21 ヒギエアの祭・Ⅱ
遠征から戻ると、今度はヒギエアの祭の準備が始まる。
休む間もない。
穢れ落としの為に、雪山に登り滝に当たらなければならない。
そんな私たちに同行するのは、アレス様と噂のクー様、そして、何故かディノだった。
噂のクー様は、氷の貴公子と言いう二つ名がぴったりの銀髪蒼目の貴公子だった。
伏し目がちな瞳が、色気を感じさせる。
アレス様とは、また違う雰囲気のある騎士だった。
浮足立っているのはローズだけで、寒さが嫌いなリリーは、変わらず不機嫌だった。
そして、またもやヴァネッサまでもが、不機嫌だった。
出発当日、いつも通り早起きをした私は、急いで支度を終えて、いつもの場所、泉の裏にある丘へに向かった。
吐く息が白い。 凍えるような寒さが身にしみる。
コートの合せをしっかりと閉じる。
今日は少し雲が多い。
眼下に広がる雲海が、まるで生き物のようにうごめいていた。
その雲海が、だんだんと色づいていく。ゆっくりと。
「アテネは、本当に夜明けが好きなんだな」
背後から聞こえた声に振り向くと、いつの間にかアレス様が、そこにいた。
心が跳ねる。
彼は私の首筋の鎖を持ち上げ、自身の色の石をコートの上に出した。
私の胸の鼓動が、指先から彼に伝わってしまわないかと心配になった。
その石が、反射する光が、アレス様の頬を薄く、紅く照らす。
「えぇ。アトラス殿下に教えていただいたんです。悩みが晴れると」
アレスの指先が、ピクリと震えた。
「猫だったときは、よく殿下と夜明けを見ていました」
視線を雲海に戻した私は、ふと懐かしくアトラス殿下との日々を思い出していた。
思い返してみると、共に過ごした時間は短いが、いつも私の不安な気持ちを、ほぐしてくれていたように思う。
本当に、感謝しかない。
紅く色づいていた雲海が、黄金色に輝きながら晴れていく。ゆっくりと。
ふと我に返り振り返ると、もうそこに、アレス様は居なかった。
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私たち五人を乗せた馬車が、雪道をゆっくりと上がっていく。
祭事を行う滝までは、数時間で着くというが、足元から上がって来る冷気に身震いする。
暖が取れる魔法石が、車内においてあるのだが、あまり役に立っていない。
リリーは「だから嫌だったのよ」と、悪態をついている。
私も、ここまで寒いとは思わなかった。
窓の外を見れば、アレス様たちが風に吹かれていた。
馬の呼気が、白い煙となって流れている。
彼らは厚手のコートを着込んでいるが、車内でもこれほどまでに寒いのだ。
王宮生活の長いディノは、大丈夫なのだろうか。と心配になる。
程なくして私たちは、滝近くの山小屋に着いた。
前もって手入れが成されていたようで、こじんまりとした室内は、清潔に整えられていた。
暖炉には火が入り、一本足を踏み入れると、気が抜ける程の暖かさに包まれる。
リリーは、暖炉の前にへたり込んだ。 もう、一歩も動かないだろう。
広間を中央にして、個室が配置されている。
個々の部屋も、同じ様に暖炉に火が入り、そして、清潔に整えられていた。
しかし、個室の扉は………、足りない。 六つしかない。
(アレス様たちは、どこで休まれるのだろう?)
