37 フィヨール
エリス=アテネです。
テオーセの女神は、自身の名前を口にしない縛りがありました。
ですが、現在エリスはアトラス殿下の妃として認知されているので、その辺りは曖昧になります。
呼び慣れている女神時代の名前『アテネ』を口にしたり、アトラス王子妃としての『エリス』を思い出したりと、女神たちも混乱しているでしょう。
強めの夏の陽射しが、フィヨールの海を照らしていた。
大きな窓が開け放たれた、風通しの良いフィヨールの神殿の広間、その広間の人工的な磯辺の前で、プシュケは呆気に取られていた。
人工的な磯に、確かに地下でi海とつながってはいるが………、その磯に一匹の一角海獣がひょっこりと顔を出していた。
今まで、こんな事は起きた事がない。
そればかりか、その一角海獣は一匹の猫を、ブリティシュブルーの猫を床に押し上げ、甲高い声を出していた。
「あんた………」
なにか言いたげな一角海獣に「悪いけど、私にあなたたちの言葉はわからないわ」と、断りを入れたプシュケは、その猫を腕に抱えた。
「この子、まさかとは思うけど、一応言ってみるわ………。アテネなのかしら?」
すると、その一角海獣は「そうだ」と、言わんばかりに、その頭を上下に振っていた。
どれだけの距離を移動してきたのだろうか。 その潮で濡れた毛並みは、バサバサで所々に毛玉が出来てしまっている。
それに、アチコチに傷が出来ていた。 他の野良猫に追いかけられ、傷つけれらのだろうか。
自分の腕の中でぐったりとしているアテネを、プシュケはマジマジと見ていた。
いったい、何があったのだろうか。
王都での話題は、少なからずこのフィヨールにも入って来る。
アテネ、いやアトラス殿下の婚約者となったエリスは、幸せに暮らしているものだと思っていた。
まぁ、処刑と落雷のショックで高熱を出してからは、記憶障害が出て人が変わったようだ。と、噂されているらしいが………。
プシュケは、ハッと顔をあげ、一角海獣を見やる。
「―――まさか、もしかして、あのエリスはアテネじゃないの?」
「そうだ」と、言わんばかりに一角海獣は、頭を上下に振る。
「何てこと………」
プシュケは途方に暮れる。 こんな、非現実的な話、誰が信じるだろうか。
いきなりアトラス殿下に「あなたのエリスはこの猫です」と、伝えた所でどうなる?
じゃあ、あのエリスは………誰?
「聖女アンネ………?」
チラリと一角海獣を見やるが、答えは見いだせない。
「困ったわね………」
アレスの聖剣では魂をはがす事は出来ても、入れ替える事は出来ない。 正確に言えば、入れ替えができると聞いたことがない。
本来は、魔物に憑りつかれた女神の魂を救済するために使う聖剣だ。 魔に堕ちないように救う剣だ。
プシュケの一角海獣の短剣も、たまたまエリスから『聖女』を剥がす事が出来ただけで、本来なら命を落としていたかもしれない。
それよりも今は、この衰弱した猫を救わなければならない。
(とりあえず、清潔にして保温かしら)と、その場を離れようとしたプシュケに一角海獣が何やら『臭い玉』を寄こしてきた。
自身の角でつついて、プシュケの近くに寄せてくる。 鼻に付くほど酷い臭いだった。
その一角海獣は、口をパクパクしだした。
「まさか、これを食べさせろ。と?」
指で摘まむのも憚れる臭いなのに、それをアテネの口に入れろと?
