15 テオーセでの日々
新しい朝が来た。 まだ、薄暗い。
私は一つ伸びをして、慣れた手付きで扉を開ける。
そのまま、ローズに教えられた通り、廊下の端、塔の階段を目指しテコテコと歩いていた。
横を通り過ぎる、侍女らしき人々は、皆、忙しいそうで、私には見向きもしない。
私もつい、小走りになる。
塔の階段を駆け上った先には、鋭く天を突く山々が見えた。
その山肌に見える雪が、うっすらとピンクに色づいていた。
(何処から日が昇るのかしら?)
私は、空の色合いを確認しながら、鋸壁に飛び乗った。
確かに風が強い。少し、肌寒く感じた。
山の端がうっすらと輝いてきた。
濃青の端が白く煌めき、桃色のような紅色のような不思議な色合いに移り変わる。
だんだんと、あの人の瞳の色に色づいていく。
「綺麗だわ………」
アトラス殿下も、この空を見ているかしら?
もう、殿下の、あの羽毛のようなベッドには寝転がれないのかと思うと、少し残念に感じる。
殿下の愛猫だった事が、遠い昔の事のように思えた。
「残念だわ………」と呟くと、猫の鳴き声がした。
そこで私は、はたと、気が付いた。
猫に戻っている、と。
一瞬、アトラス殿下のベッドが、フワフワのベットが頭を過ぎる。
いやいやいやいや。どうしよう。どうしたらいい?
とりあえず、自分のベッドに戻ろう。
ベッドの上にさえ居れば、猫に戻った。と、気付いてくれるだろう。
ヴァネッサなら………、きっと。
私は鋸壁から飛び降り、塔の階段を駆け下りて、廊下を駆け抜けた。
が………。
「アテネが逃げたわっ!」
ローズの声が、廊下に響き渡った………。
私の部屋から飛び出て、声を張り上げたローズが、そこにいる。
(間に合わなかった!)
と、思った瞬間、悟った。 ぶつかる、と。
瞬時に猫は、ローズを跳び越そうと思い切り跳ねた。
「キャッ!」
「ニャッ!」
ヴァネッサをはじめとした治癒魔道士の面々の前が、ローズの声に気づいて廊下を覗いていた。
その彼らが見ている前で、ローズは尻もちをつき、その頭の上には私、猫が乗っていた………。
ーーーヴァネッサに抱えられた私は、再び、苔むした神殿へとやって来た。
ローズは不機嫌だった。
「貴族のお嬢さんが逃げ出す事は、よくあるの。 悪く思わないでね?」
と、リリーが小声で教えてくれた。
ローズは、私が逃げ出したと思ったらしい。
ローズは、自身の早とちりと、みっともない姿を皆の前で晒した事が、許せないらしい。
なんだか、申し訳なくなる。
「おババ様、アテネが猫に戻りました」
「解呪は成功したんじゃないのですか?」
ローズとリリーが報告する。
泉の中央に佇む女神像に、祈りを捧げていたおババ様は、ゆくっりと私たちに振り向いた。
「誰が、『解呪は終了した』と言った? まだまだ手始めだよ」
そう言いながら、おババ様は私に近づき腕を伸ばしてきた。
既視感しかない………。
―――やっぱり………。
私はまた、水中に沈められた。
ずぶ濡れで水中から出た私は、再び人間に戻っていた。
渡されたタオルで身体を拭いていると、おババ様が言った。
「しばらくは、毎日、沐浴をした方がいいね。 きっと、明日の朝は、また、猫だろうよ」と、カラカラ笑っている。
私の日課が決まった。
朝食前に、テオーセの泉で沐浴をする事だ。
それから私たちは、治癒魔導師見習いとしての生活が始まった。
なぜ、治癒魔導師の修行をしなければならないのかは、さっぱりわからないが、ヴァネッサが何も言わないので、私は黙って従った。
ここにきて、初めて知ったことがある。
治癒士には二種類あると。
以前の私は、ただの治癒士だったが、今回、女神の祝福を受けたので治癒魔導師となるらしい。
有能な治癒士は『聖女』と呼ばれ、有能な治癒魔導士は『女神』と言われるらしい。
「どっちも、同じじゃないですか?」
そうローズに聞いてみれば、明確な違いがあるという。
「治癒士は自身の魔力のみを使用するの。 だから、魔力切れを起こすけど、女神の祝福を受けていると、『女神の加護』があるから、魔力切れを起こさないの。 自然の力を借りて、治癒しているのよ」
なるほど。 道理で、疲れないわけだ。
「なら、治癒魔法が使えるものは、皆、女神の祝福を受けれは良いのでは?」
「そうなのだけど………。皆が皆、祝福を受けられるわけじゃないのよ。女神に選ばれるのは、ほんの一握りなのよ。 それに、いろいろとしがらみがあるみたいで、おババ様も苦労なさってるの」
そう、耳打ちされた。
「それに、テオーセ信者しか女神の洗礼は受けられないし、普通の魔法も得意じゃないといけないわ。 治癒士は治癒特化型ね」
確かに。攻撃専門の魔導士には劣るが、それなりに攻撃魔法も防御魔法も使える。
攻守ともに得意なヴァネッサは、最も『女神』に近いのではなかろうか。と、勝手に思っている。
充実した日々を過ごしていた。
見知らぬスペリオール家に置いて行かれた不安は、とうに感じなくなっていた。
どちらかと言えば、侯爵に感謝していた。
ヴァネッサとの絆は強くなり、私たちは心身ともに強くなってきた。
猫に戻る回数も段々と減り、今では三日にいっぺんの頻度で、人間のまま朝を迎えられる。
ーーー今日も、猫になった私は、夜明け前のテオーセの泉へとやってきた。
おババ様はいなかった。
薄暗い、灯りもついていない泉は、冷ややかな空気が張り詰めていた。
夜目が効く猫の私は、泉の縁にタオルと着替えを用意して、泉へと飛び込んだ。
私の身体を、黄金の細かい粒子が取り囲む。
段々と人型を取り戻していく。 この瞬間、とても不思議な気分になる。
自分の魂が身体から離れて、上空から黄金の粒子が人型を形成していくのを、見下ろしているような感覚になるのだ。
そして、不安になる。
私は、本当は、死んでいるのはないのだろうか。
毎回、背筋が冷たくなる感覚を覚える。
ちゃんと、そこに、命あるところに戻れるのだろうか。
このまま、身体に戻れなくなり、死んでしまうのではないか。
二度と、ヴァネッサに会えなくなるのではないか。
もう二度と………。
私は知っている。 命のはかなさを。
指の隙間から零れ落ちていく、命のはかなさを。
腕を伸ばし、滴り落ちる水滴を見て安心する。
立ち上がり、足元に水滴が落ちるのを見て、安心する。
タオルで身体を拭き、その温かみに安心する。
私は、生きている。
今日は、いつも以上に不安だった。
誰かに側にいてほしい。 抱きしめてほしい。 安心させてほしい。
そんな感情をもったのは、初めてだった。
きっと、昨日聞いた話のせいだ。
『聖女』が現れたらしい。
「怖い………」
聖女が、私の記憶を狙っている。 それは、感じている。
記憶を取られた私はどうなるのだろうか。 死んでしまうのだろうか。
身体が小刻みに震えているのは、寒さのせいじゃない。
「怖い………」
一人きりで、聖女に立ち向かわなければならないのだろうか。
私は、まだまだ弱い。