そう、不思議に思っているうちに、扉の一つが開き、食欲をそそる匂いと共に、侍女たちが食事を運び込んできた。
中央の大きな丸テーブルに、続々と匂い立つ皿が並んでいった。
ところが、用意されたカトラリーの数が足りない。 アレス様たちの分が。
思わず、ヴァネッサと顔を見合わせた。
「さぁ、食事を始めましょう。 じゃないと、彼らがいつまでも食事にありつけないわ」
そう言うスノウの視線を追うと、窓の外でクー様が手を振っていた。
侍女に誘導されるままに椅子に腰を下ろすと、隣に座るローズが「私たちが、部屋に入ってから、アレス様たちがここで食事を取るのよ」と、教えてくれた。
「夜の間は、アレス様たちが交代でここで仮眠をとるの」と、フォークの先でテーブルを指し示す。
食事を終えた私たちは、互いに挨拶を交わし、あてがわれた部屋へと入る。
ランプの灯りがチラチラと辺りを照らす薄暗い部屋の中、私は急いでベットにもぐりこんだ。
室内に足音が響き、アレス様たちが入ってきたのが分かった。
カチャカチャとカトラリーか触れ合う音が響き、アレス様たちの会話が聞こえる。
内容まではわからないが、なにやら堅苦しい話のようだ。
私は、アレス様の耳障りの良い低音の声を聞きながら、眠りについた。
―――頬を撫でる冷気に身震いをして、目が覚めた。
まだ、陽は昇っていない。 壁にランプの炎が揺らめいていた。
起き上がり時間を確認すれば、夜明けが近い頃合いだった。
雪山の夜明けが見たい。という好奇心に負けた私は、足元から上がって来る冷気に抗いながら、一人着替えを済ませ、昨晩用意されたのだろう厚手のコートに手を掛けた。
そっと扉を開けると、暖炉の前のソファーに誰かが休んでいた。
規則正しい寝息が聞こえる。
彼を起こさないように、ゆっくりと外扉を開ける。
急いで表にでた私は、凍えるような冷気が吹き込んでくるのを、抑えるように扉を閉めた。
(凍るわ………)
猛烈に後悔した。 冬の早朝の寒さを甘く見ていた。
そして、こんなに寒い中、外で見張りをしてくれているアレス様たちに感謝した。
凍り付いたカチカチの雪の上に、ゆっくりと一歩足を踏み出す。 滑らないように。
地面だけを見て、一歩一歩ゆっくりと歩を進める。 転ばないように。
(滝まではすぐだったはず。 もうすぐ、つくはず)
好奇心と後悔と戦いながら足を運ぶ私の耳に、轟音が響いてきた。
滝だ。 もうすぐだ。
顔を上げた私の目の前に、月明かりに照らされた、青白く光る滝が現れた。
「はぁ………」
思わずため息が漏れた。 美しい。
見上げれば、濃蒼の夜空に煌めく星たち。その、滝の上が、うっすら薄紅に色づいている。
寒さを忘れた私は、期待に胸を膨らませていた。
どんな素晴らしい夜明けが見れるのだろうかと。
ーーーその時
「死にたいのか!」
叫び声が聞こえたかと思うと、後ろから羽交い絞めにされた。
アレス様だ。
急なことで、声も出ない。
そして、気がついた。
滝しぶきが、私の身体を凍り付かせていた事に。
厚手のコートは重く凍りつき、私の頬は、薄氷に覆われていた。
「まったく、お前は………」とアレス様は呆れながら魔法で氷を融かし、私を温めてくれた。
「どれだけ夜明けが好きなんだ?」と、私の手をひき、何やらガゼボのような建物に誘導された。
「ここからでも、夜明けは見えるから」とベンチに腰を下ろしたアレス様は、私の手を引き寄せ、自身の膝の間に座らせる。
アレス様は自分のコートの前を開き、私を包むように抱きしめる。
まるで、後ろからハグされているような恰好だ。 いや、ハグされている。
驚くほどの密着ぶりに、身体を固くすると「こうしなければ、魔法で温める事ができない」と耳元で囁く。
「風邪をひいたら、今日の儀式が延期になるぞ。 リリーを雪山に閉じ込めることになって、怒られるぞ?」
理解できるけど、理解できない。私の身体は、硬直をやめない。
「ほら、見て見ろ。 陽が昇る」
私の見上げる視界に、急激に色が移り変わりゆく、暁から黄金に輝く滝が飛び込んできた。
滝口から、放射状に伸びる光線が眩しい。
そして、氷の結晶がキラキラと輝きながら空を舞っていた。
ーーーエリスは、気恥ずかしさも寒さも忘れ、自然が織り成す風景の美しさに見入っていた。
アレスの吐息が、彼女の首筋に当たり、その腕に力が籠るのにも気づかない。
「アトラスとは………、見たことがあるか?」
「いえ、こんなに美しい景色は、初めてです………」
アレスは、エリスが景色に見とれているのをいい事に、彼女の髪を除け、その首筋に顔を埋めた。
(彼女は、アトラスを慕っているのだろうか)
アレスは、考える。 彼女の匂いに包まれながら。
初めてエリスに出会った時、彼女はブリティシュブルーの猫だった。
しかし、猫に重なるように立っていた魂は、今のエリスそのものの形を成していた。
あまりにも人外な美しさの魂に、アレスは魔物を疑っていた。
その美しい魂を、アレスは気に入った。
(自分の物にしたい)
瞬時にそう考えたアレスは、彼女に渡したのだ。自分の象徴の石を。
ところが彼女は、第二王子のアトラスの愛猫として過ごしていたというではないか。
猫の姿のままだが、寝室も共にしていたと聞いた。
その物言いから、王子を慕っているのでは?と、アレスは考え悩むのだ。
(今一時、今この一瞬だけは………)
口に出来ない思いを胸に秘め、気づかれないようにアレスはその唇を、エリスの首筋に静かに落とすのだった。




