ぶ令嬢がいたら教えて欲しい。
紅茶を引っ掛けられるくらいで済んで、感謝して欲しいくらいだ。
(でも、もしまた、お嬢様が王太子妃候補に挙がったら………)
万が一、万が一があっても困るけど、
あの夢のように、私が、お嬢様から王太子殿下を奪ってしまったら?
保険が欲しい。
私がお嬢様の幸せを奪わない。という、保険が。
何か良い方法がないか考えながら、アトラス殿下の庭を歩き回る。
猫の本能なのか、意識せずとも目の前で跳ねるバッタに飛び掛かってしまう。
そして、気が付いた。
(私、王太子殿下にまったく興味がないわ………)
興味がないのだから、お嬢様を幽閉する理由も、王太子妃の座を狙う事も無いのでは?
だって、何とも思ってないもの。
急に気が楽になった私を、急激な眠気が襲う。
一つ欠伸をして、大きく伸びをした。
そして、気の赴くままに寝転び、惰眠をむさぼる―――。
*******
「またこんな所で寝ているよ………」
庭園に敷かれたレンガの上で、だらし無く白いお腹丸出しで、眠りこけている猫をつまみ上げたアトラスは、呆れながらもその腕に抱いた。
「ディノ。 エリスの解呪はどうなってる?」
「魔道士が、毎日行っていますが、難しいようです。そもそもが、失敗した魔法なので………」
「そうか………」
アトラスは、無防備に眠り込んでいる猫の頭を撫でる。
なんの進展もないまま、ただ時だけが過ぎていく。
―――そんなある日、ビスク侯爵がアトラス殿下の舘を訪れた。
侯爵は、アトラス殿下に会うなり「猫を引き取りたい」と言い出した。
設えの良い応接室で二人は対峙していた。
私はアトラス殿下の膝の上で、事の成り行きを見守る事しかできない。
侯爵からの提案を「まだ、解呪の糸口も見つけられない」と殿下は断るが、侯爵の方も「なんの進展もないのだから、一度私たちに任せて欲しい」と一歩も引かない。
睨み合う二人………。
しばらくの沈黙のあと、私はつまみ出された。 侯爵がエリスには聞かせたくない話がある。と言ったのだ。
行き場を失った私は、お気に入りの場所で昼寝でもしようかと、中庭へと向かっていた。
そこで驚きの風景を見た。
あの『冷めきったお茶会』が開かれていたのだ。
青々とした芝生の上に設置された日よけの下で、見目麗しい令嬢と令息がテーブルを挟んでいた。
ヴァネッサとディノだった。
二人は一言の言葉を交わさず、お互いの存在を無視するかのようだった。
ヴァネッサは小説を読んでいるようだったし、ディノは前回と同じように見当違いの方向を眺めながら、カップに口をつけていた。
彼らはいったい、何をしたいのだろうか?
心配になった私は、こっそりヴァネッサの足元に忍び寄った。
彼女が本をめくる、紙の擦れる音だけが定期的に聞こえていた。
「君はいったい何を考えている?」
ディノの、少し苛正しい雰囲気が伝わる。
私は、お嬢様の足元でドキドキしていた。
「何も? 空虚なお誘いに付き合っているだけですわ」
カサカサと紙の擦れる音がした。 カチャリとカップの音もする。
「これはいったい何の真似だ?」
パサリと何かを投げた音がする。
「返事をもらえるまで、帰れない。と、従者が言っていたようなので。 仕方なく………ですわ」
「断るにも礼儀があるだろ」
あきらかに苛立っている。 あの、優男のディノが怒りを表している。
お嬢様はいったい何をしでかしたのだろうか。
カチャリと再びカップの音がした。
「見る必要も無いし、誘いにのる気もなかったので。 紙の節約よ」
フフン。と、斜めに顎をあげ、相手を小馬鹿にしているお嬢様の様子が目に浮かんだ。
瞬間、嫌な匂いがした。
気がつけば、テーブルの上に飛び乗り、相手の、ディノの攻撃からお嬢様を守ろうとしていた。
だが、悪意の出所はディノではなかった。
もっと後方、王宮の方からだった。
瞬時に防御魔法を放った。 猫なのに。 無意識だった。 何も考えていなかった。
