26 祠の結界
漆黒から濃紺に移り行く水平線の際に、黄金の光が一筋現れた。
背後から抱えらているエリスは、背中にアレスの鼓動を感じ、なんとも言えない緊張感を味わっていた。
呼吸の仕方も忘れてしまったようで、少し息苦しい。
背後から伸びるアレスの腕は、服の上からでも、その厚みがわかる。
手の置所に悩んでいたエリスだったが、結局、自身の膝の上に綺麗に重ねる事にした。
とても、ぎこち無い。
黄金の光は、だんだんと燃える様な暁に変わり、二人の顔を紅く照らす。
「わぁ………」と、感嘆の声を上げる、その薄っすらと朱みを帯びたエリスの横顔を、アレスはじっと見つめる。
昨夜の器と、同じ顔、同じ声の彼女を。
でも、アレはエリスであって、エリスじゃない。
身体の奥底から湧き上がる、むず痒い感情をアレスは持て余し、エリスに回した腕に力がこもってしまう。
だんだんと白み始めた空を見つめていると、水平線からアレス様のような、輝く暁色の太陽が、辺りを黄金に変えゆっくりと昇ってくる。
「綺麗………」
声を上げたエリスは、思わずアレスの腕を掴んだ。
暁の光を浴び、見開かれたエリスの濃紫の瞳が、キラキラと輝く。
感嘆の声を上げたふくよかな唇から、可愛らしい白い歯が覗いている。
そのあどけない横顔から、アレスは目が離せない。
アレスは、エリスの横顔を見つめながら思い返す。
(こんな気持ちになったのは、いつ以来だろうか)
「アレス様………。ありが………」
「ありがとうございます」と、告げるために振り返ったエリスと、アレスの視線が交差した。
いつになく、真剣な眼差しのアレス様に、エリスは不安になった。
「外に出るなよ」
と、言われていたのに、私はテラスに出てしまった。
彼の忠告を、無視した形になっていた。
にも関わらず、彼は私のワガママに付き合って、早朝の寒空の下、日の出を見せてくれた………。
怒っているのだろうか。 呆れているのだろうか。
直ぐそこに、アレス様の顔がある。
彼の甘い香りが、鼻をくすぐる。
こんな近くで、彼をマジマジと見た事はなかった。
暁の瞳に私が映っている………。
その時、唇が触れた。
一瞬の出来事に、何が起きたのか………。理解できなかった。
驚きに目を見開いたままの私に、彼は言った。
「悪い。忘れてくれ」
視線を交えないように、細心の注意を払うようにして、アレス様は私を支え立ち上がった。
再び、私を見ることもなく、立ち去っていくアレス様の後姿を見ながら、私は呆然と立ち尽くす。
しかし、すぐに気持ちが逸った。
今、ここで声をかけなければ、もう二度と、普通に………、いつもの様に話すことが出来ない。
そんな気がした。
「待って!」
アレス様が、ぎこちなく立ち止まる。
そのまま、私に背を向けたまま、私の言葉の続きを待っているようだ。
「………忘れたくない」
そう。忘れる事なんて出来ない。
この、身体の内側から湧き出るような、ゾクゾクとするむず痒いようなこの気持ち。
一度は忘れようとした、この気持ち。
驚いたように振り返ったアレス様に駆け寄り、その腕を引っ張った。
少しよろけて前屈みになった、その胸にしがみつく。
アレス様と過ごした日々も、交わした言葉も数えるほどしかないが、私の中に積もっていっていた、アレス様への憧れと尊敬は、いつしか違うものへと変化してたらしい。
もう、自分を誤魔化す事なんてできない。
ところが、アレス様は私を優しく押し戻した。
「すまない。 待って欲しい」
頭が真っ白になった。
まさか、拒絶されるとは想いもしなかった。
まさか………、まさか………。
私には、新しい陽の光に照らされる、彼の後姿を見送る事しか許されなかった。
それから、どうやって部屋に戻ったのか、私にはわからない。
*****
―――海が荒れている。
いや、大型の魚が跳ねているように見える。
今日は島に渡り、結界を張る予定だった。
巫女たちに連れられ、小島の渡しに来てみると、困り顔の騎士たちが居た。
島まで渡っている筈の橋が破壊されているのだ。
その上、大型の魚ではなく、一角海獣が、海面を飛び跳ねていた。
「まぁ、これは………」
巫女たちも、驚いていた。
この様な光景は、見たことが無い、と。
騎士の一人が歩み寄り、
「アテネ様。申し訳ありませんが、今日の審査は出来ないと思います。 海獣も出てますし………。 ここは寒いので、神殿でお待ち下さい」
と言うが、私にには、海獣たちが喜んでいるように見えた。
呼ばれている気がした私は、騎士に断りを入れ、壊れた橋の側に近寄った。
『もっと先まで来て』
「もっと先?」
壊れた橋の先まで来い。と言う事なのだろうか。
私は、導かれるように橋を渡る。
「エリス!?」
アレス様の声が聞こえた。
でも、この子たちが呼んでいる。
橋の先まで来た私を、迎え入れるように、海獣たちが集まってきた。
『乗って』
数匹の海獣に囲まれて、一艘の船があった。
「船………」
『大丈夫だから』
恐る恐る、船に足を乗せた。
恐怖に脚がすくむが、あちらこちらから『大丈夫』『揺れないよ』と、声がした。
「………ほんとだわ。 揺れない………」
不思議な事に、陸の上かと思うほど、波を感じない。
馬で駆けているようだった。
「すごいわね。 貴方たち」
『カーラに頼まれたからね』
クスクスと笑い声が漏れ聞こえてきた。
『あの人も連れてくるね』
小島にたどり着いた私に、海獣たちが囁く。
振り返ると、橋の先で、アレス様が立ち尽くしているのが見えた。
胸が苦しい。
会いたくない。
だって、私は振られたのでしょ?
『駄目だよ。 立会人がいるって、カーラが言ってたもん』
私の心の声が聞こえるのか、悪戯っぽい笑い声も聞こえる。
みるみるうちに、アレス様を乗せた小舟が、海獣達によって小島に渡って来る。
どんな顔をして、彼に会えばいいのか。
まだ、普通に顔を見る事ができない。 辛すぎる。
私は、素知らぬ顔をして祠へと続いているであろう、雪が薄っすら積もった小路を歩く。
『頑張ってね』
『大丈夫だよ』
海獣たちの声が、小さくなっていった。