躊躇しているプシュケを急かすように、一角海獣が甲高い声を上げた。
「わかったわ。わかったから、止めて! 頭に響くわ」
プシュケは耳を押さえ、一角海獣に声を上げないように懇願した。
一角海獣が角でつついている『臭い玉』を、人差し指で摘まみ上げ、おそるおそる猫の口を広げその奥へと『臭い玉』突っ込んだ。
猫がゆっくりと咀嚼しだした………と思ったら「くさっ!」と、猫が喋った。
背中を丸め、今食べた物を吐き出そうかとするように、えずいている。
「何これ、臭いんだけど」
猫が顔を洗う仕草で、悪態をついている。 それも、懐かしいアテネの声で。
「あんた、本当にアテネなの?」
ブリティシュブルーの猫は、その黄金色の瞳をプシュケに向けた。
「プシュケ………」
そう言ったかと思うと、パタリと倒れ込んだ。
慌てて抱え上げたプシュケの腕の中で、猫のエリスは疲れを癒すかのように、眠り続けた。
―――数日後。
プシュケは、目の前で顔を洗っている『喋る猫』をマジマジと見ていた。
数日間、眠り続けたかと思えばいきなり「ナビルクに連れて行ってほしい」と言い出した。
理由を聞けば、彼女の母から「そこの祠を護れ」というお告げがあった。と、荒唐無稽な事を言い出す。
ナビルクと言えば、近々プシュケが夫と共に赴任する神殿があり、そこには確かに祠もある。
「連れて行くのは簡単だけど………」
「ダメなの?」
猫のエリスが、可愛らしくプシュケを見上げる。
「偽エリスが、ナビルクでの療養を希望してるのよ。 それで、王族ご一同さまがナビルクに来ることになっているの。 その準備が忙しくなるだろうから………」
黄金色に輝く瞳を見つめながら、数日前に届いた、おババ様からの書簡の内容を思い起こした。
『エリスがナビルクに行きたがっている。 何かが起こるだろうから、十分に気を付けて準備をするように』と。
スペリオール領への立ち入りを禁じられたエリスが、王族の権威を振りかざし、領内に立ち入る事へ反発する者たちの事だろうか?と、考えていたのだが、きっとこっちの方の事だろう。 偽エリスが何か仕掛けてくる。と言いたいのだろう。
まったく、人が悪い。
キョトンとした様子の猫のエリスは「私がナビルクに行きたがっているですって? 領内の立ち入りを禁止されたのに?」と、驚いている。
「王族となったエリスの言葉には、誰も逆らえないわ。 あっちのエリスが、その事を知っていて強引に進めたのか、知らないで言い出したのかはわからないけど………。少なくとも、私の知ってるアテネは、権威を振りかざして自分のワガママは通さないでしょうね。 確かにナビルクは療養に向く土地ではあるけれど、ほかにも避暑や療養に向く土地はあるからね」
そう言うと、プシュケは猫のエリスを抱え上げ「少なくとも、私は、今、貴方がアテネだと確信したわ」
と、猫のエリスに頬ずりをした。
「それで、偽物のエリスに会ってどうするの?」
プシュケにジッと見つめられた私は、答える事ができなかった。
「悪いけどアテネ。 女神の名を語っている以上、偽物のエリスを野放しには出来ないわ。 私がテオーセの女神で、このことを知ってしまったからには、彼女を始末することになっても、文句は言わせない」
ーーーその夜、プシュケと共に、彼女の夫キースにすべてを話した私たちは、今後の計画を立てた。
一角海獣の短剣で、私の身体を乗っ取った聖女アンネの魂を引きはがせたのだから、再度、同じようにしてみようと。
「出来ればアレス様の聖剣がいいんだけどね………」
そう言うプシュケの顔は、申し訳なさそうだった。
「失敗したら、あんた一生猫かもしれないけど、いいの?」
この計画を立てている間中、何度も問いかけられた言葉だった。
「かまわないわ。 私の身体で好き勝手される方が嫌だわ」
私はプシュケの瞳をまっすぐ見据えて答えた。
その時、ふと思い出した言葉があった。
女神の試練の時に、ブリティシュブルーの猫型魔獣に言われた言葉だ。
『立ち行かなくなった時は、その身を水に委ねよ』
「ねぇ、プシュケ。 万が一の時は………、上手くいかなくてエリスが死んだら、亡骸を水に流してくれる?」
「えぇ………」
プシュケとキースが悲しげに頷くのを見て、私は訳もなく安堵した。