6 エリスである事の証明
見慣れた応接室のマホガニーのテーブルの上に、私は座っている。
人払いが済んだ部屋には、侯爵様とアトラス殿下、そして、私しかいない。
アトラス殿下の説明を聞きながら、訝しげに私を覗き込む侯爵様。
そりゃそうだ。 「この猫は、エリスです」と言われ、「なるほど」と、なる方がおかしい。
「これが、エリスと………」
「えぇ。以前、彼女とあった時に感じた魔力と同じものを、この猫から感じるので、間違いはないかと。 それに………」
と言うと、アトラス殿下はあの文字盤をテーブルに乗せた。
「君の名前は?」
私は文字盤を操作して『エリス』と、文字を並べた。
フッと失笑が、侯爵の口の端から漏れた。
「ずいぶんと、うまく躾けたものですね」
侯爵は腕を組み、ふんぞり返ったままだった。 少しも信用していない。
沈黙が続く。 居たたまれなくなった私は、再び、文字盤を操作した。
『秘密』
私は賭けに出た。 なんとかせねばならない。という、変な使命感とでもいおうか。
テーブルから、ピョンと飛び降りて、スタスタと部屋の扉へと向かう。
不思議そうに付いてくる二人を確認し、「ニャオーン」と一声鳴いた。
扉を開けてもらい、向かう先は、侯爵様の執務室だ。
昔、清掃時にうっかり知ってしまった事がある。
その時、侯爵様は「秘密だ」と言った。
その前に、見知らぬ猫が『執務室』へ向かう事をおかしいと、思ってもらえれば良いのだが………。
「ニャオーン」と一声鳴いて、執務室の前に座り、扉を開けてもらおうと、前足でカリカリと引っ掻く真似をする。
僅かに開いた扉の隙間から、一目散に目当ての場所に駆け出した。
そして、本棚の前に座り込む。
尻尾を左右に振り、侯爵様を振り返る。
私は仕掛け扉のスイッチの場所をしっている。
「ニャァ………」
「お前………、本当に?」
「ニャ」
私は、満足気に頷いた。
―――再び、応接室に三人。
アトラスが侯爵様に、今までの経緯と捜査への協力を依頼していた。
しかし、侯爵様は捜査協力に対して難色を示す。
『エリスが猫になった』という事実を受け入れがたいのだろう。
その上、『聖女』に対して不快感を表していた。
しかしながら、繰り返し協力を依頼するアトラスに、根負けする形で侯爵様は頷いた。
王妃のお茶会で失踪したエリスは、アトラスの侍女として働く事になった。とした。
これは、エリスがヴァネッサの側にいなくても不信に思われないだろうとの配慮だ。
アトラス付にしたのは、彼自身が「まぁ、何とでもなる」と言ったせいだ。
また、魔導士の協力で、エリスの解呪を行っている事も伝えていた。
「その代わり、その猫が本当にエリスだというなら、彼女を必ず人に戻して下さい。 エリスに何かあったら、カーラに申し訳がたたない。 くれぐれも宜しく頼みます」
そう言って侯爵は、深々と頭を垂れたのだった。
『カーラ』は、私の母の名前だ。
侯爵様が母の名を知っている事にも驚いたが、我がエリュクス伯爵家とビスク侯爵家の間にいったいどんな、謂れがあるのだろうか。
エリュクス伯爵家は、歴史だけは長い。 最盛期には、王室と縁を繋ぐ事もあったらしい。
ところが、ある時期から一切の交流を控え、表舞台から身を引いた。
そして、名ばかりの貧乏貴族になった。
両親が事故で亡くなった後、私達に手を差し伸べてくれたのが、ビスク侯爵夫妻だった。
母のいない私に、貴族の礼儀作法を教えてくれただけではなく、学校に通う機会を与えてくれた。 その上、卒業後も屋敷に住まわせてくれている。
また、弟の学費の援助も申し出てくれたのだ。
流石に、そこまでお世話になるのも申し訳ないので、お嬢様付きの侍女として働き、お給金を学費に充てているのだが。
そんな関係で、ヴァネッサお嬢様とは姉妹の様に育ってきた。
「友人を使用人の様に扱うなんて」と、良く思っていない声は聞こえていた。
しかし、私にしてみれば、恩人のお嬢様にお使えする事ができるのだから、有り難かった。
恩を返すことができるのだから。
それにお嬢様も「気心の知れた友人が、近くにいるのは安心だわ」と、気にも止めなかった。
しかし、母にどんな恩を感じているのだろうか。
母から、ビスク侯爵家と関係する話は、聞いたことがなかった。
ただ、アレキサンドライト騎士団の衛生班で、手伝いをしていた。としか聞いていない。
母も、治癒魔法が得意だった。
帰り際、広く開け放たれたテラスの先の庭先に、お嬢様の姿を見たような気がした。
その場所は、私の午後の休憩時に、お嬢様とお茶を楽しんでいた場所だった。
「ナォーン………」
思わず立ち止まり、お嬢様がいたように見えた方向に顔を向ける。
フワッと身体が軽くなる。
「大丈夫。ちゃんと、元いた場所に帰れるよ」
アトラス殿下だった。 私の不安を感じ取ってくれたのだろうか。
まだ、数日の付き合いだが、私の気持ちに寄り添ってくれる。
細やかな気遣いをくれる。
ハチミツ色の髪が、陽射しにとろける様に煌めいている。
私を覗き込む紺碧の瞳が、優しく揺れる。
身体の芯に響くような、心地よい殿下の声………。
いけない。 こんな気持ちを持ってはいけない。
私は貧乏貴族。 彼は王族。
普通ならば、声をかけてもらえる立場でもない。
ただ、私が猫だから、私を哀れんでいるから。私が事件に巻き込まれた被害者だから。
勘違いをしてはいけない。
この関係は、私が人に戻った瞬間に終わるのだから。
この日から数日後に開かれた舞踏会で、ディノ・コンコルディア子爵は、抱えられない程の薔薇の花束を掲げ、ヴァネッサ・ビスク侯爵令嬢に、交際を申し込んだのだ。