25 フィヨール・Ⅱ
「早く私の記憶を返しなさいよ」
「あなたの身体を乗っ取るのもいいわね」
ニヤニヤと私を見下ろす、あの女。
「あなたこそ、私の記憶を盗んでいるんじゃないの?」
震える声で、そう言い返す私に、あの女は言った。
「今頃気づいたの? そんなんじゃ、あなたの記憶なんてたいした事ないんじゃない?」
カラカラと声を上げて笑う彼女を、私は睨む。
「大人しくしていなさい。 準備が済んだら、すべてを返してもらうから。 あなたの物はすべて、私のものなんだから」
声をあげて笑う、あの女の声だけが、脳裏に響く。
(私が忘れてしまった記憶は、何なのかしら?)
嬉しそうに笑う声に耳を塞ぎ、懸命に思い出そうするが、私が何を忘れているのかさえ、わからない。
このフィヨールに立ち寄った記憶も、以前にアレス様と出会っていた記憶も、何一つない。
何一つ、引っかからない。
幼いころテオーセに母と訪れた事、両親が事故に遭ったときに預けられた事。
それは、おぼろげながら記憶している。
その時に会っていたのだろうか?
(まぁ、いいわ。 帰ったら聞いてみよう)
そう考えた私は、ふと思った。 誰に?
「わかった? あなたはそうやって、少しづつ少しづつ思い出を忘れていって、記憶全て、丸ごと私の物になるのよ」
私を見る私が、ニヤリといやらしく笑った。
*********
空気を切り裂くような悲鳴が上がった。
悲鳴を上げたエリスを、たくましい腕が抱きしめる。
泣き叫び暴れる彼女を、傷付けまいと必死に抑えているアレスの腕が。
「落ち着け、エリス。大丈夫だ。俺がいる」
唸りながら天を見上げるエリスの瞳に光はない。
空虚な暗闇が見える。
「馬鹿なことを。 お前がいたからって何になるの? 指をくわえて見ていなさい」
エリスであってエリスでない者は、その黒々とした瞳をアレスに向けた。
「そうか。お前は、そうか………」
ニヤリと笑ったエリスの器は、アレスの背中に腕をまわし、その首筋に唇を落とした。
チクリとした痛みと共に、カラカラと笑うエリスの器は「どう? もっと続ける?」と、アレスにしなだれかかった。
薄絹の上から、彼女の肢体の柔らかさが伝わる。
エリスを押さえる為に抱きしめていた腕だったが、いまやどうしていいものか、空を彷徨っていた。
「アレス様………」
エリスの声で、甘く囁き甘えるエリスの器は、アレスの首にその柔腕を回し、彼の顔に、唇に、顔を寄せていく。
彼女の吐息が鼻先にかかる、その時、ガクンとエリスの身体から力が抜け、のぞけった。
「エリス………。いったいどうしたらいいんだ………」
弛緩して仰向けになったエリスの身体を、そっとベットに横たえたアレスは、一人深い溜息をついた。
アレスは過信していた。
テオーセの加護がある領内であれば、エリスを守る事ができると。
女神の加護があれば、エリスが守られると。
ところが、近くにいても、側にいても、触れ合える程の距離にいた所でさえ、エリスの魂は何者かに取って代わった。
それどころか、絡まっていたはずのエリスの魂が、いまや、ほどけてきている。
この姿が、本来のエリスなのだろうか。
それとも、本当に乗っ取られていくのだろうか。
エリスを守るはずの、自分の隣で。
コンコンと響くノックの音が、アレスの思考を止めた。
「アレス様。 やはり、碑が破壊されていました。 封印したばかりでしたのに」
声を掛けたのはプシュケだった。
「それと、この建物全体に結界を張りました。 意味があるか、わかりませんが」
「いや、助かった。 テオーセの結界は意味があるはずだ」
穏やかな寝息を立てているエリスを見下ろしながら、アレスは伝えた。
「すまないが、私以外の男性の入室を禁じてくれ。 それと、私がアテネの側にいられないときは、プシュケが常にアテネと共にいて欲しい。 頼めるか?」
コクリと頷いたプシュケは、言いにくそうにアレスに尋ねた。
「その、アレス様は大丈夫ですか?」と、自分の首筋を指先でトントンと叩いた。