「エリス⁉」
お嬢様の悲鳴に近い声が聞こえ、テーブルがひっくり返った。
「エリス! エリス! あぁ。エリス!」
お嬢様に、ひしっと抱きつかれ私は身動き一つできなくなった。
よくよく見れば、どうやら人に戻った上に、裸のようだ。
「お嬢様、お嬢様。 放してください。私………」
必死に彼女の腕から逃れようともがくが、どこにそんな力があったのだろうか。と思えるほど、びくともしない。
騒ぎを聞きつけた人々が、集まってきた。
勘弁してほしい。私は裸なのに。
それなのに、お嬢様はしっかりと私を抱きしめ離さない。
恥ずかしさに気が遠くなりかけた時、パサリと何かが頭に乗った。
柑橘系の爽やかな香りがした。
「ビスク嬢。 人目があります。 ひとまず室内に参りましょう」
ディノはそう言うが早いか、私をフワリと抱え上げた。
彼の上着なのだろう、私は騎士服で覆われていた。
**********
「なにがあった!」
取次もノックもなく、アトラス殿下が部屋に駆け込んできた。 その後ろにはビスク侯爵の姿もある。
「ビスク侯爵令嬢。 ケガはないか?」
「えぇ。エリスのお蔭で無事ですわ」
ソファーから優雅に立ち上がったヴァネッサは、アトラスにカテーシーをする。
テーブルを挟んだ向かい側に立つ、ディノの肩が僅かに揺れた。
「それで………、エリスは?」
アトラスはキョロキョロと部屋を見渡している。
彼は、人を探しているのだろう。 私はあなたの足元、視線を落とさないと気づけない。
「………」
二人の沈黙と視線で、アトラスは視線を落とす。
そこには、ブリティシュブルーの猫がチョコンと座っていた。
「エリス………」
ガクリとアトラスの肩が落ちた。 わかりやすく落胆している。
しかし、落胆したいのはこちらだ。 せっかく人間に戻ったと思ったのに、また猫だ。
人間に戻った理由もわからない。
いつの間にか、テーブルに上にお茶の支度がされていた。
各々が席に着いた後、コホンと咳払いが聞こえ、ビスク侯爵が話し始めた。
「殿下。 エリスを我が家に返していただきたい」
「いや。エリス嬢の安全を考えると、人に戻ってからの方が………」
「殿下。安全だと言っていた殿下の邸宅で、娘のヴァネッサは狙われたのですよ」
ビスク侯爵とアトラス殿下の言い合いが始まった。
結局、先程行われていた二人の秘密の話し合いは、平行線だったのだろう。
アトラスの居城内は結界が貼られていて、悪意ある魔法攻撃は通用しない。
確かに、あの悪意は、お嬢様のところまでは届かなかった。
悪意の持ち主は、それを知らなかったのか。
それとも、あえて、お嬢様を狙ったのだろうか。
「殿下。標的はビスク侯爵令嬢です。 あの魔法攻撃の軌道は、令嬢に向かっていました」
淡々とした口調で、ディノが告げる。
「さすがに殿下の結界は破られませんでしたがね」
やや冷淡な視線をヴァネッサに向けた。
どうやら、お嬢様を守ったのは私ではなく、アトラス殿下の結界だ。と、印象付けたいようだ。
ディノの思惑に気づいたのか、そうでないのか。 お嬢様はとどめの一言を発した。
「それならば、エリスはここに居なくてもよろしいわよね? 狙われているのはエリスではなく、このわたくしなのですから。 殿下の御手を煩わせわけにはいきませんわ。ねぇ。お父さま」
完璧なる淑女の微笑みをたたえながら、ヴァネッサは周りを見渡す。
ビスク侯爵は、笑みをかみ殺すのがやっとだった。
「では、参りましょう。 皆さま、ごきげんよう」
晴れ晴れとした微笑みと共に、ヴァネッサは軽快に歩みを進める。
その腕には私をしっかりと抱えていた。 その後ろをビスク侯爵が続く。
誰も止める事ができなかった。 異様な静けさの中を二人と一匹が進む。
「馬車まで護衛してくださる?」
ヴァネッサは、入口にいた衛兵に声を掛け、チラリと室内を横目で見やった。