ハッとしたアレスは、「問題ない」と、首筋を手のひらで隠して立ち上がり、プシュケの横を通り抜けて部屋を出ていった。
その後ろ姿を見送りながら、「面倒を押し付けられたわ………」と、プシュケは呟いた。
「それにしても、嫌な感じの魂だわ。あなた、いったい何者?」
複雑に絡み合った魂が、同化しているのかと思うほどに融合してきている。
ほどいた方がいいのか、はたまた、同化を待つべきなのか。
ほどくにしても、ここまで絡んでしまったら、何かきっかけが必要だろう。
それが、何かまではわからないが。
「面倒だけど、とにかく穏便に………。さっさと女神の試練を終えて、出ていって欲しいわ」
プシュケは、そう呟いて、そっとドアを閉めた。
―――カタカタと窓を揺らす風の音に、エリスの瞼がゆっくりと開いた。
「ここは………』そう言いながら、彼女は辺りを見渡す。
真白な部屋に、必要最低限の簡素な家具が置かれている。
ゆっくりと起き上がり、床に足を下ろすと、その冷たさに身震いする。
側に靴を見つけたエリスは、それを履いて立ち上がった。
「そう言えば………」
アレスが「海からの日が昇るところが、テラスから見える」と言っていた事を思い出し、窓辺に近づき分厚いカーテンを、少しずらした。
ほのかに白む地平線を確認したとたん、冷気が部屋になだれ込む。
慌ててカーテンを閉じて、なにか羽織ろうとクローゼットを物色したが、思い直した。
着替えてしまおう。
そして、テラスに出て日の出を見よう。
窓越しに見ても、テラスに出ても、あの寒さなら変わらないんじゃないかしら?
そう、考えたのだ。
手早く着替えたエリスは、テラスの扉を開け放ち、外へ出た。
(失敗した)
確実に失敗した。
窓辺の冷気なんて、かわいいものだった。
きちんと着替え、クローゼットに入っていた厚手の外套まで着込んだのに、身体の芯まで冷えてきた。
(でも………、こうなったら意地でも日の出を見てやろう)
そう心に決めた私は、ブルブル震えながら、はるか彼方の水平線を睨んだ。
満点の星の下、少し赤身を帯び始めたばかりの水平線は、日の出まで、まだまだ時間がある事を伝えている。
(もうすぐ、もうすぐ、あの暁の色になるはず)
カチカチと音がし始め、歯の根があわなくなってきた。
あまりの寒さに、部屋に戻ろとするが、身体が言うことを効かない。
それほどまでに、身体が冷え切っていた。
「エリス?」
アレス様の声がした。階下からだ。 視線を真下に移すと、仄暗い闇に誰か立っている。
アレス様だ。
外灯に照らされた、驚き顔の彼がいた。
声を出そうとするのだが、口がパクパクとなるだけで、言葉にならない。
「来い」
異変を感じたのだろうか。
こちらを見上げたアレス様が、両手を広げている。
しかし、『来い』と言われても、身体が動かない。
覚悟を決めた私は、手摺から身体を乗り出し、ゆっくりと体重を掛けていった。
きっと、アレス様が受け止めてくれる。と、信じて。
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驚いたのはアレスだった。
「来い」と言ったが、本当に落ちてくるとは。
宙を舞う彼女を見ながら、昨日の事を、不意に思い出した。
(しまった。エリスの器の方だったら、どうする?)
腕の中にスッポリと収まったエリスを見て、どう声をかけるべきか悩んでいた。
「ありがとうございます」
恥ずかしげに見上げた彼女の瞳は、濃紫だった。
(器ではない)
アレスは安堵した。
そして、気付いた。 小ギザミに震えるエリスに。
「仕方がないな。 夜明けを見たいんだろ?」
アレスは、少し気になる事があり、外を見て回っていたのだが、もう、いい。
後回しだ。
エリスを抱きかかえたまま、近場の岩に腰を下ろすと、その膝に彼女を乗せ、自身の外套で包み込む。
エリスの身体の力が抜けるのを感じ、少し嬉しく思ったアレスは、彼女を支える腕に力を込めた。